挿話集(I detest you / Youthful / Isolation /Birthday of two years)

I detest you


 私は馬鹿が嫌いだ。つい最近嫌いになった。ここでいう馬鹿とは知識のない者/慎重さに欠ける者/雑であることを気にしない者のみっつを含めた言葉であり、代表例は私の元彼である。彼が私から別れを告げられたのは半月前で、その日は私達の二ヶ月記念日だったのだが、彼は御揃いの半袖シャツを買って私に渡した。並べばハートが作れる――、というものではなく、ただ英語が書いてあるだけの簡素なものだった。だが正直言って、こんなものをくれるくらいならまだハートのほうが良かった。

 そのベイビーブルーのシャツには、格好つけたフォントででかでかと、こうプリントされていたのだ――《I detest you》。

 私はすぐに、どういう理由でこんなシャツを贈ったのか問い詰めた。

「ねえ、なんの冗談のつもり? 記念日なのにこんなの渡されても笑えないよ?」

「え、なんの話?」と元彼――この時点では彼氏だが――は狼狽えた。本当に理解できていないという様子だった。「ただ、ほら、デザインお洒落だったから買ってきただけなんだけど……」

 その時点で私の恋心は冷めていた。シャツを見たとき、本気で傷ついていたのだ。その傷と呆れが合わさって、もうこの人のことを好きでいるのは無理そうだと思った。

 彼をビンタして、冷めたことを伝えて、別れた。あとでかかってきた電話は全て無視した。

「……本当、意味ググるくらいするだろ普通」

 タンスの奥から出てきた件のシャツを見て、私は大きくため息をついた。捨てたと思っていたのに、どうしてか出てきてしまった。どうしようか、これ――燃えるごみの日は来週だし、こんなものを買い取りに回しでもして、また市場に流通させてしまうのも嫌だし。もういっそ、雑巾にでもしてしまおうか。

 決めた雑巾だ、と私は引き出しから洋裁はさみを取り出す。

 そしてそこで、

「あれお姉ちゃん、何それ。切っちゃうの?」

 と――部屋の前を通りかかった妹に、声をかけられた。

「あ、うん。元彼に貰ったやつで、処分したくて」

「だったらさ、うちにくれない?」

「え? ……これ?」

 私は妹に、きちんとシャツのプリントが見えるように広げて見せた。

「それ以外にあんの? うち、こういうデザイン好きだよ」

「あ……そう」

 英語の意味を理解して言っているのか、それとも判らないけれど格好いいとか思っているのか――高二だし、きっと後者だろう。

 私の元彼と同じように、馬鹿なのだ。

 馬鹿な妹に呆れつつも、でも雑巾になるよりかはお下がりにしたほうがシャツからすれば幸せかも知れない、と思った。

 シャツだって、自分にこんな英語をプリントされたせいで刻まれるのは不本意だろうし――、なんて、何故かシャツの気持ちになりながら、私はそのシャツを妹にあげた。

「ん。ありがと、お姉ちゃん」

「どういたしまして。……そう言えばさ」

「何?」

「あんた、私があげたパンプス履いてる? ちゃんと」

「あー……あれねー。まだうちには早いなー」

「ったく……彼氏とデートするときくらいは履きなね」

「か、彼氏なんて居ないよ」と妹は頬を少し紅くして否定する。「友達しかいない」

「ふぅん……?」

 今のは怪しいな、と私は思う。まあ高校生だし、いつの間にかもう夏だし、恋してたって恥ずかしくはないけれど――でもそうなんだったら、その人の前でそのシャツは着ない方が良いだろう。何せ《I detest you》だ。

 そう伝える前に、妹は部屋から出ていってしまった。そそっかしい子だ。私もあんな可愛い時期があっただろうか、と考えてみるけれど、思い出したら恥ずかしくなってきたのでやめる。

「……そんな風に、あとから思い返すと恥ずかしくなる時期のことを青春って言うのかねえ」

 たぶん違うんだろうけれど、だからと言って語義を調べようとは思わない。賢いとか馬鹿とか以前に、それは不粋な行為な気がするから。

 どこからか蝉の声が聴こえてきて、花火大会っていつだっけ、とぼんやり浮かんで、空気中に滲んでくる暑気にうやむやにされる。



Youthful


 昔の彼氏が夢に出てきて、付き合っていた頃の夢で、私と彼氏は普通に仲好く森を歩いていた。いつもの森、とお互いに言っていたけれど、起きてみれば知らない森だった。けれどそんなことよりも、その彼氏が当たり前のように手を握ってきて、私も当たり前のように笑って受け入れていたことが、起きてからの私の頭を曇らせた。

