ポケットにマスクを 探偵宇藤木海彦のケースブック

布留 洋一朗

第1話 上を向いて歩こう

 夜。七時を回ると八柏駅はすっかり人影が減った。

 横川祐太は、あらかじめの調査通り、駅員と監視カメラから目の届きにくい二階のベンチの上で「出番」を待っていた。朝夕にはなかなか賑わうこの駅も、時間が少しずれるとぐっと人が減る。特に今のような時期は誰も帰宅が早くなっていて都合がいい。

 変装はすでに済ませてある。暗褐色のブルゾンに暗色のパンツ。野球帽に紙袋。そして大きなマスク。


 彼は下にまだ背広を着たままだが、今夜は気温が低くて重ね着も苦にならない。そして雨まで降っている。ありがたい。特に霧雨のなのがうれしい。

 そう考えていると階下のホームに電車の入ってきた音が響いた。横川はいったんトイレに向かい、その窓からホームの様子を伺う。いた。目標の姿がちらっと見えた。エスカレーター前に並んでいる。よし。

 しかし、小さな人の波が押し寄せ、そのうち何人かがトイレにきた。ついうろたえ、多少不自然な感じで足踏みしてしまったが、彼を目に止めた人間はいない。

 焦らないよう自分を戒めつつ、改札口へと戻る。


 一瞬、目標とする女がおらず、焦ったが、目標は、彼の後ろにいた。完全に、ゲームに夢中になって、途中で何度も歩みを止めたのだろう。

 この馬鹿さ。まちがいない、彩だ

 明るい灰色のコートを羽織った女は、一心にスマホの画面をにらんでいる。

 わかれて二年近く経ったのに、彼女の肩からは横川が供給元であるところのショルダーバックがまだ下がっている。気に入ってくれてなによりだ。あれだけ憎しみあってバッグがそのままとは、女とは切り替えの上手な生物だ。


 息をひそめる横川の横で、彩は周囲も気にせず、ひたすらスマホ画面に見入っている。その顔は、仕事を終えたにもかかわらず、きれいにメイクされて乱れはない。どういう感覚だろう。わざわざ塗り直してから、ゲームにのめり込むか?

 卵形の輪郭に、上手に描かれた眉。かつて息をつめるように見つめたその顔は、いまや、

(どこが良かったんだ、こんなブス)との感想しか抱けない。彼を罵ったときの、歪んだ顔。彼を嘲ったときの冷たい顔。いずれも時間が経つにつれ、ますます憎く思えてならない。いまの不調も、すべてこの女に端を発している。


 彼のマスクに覆われた口元が暑い。知らず知らずに顔に血の気がのぼっているのだ。おそらく赤くなっているだろう。つきあいはじめた頃の彩は彼のこのくせを、生真面目な照れ屋なのがわかって可愛いと言い、そのあとは度胸がないと馬鹿にした。どろりとした怒りが横川の全身に満ち、度胸はきまった。

 ろくろく前も見ずに彩は、静かな東口へと向かった。

 そちらにはバス停もタクシー乗り場も飲食店もないが、わずかに歩くと駐輪場があって、彼女はそこから自転車に乗り換え、自宅へと向かう。そういえば、通勤用の電動自転車も、彼がうかうかと金を出したのではなかったか。


 勝負は一回切りだ。

 横川は静かに歩く速度を早めた。東口方面は更新工事がまだで、監視カメラにも乏しい。それに、今日の彼は例の「体当たり魔」そっくりに変装を施している。だいたい、本家が捕まっていないぐらいだから、駅の監視なんて穴だらけだと思う。

 なにせ横川は、二つ隣の駅で地図がわりにスマホを見つめていたところ、本家の「体当たり魔」に襲われかけた経験を持っている。たまたま駅舎改装工事のスタッフが横から現れ、相手はどこかへと去った。

