第16話 もう一人

最近忙しすぎて、深夜残業の毎日だ。私が帰るときには職場の人は誰もいない。夜の冷え冷えした空気が部屋に漂っているのだ。終電なんて、乗れればラッキー。職場でもらえるタクシー券とはすっかり仲良しになった。職場の残業規制に引っかかり、残業代は1か月45時間分しか出ていないという。ふざけた話だ。この前、上司の指示で職場に付属している診療所に行かされて体調とメンタルを診察されたが、「まあ、無理しないでね」と言われ、「どうすればいいんでしょう」「さあねえ、仕事は減らないもんね」なんて虚しいやり取りをして、さらにストレスを深めたのだった。

書き出すと愚痴が終わらないな。こんな日々が続いて、寝不足、疲労がピークだった。

今日も終わらない仕事に飲み込まれて、一人で深夜、パソコンに向かい合っていた。時間の流れは速い。寒いな、と思い、パソコンの右下を見てみると、すでに2時過ぎだ。

集中が切れた。とりあえず、コンビニに行こう。こういうとき、コンビニは本当にありがたい存在だ。店員には頭が下がる。あんぱんとエナジードリンクを買った。深夜にこんなものをなんで買わなければいけないのか、と思う。だが、甘いものの力は偉大だ。疲れたときは本当においしい。

職場に戻ると、パソコンのロックが解除されていた。ロックし忘れただろうか。確かに誰もいないから、別に気をつけなければいけないわけではないが。

画面が開いたままのパソコンを見て、驚いた。コンビニに行く前に作業途中だった資料が完成している。パワーポイントの資料も、センスがない自分がいつも作っているより数段上手なような。

誰かが代わりに作業した?こんな夜中に、いったい誰が。もしかして、寝ぼけていただけで、ほぼ無意識のうちに自分で作っていたのか。ああ、そういうことかもしれない。

とにかく、やらなきゃいけない作業は幸運にも終わっていたので、今日はもう帰れる。よかったよかった。


結局、今日も作業が終わらなかった。提出した資料は評判がよかった。だが、作業依頼は次から次へと降ってくる。メールボックスの中のフォルダの中には、確認依頼、提出依頼、そしてとどめの、至急!明日正午締め切り。

気が付くと午前2時。またトランス状態になってほぼ無意識のまま仕事が終わらないだろうか。そんなばかげた期待を胸にコンビニに行く。

下まで来て、財布を忘れたことに気づいた。部屋に戻らないと。

部屋から人の気配がする。自分の席から遠い入り口からそっと覗くと、自分の席に誰かいるように見える。髪が長くて、青白い肌色・・・

私自身だ。

ドッペルゲンガー。子供のころ聞いたオカルト話。確か、ドッペルゲンガーとばったり会ってしまうと死ぬんじゃなかったっけ。今、財布を取りに行くと、間違いなく向き合うことになる。しかし、私がコンビニに行っている間に代わりに仕事をしてくれるなんて、そんなに都合の良い分身が存在するのだろうか。やはり寝ぼけているだけか。

しばらく隠れていたら、もう一人の私はあくびをしながら席を立った。お手洗いだろうか。パソコンには提出締め切りの近い資料が完成していた。


こんな日々がしばらく続いていた。もう一人の私のおかげで、最近は早く帰れるようになった。ただ、もう一人の私が仕事をする頻度が増えてきていたのだ。初めは深夜だけだったのだが、じわじわと現れる時間が早くなり、私がたまたま昼休みに長く席を外した隙に座られてしまったこともあった。仕事をしてくれるのはありがたいのだが、私が二人いると知られるのはさすがに都合が悪い。

どうも法則を考えると、私が職場のある階からいなくなるともう一人の私が現れるらしかった。そして、私が席につくと、もう一人は現れなくなる。

これに気づいてしまうと、すべきことはすぐにわかる。ずばり、朝だけ来て、すぐに帰る。荷物を持っていると帰るのがばれるので、持ってくるのを小さいトートバックだけにする。


もう一人の私は私よりも仕事ができるので、評価は上がり、周囲の目も変わっているような印象だ。残業時間も減った。私は、と言えば、毎日読書や散歩を楽しむだけ。念のため、会社の近くには行かないことにすればよい。

今日は何をしようか、と思って朝早速帰る準備をしていると、隣の部下が声をかけてきた。「あの、昨日の話ですけど、」

焦った。もう一人の私、何を言った。「何でしたっけ」

「飲みに、って話です。今週の金曜日にしましょう、係長が忙しくなければ、ですけど」

そんな約束があったとは。どうしようか。「ちょっと確認するわ。」

とにかく、もう一人の私に話してもらうしかない。しかし、勝手なことを。私は部下のプライベートには干渉しない主義だったのに。慌てて外に出たので、定期券やそのほか持ち物を机に忘れたらしい。戻りたくないが、これでは帰れない。

そっと部屋を覗くと、机の周りには誰もいない。ラッキーだ。だが、私の持ち物はない。必死に探していると、

「ここで何をしているの」

聞き覚えのある声にぞっとする。私だ。思わず振り向く。向こうも顔の色が真っ青になっていく。目の前が真っ暗になっていった。


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