 もう六年も前の、まだ大学生だった頃の彼氏。

 すっかり冷めて別れたのに、どうして今更。

 どうして――もう私は新しい人を見つけて、とっくに結婚しているのに。

「……あー、糞が」

 誰もいない午前五時半の洗面台だから吐ける悪態。夫の前ではこんな言葉は遣えない。遣うなと言われている訳ではないし、言葉遣いが粗かったくらいじゃ嫌われたりはしないだろうが、遣いたくない。

 洗顔を終えた私は時間を確認する。もうじき六時になる。なら、そろそろ起きてくる筈だ。朝御飯を作らないと。

 洗濯機の音をBGMに、私はベーコンエッグを作り始める。昨日の残りのご飯と味噌汁を各々の椀に注いで、お椀の間にベーコンエッグのお皿を置いて、朝食完成。洗濯物を物干し竿に掛けているとき、リビングに夫が入ってきた。

「あ、おはよ」

「おはよう。手伝おうか」

「大丈夫。それより、冷める前にご飯食べて」

 テーブルの前に座って、私が作った朝食を食べている夫の大きな背中を見ながら、私のなかの愛情を再確認。取り敢えず、今朝の夢が夫への不満感とかを表している、ということはなさそうだった。

 別に一点の不満もない訳じゃない。そりゃあそうだ、人と人なのだから。嫌だと思う部分、ちょっと人間として欠けている部分、それくらい私にも夫にもある。あっていい。見つけたときに指摘して、可能なら直せるように努力すればいい。私達はそういうことができる男女で、だから結婚できたのだ。

 そして、そういうことができなかったから、昔の彼氏とは別れたのだ。

 お弁当にお米を詰めながら、私はそう思った。

 夫の鞄にお弁当を入れてあげて、玄関先で見送ってから、私は伸びをする。

 あの人は私の理想だ。全てが理想じゃないけれど、所々が理想に敵っている。そして理想でない部分のことも、私の愛情は愛している。

私の愛ってそういうもので、自分が好きになった理由の部分さえ揺るがなければ、他の部分――駄目な部分や理解しきれない部分もチャームポイントのように思えてくるのだ。

 人間、百点なんて有り得ない。それくらいは中学生だって知っている。そしてその知見から、じゃあ妥協するしかないよねとなるか、失点すらも愛せる人と一緒になろうとなるかは人それ々。私は後者だっただけの話。

 だからこそ、あの彼氏とは別れることになった。

「……今から思えば、あれも愛だったのかも知れないけど――でも、詐欺でもあったのは確かだな」

 掃除機を持ち上げながら、呟く。もう遠い遠い日のことだけれど、あの頃の私がどんな気持ちで別れることにしたかは、ちゃんと覚えている。

 私と付き合うため、好かれるためだったとあの男は言っていた。けれど私からすればそれは、成績を上げてほしいからカンニングをする学生とそう変わらなかった。私の理想通りを装ったって、私の理想の人にはなれない。自分を装う人は私の理想なんかじゃない――なんて、今だからそう言えるが、昔は、付き合っていた当初は装われていることにすら気付けず、この人こそ理想だと信じていたのだけれど。馬鹿みたいに純粋に、恋は盲目さながらに。

 もしも彼がもっと完全な詐欺師だったら、私は今でも付き合っていたかもしれない。彼は私の理想像通りにいることが、猫を被りきることができなかった。優しさも頼もしさも、楽しさも計画性も、じわじわと目減りしていった。私の傍にいるうちに、どんどん人間として駄目になっていった――相対的に。

 もしかしたら、あの頃のことは私にとっての傷になっているのかもしれない。夫と過ごした時間が、傷口を塞ぎ痛みを消してくれたけれども、傷を負った記憶は消えていない。だから私はあの彼氏の夢を見たのかもしれない。

 それはもうどうしようもないことだ。

 嫌な想い出は一生つきまとうもので、そこに諦め以外の対処法はない。どうせ数ある傷のうちのひとつでしかないのだから――数ある記憶のひとつでしかないのだから、老化と共に忘却できることを祈りながら、ただ連れ歩くのみである。