 これから予定する行為がもとで警察に疑われでもしたら、ざまあみろだ。

 本家の「体当たり魔」に比べて背丈はほぼ同じ、体は若干横川が細い。しかし今夜は背広の上から、わざわざ隣県のホームセンターまで行って購入した同じ厚手のブルゾンを羽織っている。下半身だって黒いオーバーパンツを履いていて、体格差は、ほぼ外見からはわからない。


 しかし、度胸は決めたはずなのにひたすら喉が渇く。くじけそうになる気持ちを、あの女に受けた数々の侮辱を思い出し、震い起こそうとした。

(これが終われば、おれは正常になれる)

 切符売り場を通り過ぎ、屋根の端になる場所で、彩は突然立ち止まった。うろたえつつも、ゆっくりとビニール傘を開くふりをして、距離を保った。

 よし、今夜は冷静だ。


 彼女はすでに折りたたみ傘を出している。しかしバックから追加でなにやら取り出した。そして、器用にスマホと傘を持ったまま、出したナイロンの袋でバックを包んだ。雨避けのつもりか。

 ブランドバックを大事に扱うのは、もちろん供給元の横川に敬意を表してではなく、中古で転売するためだろうと、横川は苛立った。ますます、自分がATM扱いされていたとの自覚が高まり、怒りがさらに増した。

 横川も屋根から足を踏み出す。ちょうど人はおらず、そのまま飛び出したいところだ。

 だが、ここで雨に滑って転んだりしては元も子もない。足元はビジネスシューズのままなのだ。慎重に周囲を見回しつつ、彼女の背中との距離を詰める。

 バックをカバーに収め、傘をさした彩は安心したようにまた、スマホの画面をのぞきはじめた。よく飽きないものだ。

 考えると、傘をさしてカバンを持ち、水たまりを避けて歩きつつゲームを続行するとは、人間って大したものである。

 横川はすばやく目を周囲に走らせ、気配を探った。よし。あたりに二人以外の人間は、皆無だ。そして次の電車がホームに入り、ふたたび人の波がくるまで、十分時間はある。いまだ。


 彩の背中に体当たりした横川の顔は、真っ赤に紅潮していた。


 すり減って、どことなく歪んだ階段に足をかけていた彩は、あっけないほど簡単に階段を落ちて行った。

 昔テレビで見た、ある映画を思い出すほど派手に転がり落ちてくれたが、悲鳴はあげず、わずかに驚きの声を漏らしただけだった。倒れてすぐ、頭を打ったのかもしれない。そして特急電車の通過する音と、一時的に強まった雨音によって、転落に関わる音の大半はかき消された。意図したわけではないが、今夜は幸運ばかりと天に感謝する。  


 変な格好で階段の下に倒れた姿を見下ろす。下にも誰もいない。よし。急ぎ足で一気に階段を降りた。飛び跳ねる雨でズボンが汚れるのは、仕方ない。


 雨の中に転がるスマホは、カバーのせいか傷が入っただけのようだ。まだゲーム画面が表示されていたが、すぐに省電機能で暗くなった。急いで彩の様子を確かめた。目は閉じられ、首はただ横を向いているだけ。折れているようには見えず、せいぜい足があっちを向いている程度だったが、意識のないのは明らかだ。

 華奢な靴が片方、水溜りに落ちている。むろん止めを刺すつもりはない。罰を与えただけだ。おそらく天は、彼女には重傷を与えるという選択を行った。


 ひどい怪我というのはちょうどいいと、横川は口元を笑みの形に歪ませた。下半身不随が理想的だ。だが、急に不安が押し寄せて、手を伸ばし息を確かめた。手袋越しなので感じられない。首筋に手を伸ばして脈を確かめた。やっと弱々しい脈動が感じられた。