 私もまだまだ若造で、これからも色々なことで傷ついたりするだろうし、愛だけじゃ癒えないものもあるだろうけれど――まあ、それでもきっと大丈夫。

 連れているものは傷だけじゃない。



Isolation


 舞城王太郎さんの『秘密は花になる。』っていう短編のなかに《二度言う返事は大抵嘘》って言葉があって、私はそれを読んだときに、十ヶ月ぶりくらいに膝を打ったのですよ。

 《二度言う返事》っていうのは、つまり《嘘嘘》とか《やるやる》とかそういう返事。私も十一年前、美苗ちゃんの世話を優都くんと潤夏から託されたときに「大丈夫大丈夫」とか「平気平気」とか「いいよいいよ」とか言ったなあ。あのふたりが死んでからは、それをすごく後悔しているけれど。

 そもそもどうして受け入れたんだっけ、どうして自分の子は自分で育てなさいとか言わなかったんだっけ。考えてすぐに辿り着くのは、誰も彼もがどこかしらで何かしら感じずにはいられない、負い目というやつだ。私はそのころ優都くん夫婦の稼ぎのお陰で生き延びていたし、家事だって今ほどはしていなかったから、大変そうだけど引き受けなきゃな、恩返ししなきゃなって思ったんだ。

 なら仕方ない。考えるまでもない。優都くん達が死んじゃったあとも遺産や保険を家賃の足しにしているのだし、そもそもふたりがいなかったら私なんてとうに野垂れ死んでいたんだ。仕方ない。

 仕方ないことだから、で納得すれば百パーセント受け入れられて、ありがたやありがたやと笑顔でストレスも感じないままやっていけるかっていえば、まあ人間そんな風にはできていなくて、どこかで発散したいなと思うこともあるけれど、それも無理だ。

 何せ遺産だけでは美苗ちゃんを養えない。

 高校二年生の美苗ちゃんは女の子だから色々とお金がかかる。服も化粧道具も必要だし千円カットなんて論外だし、それに吹奏楽部で楽器代も馬鹿にならなかった。彼氏もいたから交通費もたまにかかった。まあ最近、吹奏楽部を辞めて楽器も売ったけれど。それでも、部活をしながらしていたバイトも辞めたからそのぶんの収入がなくなってプラマイゼロくらいで、結局私が楽になることはなかった。

 私は美苗ちゃんを責任もって養わないといけない。請け負ったからには全うしないと駄目だ。辛くても、投げ出しちゃ駄目だ。駄目になりそうでも、ストレスを発散する予算もなくても。

 駄目になりそうでも、駄目になっちゃ駄目だ。



 タイムカードを押して、その直後に残業をさせられそうになるけれど固辞して、そのままパート先のスーパーで特売品をチェックして、もやしとほうれん草と林檎がとても安かったのでそれを買う。

 今日の晩ごはんは炒飯で、もやしとほうれん草は明日以降に使うだろうけれど林檎は?

 でも安いから。林檎なんて大して好きじゃないしアップルパイも作る元気ないけれど、安かったら取り敢えず買うべきだ。

 腕時計を見ると六時半で、徒歩で数十分の距離だからまだ余裕はある。私はスーパーの向かいの服屋に立ち寄る。予算がなくても少しの時間さえあればウィンドウショッピングができる。癒しとしては微妙だけれど、現実逃避ができない訳ではないので、少しでも回復するために。本当に少しの時間だけれど。

 ワンピースやスカートよりも、今日はTシャツが見たい気分だったからそのコーナーに行く。

 シンプルで無難で、ワンポイントだけっていうデザインも多くて、まあ売れるんだろうね、なんて思って目を細める。詰まんない服が好きなんだみんな。面白いシャツなんて笑いの求められる場でしか使わないんだ。そういうのはダサいんだ。ってまあ、私もダサいとは思うけど。思うけど、だからって無難な、シンプル・イズ・ベストばっかり選んじゃうのは人間として果たしていい傾向なのかしら。人間ってもっと毎日を面白おかしく生きてやろうって気持ちが大切なんじゃないだろうか。そして見知らぬ他人にも日頃から楽しんでもらうように、正しい意味での失笑を狙ったファッションを思い思いに、エブリディやるべきなんじゃないだろうか。何が言いたい訳でもないけれど、そんな益体もないことをぼんやり考えながら、ハンガーを手にとってくるくるして戻してを繰り返すのが、心地好いのよ。快いのよ。

 そうしているうちに、英語の書かれたTシャツがどんどん多くなっていって、これを買う人って絶対に意味知らないでしょっていうのもちらりほらり。英文がぶわあっと一面に連なっているもの、一見するとお洒落だけれど、拾い読みすれば結構宗教的なことが書いてある。読みもせずに雰囲気だけで買った無神論者は、きっと一生読もうともしないだろうから、入信の手助けにもなりはしない。なんのための文章? まあきっと、見てて格好いい気がするだけでも、私の人生よりかはよっぽど意味があるんだろうな。

 なんだか独りで勝手にブルーになっていると、隣に女の子がやってきて、シャツをぱらぱら捲っている。この子も悲しそうな、今にも涙と吐瀉物を床にまいてぐずぐずになって死んじゃいそうな目をしている。判る。精神的にめちゃくちゃ追い詰められている女の子のオーラ。何があったのかは訊かない。美苗ちゃんと同い年くらいに見えるから、放っておいてほしいに決まっている。

 その子が白い生地に褐返色で英単語が書いてあるだけの半袖シャツを手にとって、その英単語を確認した瞬間、何かが吹っ切れたように息を吐いて、レジの方に駆けていった、その背中は本当に壊れそうだった。

もしも転んじゃったらその拍子に、もろもろと崩れて、小さな砂の塊がたくさんあるだけ、になってしまいそうだった。

 私はその子が買いにいったシャツの英単語がどういう意味だったか、ちょっと考えて、すぐに解った。ああ、あの子は孤独になろうとしているんだ。もしくは、もうとっくに孤独になってしまったんだ。そう思うと少しだけしんみりして、そうしているうちに帰らないといけない時間。

 駅の近くは明るくて人もたくさんいたけれど、住宅街に入るとまだ夕方なのに、だいぶ疎らになる。今日はやけに寂しいし、疲れたし、お酒を呑みたいな、なんて思って家に帰る。



 帰ってみると誰もいなくて、そうだ、新しい彼氏とデートとか言ってたっけ、と思い出す。洗濯物を取り込んで洗い物をしてお風呂を沸かして、カップラーメンを食べて缶ビールを呑んで、そのまま布団で眠る。着信音で起こされて、携帯電話を手に取ると美苗ちゃんだ。

「もしもし」

「ああ、わかった。いいよいいよ」

「大丈夫大丈夫、どこかに泊まるから」

「うん。じゃあ、気を付けて帰ってきてね」

 私は電話を切って、パジャマから外着に着替えて、ちょっと片付けてアパートメントを出る。美苗ちゃんとその彼氏が到着する前にそれ等を全て済ませ、駅までぼちぼち歩く。夏の夜。蒸し暑くて、暗くて、虫がどこかで鳴いていて、どこに行くのか解らない車が大きな音を立てて通過する。バスともすれ違う。風はない。

 駅に着く。私は二十四時間営業のネットカフェに入って、個室の椅子に座って、机に突っ伏す。寝付けないでいると、隣の個室のカップルがどうやらセックスを始めたみたいで、その遠慮のなさに私は優都くん達を想起する。

 愛の営み。狭いアパートの部屋のなかだから、普通に寝室でしていても聴こえるのに、まるで明日世界が終わるって言われてたみたいに、いつもそこらじゅうでやってたっけ。懐かしい。

 居候している私はいいけれど、小学生だった美苗ちゃんは本当に可哀想だった。始まったらすぐに美苗ちゃんは家を飛び出して、家の近くのバスストップのベンチで終わるのを待ってたっけ。終わったよって教えに行くと、美苗ちゃんは黙って頷いて、すたすたとアパートメントに戻るんだ。

 そうして、美苗ちゃんが帰ってきても何にも言わない。美苗ちゃんも優都くん達も無言だった。いや、美苗ちゃんはまだ優都くん達のほうを窺っていたけれども、優都くん達は見向きもしなかった。きっと、出ていったことにも戻ってきたことにも気付いていなかったんだろうね。

 あの頃から美苗ちゃんはずっと可愛くて美人さんだったけれど、ずうっとずうっと、暗い目をしていたなあ。見る人が見れば魅了されちゃいそうなくらいに、深い闇が双眸にあった。でも今は、あの頃より睫毛が少し伸びた気がする。瞳を隠すためか、余計なものを見ないためかは知らないけれど。

 私は眠くなるまでインターネットをしていようかと思ったけれど、でもすぐに飽きてしまった。というか、調べたいものも知りたいものも頭のなかにないから何もできない。

 本当に空っぽの人間に対して、世界は実に冷たい。

 どうして生きているんだろう、なんて考えた。

 色々なことを考えながら、気を遣ったり疲れたりしながら、それでも姪っ子を養うためにあくせく働く人生に、意味とかあるんでしょうか。いや、美苗ちゃんが何かビッグな存在になったら意味があったと思っていいかもしれないけれど、たとえば寿命七日病とかにかかったら、もう全て無意味じゃないか。

 負い目に追われて終わる人生になんの価値があると言うの?