「血だ」おもわず、独り言を発した。側頭部から血が出ており、それが指についた。慌てて拭おうとするが、手袋を嵌めていたのを思い出した。これを捨てれば、大丈夫。

 そしてあたりにはまだ、誰もいない。やった。しかし、まもなく電車の甲高いブレーキ音が聞こえた。新たな電車がホームに到着したのだ。


 彩を放置した横川はすばやく体を翻し、これまたあらかじめ見込みをつけていた、階段下のひと目につきにくい暗闇に身を滑り込ませると、歩きつつ順に変装を解除して行く。帽子を脱ぎ濡れた上下を順々に脱ぐ。急ぎ足でまた別の暗がりへと移り、手に持つビニールバックから通勤用のショルダーバッグを抜き取る。そしてビニールバックに濡れたままの変装用具をぎゅうぎゅうと突っ込み、ショルダーバッグに押し込む。

 人の気配がした。立ち止まらずそのまま自動販売機の影にかくれる。横のゴミ箱にビニール傘を突っ込んだ。そしてマスクをとったところで、はっきりと話し声がした。

 横川は棒立ちなった。傘をさした年配の男が、携帯電話になにかわめきながら早足で去っていった。影に立つ横川には、目もくれなかった。


 びっくりさせるなよ。マスクをとりあえず背広のポケットに入れ、手袋を脱ごうとして、うっすらと血がついているのに気がついた。急に震えがやってきた。

 手袋をどうにか抜き取り、バックのサイドポケットから折り畳み傘を取り出す。掌に丸めた手袋を持ったまま再び歩き始めた。そして眼鏡をかけ直す。

 これでどこから見ても、「体当たり魔」などではない、全国に数百万人はいる、特徴らしい特徴のないサラリーマンの一人に戻った。


 そのまま監視カメラに注意しつつ駅舎を横切って、明るいところに出た。バス停とタクシー乗り場のある南口側だ。このままタクシーに乗って逃げたいとの気持ちが起こるが、彼も興奮しており、態度は平静ではないはずだ。記憶に残られてはかなわない。

 そのまま、さっきの電車に乗っていたのだろう、駅から吐き出される人々に混じり、駅前のややこしい道をさっさと横切る。そして都市銀の支店前に置いた、かなり痛んだ買い物用自転車に乗って、自宅へと戻った。距離はあるが、自転車が趣味の横川には苦にはならない。

 血のついた手袋は、ゴミ集積場に夜のうちに出してあるゴミ袋を見つけ、水たまりでゆすいでから、その一つに入れた。おれはこんなマナーの悪いゴミ出しはしないぞ、とののしりながら。


 しかし帰宅してから深夜、どうしても気になって、まずいとは思いつつ自宅マンションの部屋からロードバイクを持ち出し、八柏駅へ戻った。雨は止んでいた。

 どきどきしながら駅舎の周囲をぐるりと回る。あらためて見ると建物は新旧二つのエリアにわかれ、そこそこ大きい。じっとながめていると歪んで見えてきたので、その場所を離れた。

 あれから五時間以上は経過したせいか人はさらに少なく、救急車は見当たらない。だがパトカーは止まっていた。降りて様子を聞きたい衝動にかられたが、とんでもない。我慢して家に戻りアルコール濃度の高い缶チューハイを飲み干し、満足と不安の相半ばする気分を抱えたまま眠った。


 翌朝は四時に起きてしまった。昨日とはうってかわって、早朝なのにもう暖かい。テレビの天気予報でも今日は昨日より5度以上気温があがると言っていた。昨日済ませた「任務」のせいか、ただ暖かいせいか、神経のたかぶりがおさまらない。

 ふたたび趣味用のロードバイクを部屋から出し、八柏へと向かった。彼が早朝、ロードバイクで走るのはめずらしくないので、見咎められることへの不安はなかった。

 しかし、あの女がどうなったかを知る手段が思いつかない。駅前にパトカーはなかった。だが、彼女の落ちた東口階段に近づくと、なんともいえない感覚を横川は感じた。

 階段は、黄色と黒のテープで封じられてあった。女の姿はもちろん荷物も血の跡もないが、思わず見入ってしまった。もっと人が増えたらテープはとってしまうのだろうか。わからないが彼女が病院送りになったのは間違いないだろう。