 もう家出したい、全部捨てちゃいたい、と過る。でもすぐに、そんなことしても楽になんてなれないよな、と思いとどまる。

 思いとどまれてしまうのも考えものですよ、実際。

 どうせ良いことなんてないのに。

 四十年生きてきて、良いことなんてなかったのに。

 いったい、何に縋りついているの?

 自問に自答をする前に、睡魔が降りて瞼も閉じる。私は沈む。どこへ? 知らない。知らないけれど。きっと現実ではないどこか。夢なんて見れてしまうくらい、現実離れした世界に私は行く。探さないでくださいって気分だけれど、それもどうせ今だけなんでしょ? 朝には起きて、私はアパートメントに帰るんだ、意味のない夢のない現実を生きるために帰るんだ、負い目のために帰るんだ。

 楽しくなくて幸せじゃないけれど、そういう現状に安心しているのはたしかで、それはきっと、そういう物語のなかに私がいるからなんでしょうよ。

 はいはい、OKOK。



Birthday of two years


 俺と妻と伊理恵の三人で列車に乗る。妻と伊理恵が並ぶ席。俺と三人ぶんの荷物が並ぶ席。ふたつが向かい合うボックスシートで、三人一緒に窓の外を眺めている。晴天の午前は陽射しも温かく、家族で出かけるにはぴったりだった。線路がトンネルを抜けるたびに伊理恵がはしゃいで、片手に持った黄色いクッションを振る。伊理恵はトンネルを抜ける瞬間、オレンジ色の光がぽつりとあるだけの暗闇の世界から一面に広がる外の光の世界にぱっと切り替わる瞬間がどうやら好きらしい。

 列車が停車すると、駅名を告げるアナウンスが車両内に流れる。それを聞いた伊理恵は、

「ここ?」

 とこちらを向いて言う。

「ここじゃないよー」と妻は少し楽しそうに言う。「あと、二個くらいあとの駅だよ」

「お腹すいた」

 伊理恵の言葉を聞き、妻は俺に目を向けて言う。

「もう食べちゃう?」

「そうだね。ちょうど停まってるし、早めのお昼ご飯にしようか」

 俺はそう言って、荷物のなかから俺と妻と伊理恵のおにぎりを取り出す。俺と妻はおにぎり四個で、伊理恵は大きなおにぎりをひとつ。

「おててを、あーせて、いただきます」

 伊理恵の音頭に合わせて、いただきます、と三人で手を合わせる。妻曰く、一緒に見ている教育番組のおかげらしい。きっと、命をいただくとか、手を合わせることが何を意味するのかとかまで伊理恵は理解していないだろうけれども――それでも親として、形だけでも率先してそういう儀式を覚えてくれたことは、とても嬉しい。

 三人とも食べ終わると、また伊理恵が「おててをあーせて」と言う。

 俺と妻がそれに従うと、

「いただきます」

 と伊理恵は元気よく言った。

「……伊理恵、食べ終わったらごちそうさまだよ」

「いただきます」

 頑として譲らない態度に、俺も妻も折れない訳にはいかなかった。いただきますと声を揃えて言って、おにぎりの入っていた容器を片付けながら、妻と顔を見合わせて苦笑する。

 まあ、おいおい理解していけるだろう。

 もう伊理恵は二歳児なんだから。



 九年前、n年東北大震災の被害を受けた時唄県へボランティアで訪れたとき、俺は妻と出会った。その頃俺は大学二年生で、彼女は高校三年生だった。八月の半ばで、夏休みだった。

 彼女は震災によって友達を亡くしてしまったらしい。俺はそういうことはなくて、ただ時間とやる気があっただけだった。

 一緒に炊き出しに混ざっているうちに仲好くなった。

 彼女は優しくて強い瞳をしていた。被災した子供達にも面倒見よく接していた。俺も子供が好きだったから、ふたりがかりで両親を亡くした子供を笑わせたこともあった。

 彼女の友人の墓参りに付き添ったとき、俺は花を手向けるその視線に何か特別な空気を感じ取った。ただの、仲の好い友達の墓に参っているだけのようには見えなかった。

 だから俺は、共同墓地を出たところで彼女に訊いた。

「あのさ。今、墓参りした友達ってどんな人だったの?」

「どんな人って……」彼女は腕組をして考えた。日に焼けた首を伝った汗が鎖骨まで流れたとき、彼女は答えた。「まあ、率直に言って理解不能だった」

「理解不能……?」

「うん。なんかさ、自分の人生を美しい物語にしたいとか言ってた子でさ。人間関係もそのために利用するような……うん、いい子ではなかったな」

 いまいち呑み込めないけれど、俺は取り敢えず先を促した。

「本当、おかしな子だったよ。でも美人だった。なんか、男受けのいい感じ?」

「はあ……」

「おかげで、初恋の人を取られたりもしたなあ」と言って伸びをした彼女の顔に、しかし負の感情は見受けられなくて、俺は少し不思議に思う。

「なんていうか――それでも墓参りに行くんだね。友達だから?」

「……まあ、それもあるけれど――さっき言った、美しい物語がどうとかってやつ、うちも全く共感できない訳じゃなかったから」彼女は俺の目を見て微笑んだ。「美しくなくたって、誰かにこうして墓参りされる程度の人生ではあったんだよって、言いたくて」

「……そうなんだ」

「あとはまあ、たぶんあの子はうちのこと嫌いだったし、うちも結構あの子のこと嫌いだから、嫌がらせ的な?」

「ええ……?」

 目も顔も笑っていて、冗談なのかどうか判らなかった。

 今も、どういうつもりなのかは判らない。

 判らないまま、俺と彼女は付き合って、俺が社会人になって収入が安定してから結婚して、二年前に伊理恵が生まれた。



 震災から十年経って、もう街並みと言っていいほど復興の進んだ景色を、高台から眺める。俺と妻の間で、両手を繋がれている伊理恵に妻は訊く。

「いりちゃん、見える?」

「うん」

「何が見える?」

「街。おうち、いっぱい」

「そうだね。家が、いっぱいある。ねえ、壊れてる家、ある?」

 伊理恵は街をじっと見つめて、「ない」と言う。

 俺はポケットから古い写真を一葉取り出して、伊理恵に見せる。

「伊理恵、これ、なんだか解る?」

「わかんない。ぐしゃぐしゃ」

「はは、そうだね。ぐしゃぐしゃだ。これはね伊理恵、パパとママが出逢ったときくらいの頃の、この街だよ」

 伊理恵は困惑した表情をする。

「全然違うよ」

「そうだね。ぐしゃぐしゃの状態から、十年かけてこんなに綺麗な街になったんだよ」

「じゅう……?」

「そうだよ。長い時間だね。みんなで力を合わせて、たくさん頑張って、この街があるんだよ」

「パパ、ママ、がんばった?」

「頑張ったよ。パパもママも、他の人達も」と妻は言う。

「えらいね」

 伊理恵の言い方が少し可笑しくて、俺も妻も笑う。

 三人で妻の友人の墓参りを済ませてから、旅館に戻る。

 晩ご飯のとき、予約の通り最初に小さなケーキが運ばれてくる。伊理恵の誕生日会をする。

 今日で二歳だ。

「ここまで生きててくれてありがとう」

「どーいたしまして」

 その日の夜、熟睡している伊理恵の寝顔を眺めていると、「ねえ」と妻が言う。

「何?」

「なんか……さ。意味、あったんだなって、思わない?」

「何が?」

「うちらの人生」

「……そうだね」

 人生に意味があったほうがいいかどうかは判らないけれど。

 それでも、ないよりはあったほうが、気持ち的に救われる。

 伊理恵の人生はどんな意味があるんだろう?

 とは、しかし考えない。

 きっと妻も、そんなことは考えていない。

 だってそもそも、人が生まれることそのものに意味があるのだ。

 そのうえでさらに長く長く生きて、いつの間にか大人になんてなってしまったら、きっとそのこと以上に美しい物語なんてないだろう。

 ならばその美しい物語のために、俺は全力を尽くそう。

 これから当分の間の俺の人生はそのためにあるのだろうし、そのために生きていこうと、俺は決めたのだ。伊理恵が生まれたその日からそう志したのだ。

 祈りよりも強いその気持ちは意志で、俺はそれごと愛している。



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光の華(2016年執筆) 名南奈美 @myjm_myjm

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