 近年絶えてなかった達成感を覚えつつ、横川は自宅へと戻った。だが、いまからでは仮眠などとれないのはわかっていた。それに、ここで無理に寝たら次は寝坊に決まっている。

 すばやく準備し、血走った目のまま歩いて駅への道をたどり、いつもよりずっと早い時刻に電車に乗った。駅前のハンバーガーショップが開いていた。そこで時間を潰してから、横川は出社した。途中、何度もニュースを確かめたが、駅階段からの単独転落事故、それも夜に起こったのでは、翌朝のニュースになどならないらしい。どこにも見当たらなかった。


 大事を成し遂げ、生まれ変わった気がしているのに、雨上がりの街はなにもない。などとつぶやきつつ横川は晴れた空を見上げた。

 行き交う人々の顔はマスクに覆われ、考えがさっぱり読めない。しかし、不安だった気分は時間が経つにつれ明るくなっていった。一年以上悩まされた問題に一区切りついたのだ。こんなことならあれほど悶々とせずとも、もっと早くにやれば良かった。いや、準備期間をおいたので、成功できたのだろうか。などと考えてしまい、気持ちが仕事に戻らない。


 だが、彼の密かな高揚と充足感は、午前9時半をまわると終わりを遂げた。

 会社の周辺が騒がしくなり、警察があちこちに顔を出していると、噂が聞こえてきた。それも、制服警官ではなく私服の刑事らしい。総務にいるとこんな情報はけっこう集まる。すばやく情報を収集してきた女子部員の話に、彼は驚いた。

「えっ、殺害予告」

「そう。この並びにある企業に軒並み送られているそうよ」

「うちはないよな」

「どうせいたずらだろうけど、無視されたのも寂しいわね」


 横川の勤務先は、国道に面したビルにオフィスを持つ事務用品メーカーの支店である。一階に小さなショールーム、その奥が総務部などのオフィスとなっていて、営業関係は販売子会社も含め二階にまとめられている。なお、ショールームは営業を自粛中で、灯りはついているが、人はいない。

「予告されたのは、通りの端っこのMR生命保険と平田屋昆布だけど、とりあえず警察が軒並み事情を聞いているんだって」

「こんな時期だから電話でいいのに」

「無駄よねえ」

 適当に相槌を打っているうちに、ショールームの前に人影が立った。


 てっきり制服警官がくると思っていたのに、来訪者は噂どおり私服姿の二人組だった。横川にまた不安な気持ちが湧き起こった。

 ふたりともマスクをかけて顔がわからないが、男女なのはわかった。しかしこの男女コンビは、警官にしては意表をついて、かなり目立った。

 ひとりは、眼鏡をかけ短い髪をした、まだ若そうな女性。白いマスクをして白っぽいコート姿は白衣を着た医者に見えなくもなく、刑事というよりアニメに出てくる研究者風である。もうひとりは黒づくめの男だった。灰色の変なマスクをしているうえに、姿を遠目に見ただけで、

「でかっ」と、横川の部下にあたる佐野が言った。

 隣の女性が低いのではなく、男が大きいのだ。元バレーボール選手かなにかだろうか。ショールームのガラスドアにつかえるほど上背があって、足もむやみと長い。標準的な身長の横川なら、胸のあたりに相手の腰がくる感じだ。


 とりあえず庶務が応対し、なにかあれば横川の上司である総務部長が対応する手筈に決まったが部長はつい先日、支社に異動してきたばかりである。横川よりずっと愛想のいい男だが、支店メンバーの名前など、まだ覚えてはいないだろう。

 おれが呼び出されるかな、と不安な気分で横川はいた。総務のオフィスからは容易にショールームの様子が窺えるので、あやしい二人組が、応対に出た庶務と喋っている姿をついチラチラと見てしまう。

 横川はびくっと震えた。ショールームに置かれた商品に見入っているはずの大男が、横目でこっちを見ていた気がしたのだ。

 まさか、ね。待たされて苛ついているだけだろう。

 しかし横川は、念のためショールームから見えないよう、身体をずらせた。

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