光の華 SIX 後編


 富良野美苗の葬儀には、僕も香美も行かなかった。というよりかは、行けなかった。そもそも葬儀の報せは僕達のもとには来なかった。僕達が彼女の訃報を知ったのはテレビが亡くなってしまった人達の名前を追悼目的で連ねたときだった。そのときにはもう土葬が執り行われた直後だった。香美はボランティアに赴いたときに墓参りをした。僕も一度だけ、大学の長い夏休みのときに行ったことがある。大量に並ぶ墓石の中に、富良野家の墓を見つけたとき、僕は少しだけ逃げ出したくなったのを覚えている。規律通りに墓参りを進め、墓の前に手を合わせたとき、僕はこんなことを言った。

 どうか空の上で幸せになってください。

 でも僕が言いたかったのはそんな言葉ではなかった。そんな誰でも言えるような当たり障りのない言葉ではなかった。もっと、およそ相応しくないような言葉だった。でも僕はその前に理性を働かせて、そんな無難な言葉を選んだのだ。そんな気がした。どうして、僕はそんな風に自分の気持ちを封じ込めてしまったのだろう。僕は僕のことがときどきよく解らない。引っ越しの見送りに行かなかった件だってそうだ、どうしてそんなことをしてしまったのだろう。知らない。解らない。あのとき何を言いたかったのかすら、覚えていないのだ。

 そんな僕は美苗さんのことをどれだけ忘れてしまったのだろう。

 晩御飯の準備があるから、と香美は帰っていった。一緒に帰ると香美に迷惑がかかりそうだったのでやめておいた。公園の入口で香美を見送ると、僕は深く息を吐いた。何だか懐かしすぎた。

 公園に戻ると、僕達の座っていたベンチはもう埋まっていた。女性二人が黙々と焼きそばを食べていた。僕はまた、祭りのやっているほうへと歩いて行った。まだ回っていない店を回ることにした。とはいえまだ何かを食べられるような気はしなかったから、ゲーム系の屋台に限られたが。玩具のダーツも、光る輪投げも、コルクの射的も、結果は芳しくはなかったものの、それなりに楽しかった。

 気が付くと夕時は過ぎ去り、辺りはすっかり暗くなっていた。提灯の温かな光がその本領を発揮している。子供達が減って、ある程度の年齢の男女が多くなってきている。高校生くらいのカップルも、夫婦のような二人もいる。ひとりで来ている人も結構いる。色々な人が集まっている。もしかしたらお盆の時期だし、ひとりくらいは幽霊が混ざっていてもおかしくないかもしれない。美苗さんの霊がもしもここにいたらどうしよう、と思う。美苗さんが死んだのは時唄県だけれど、歌醒県で生まれ育った彼女がここに霊としていても何等おかしいことはないように感じる。

 気が付くと、僕は少し外れたところから、賑わう人々を観察していた。富良野美苗の幽霊を見落とさないように集中して探していた。

 しかし、どれだけ人ごみを眺めていても美苗さんは紛れてなんていなかった。そしてそれを諦めると、先程までは宝物の埋まっている庭先のように思えた群衆がさながら変哲の無い土喰のように退屈な集合体に見えた。




 両親から頼まれていたもの――じゃがバターと焼き鳥六本――を買って家に戻る。帰宅時刻は七時半で、白米と味噌汁の用意が出来ていて、その食卓の中心に僕が買って来たものが置かれる。

 祭りはどうだった、と親に訊かれる。

「香美に逢えたよ。楽しかった」

 僕がそう言うと、そう、と頷いた。それから親は、香美ちゃんは友也と結婚すると思っていたんだけど、と少し残念そうに言った。

 香美の僕に対する好意は、そう何遍も会っていない親ですら気付けるくらいあからさまなものだったのだろうか。

 あの頃の僕には判らなかった。そしてきっと、今の僕が香美から同じような感情を向けられていたとしても、言葉にされるまで気付けないと思う。

 僕はきっと香美の恋人になるには子供過ぎるのだ。

 ふと思い立って、僕は親に訊いてみる。そう言えば今まで、覚えている限りでは一度も訊いたことがなかったことを。

「ねえ、二人ってどうして結婚したの?」

 両親は照れながらもちゃんと話してくれる。そして色々と知る。

 二人は社会人二年目くらいの春に、あの塔で出逢った。父はその日、会社で残業や嫌味続きで疲れ果てて、人生を諦めようとしていた。そしてそのための手頃な場所を探していた。すると四階建ての塔に行き当たった。あそこの窓から落ちれば一発だ、と暗い心の悪魔が囁いた。

 でも鍵を持っていないし、どうやって入ればいいのか判らない。そのときの父には窓ガラスを割る発想はなかった。あっても選ばなかっただろう、と父は言った。父は今まで、不良行為を働いたことが一度もなかった。だから器物破損なんてしたくなかった。汚点を残して人生を終わらせたくなかった。

 だから、この塔の持ち主はいつ現れるだろうと塔の前で立ち止まっていたとき、母に出会った。

 母はその頃、フリーのカメラマンをしていた。でもスランプ気味だったから、母の父――詰まり僕の祖父――の塔でリフレッシュでもしようと思ったらしい。

 母は父に話しかけた。

 塔に入りたいですか、と。

 父は突然、そんな風に声を掛けられて驚きつつも、そうです、と肯定した。母はそれを聞いて、ポーチの中から取り出した鍵で錠を開けた。父は、母がレバーを上げるのに力んでいたところを見かね、そこだけ手伝った。

 そして二人は塔の中に入り、梯子を使って四階まで登った。

 階段を使わなかった理由を訊くと、母は、頭がもやもやしているときは集中力の要る単純作業で気を晴らしたほうがいい、と言った。父はそれに倣っただけだった。

 登りきったとき、母は元気なものだったけれど、父は疲れ果てていた。どうして俺は肉体的にもこんなに疲れなければいけないんだ、と父はそのとき思ったとか。息を落ち着けた父は、ここからどうやって身を投げよう、と考えた。

 この塔の所有者らしき母の前では死ねない。絶対に止められる。なら、帰る振りをして目を盗んで窓を開けて……なんて考えていたら、母に急に手招きされた。父は思考の邪魔をされて少しだけ苛立ちを覚えながら、母のもとに歩いて行った。

 母は、父に出窓の外を見せた。あれは北東のほうだったかな、と母は言う。父は母の見せた景色を前にして、心の中の澱が引いていくような感じがしたのだという。

 何を見せたのか訊いてみると、父が答えた。

 それは、視界一杯に広がる、満開の桜だった。

 僕も見たことがある景色だから、容易に想像できる。春になると、塔の周りの木々はみんな桜を咲かせるのだ。

 一面の桜の樹。

 祖父があの場所に塔を建てたのはそもそもそのためなのだと、その昔祖父自身の口から教えられた覚えがある。

 父はそのように見せられるまで、桜が咲いていることに気付いていなかったという。人生に疲れ、どこかで飛び降りることしか考えていなかったから、視界が狭かったのだ。それが、母によって一気に拡げられた。

感動のあまり何も言えずにいる父に、母はこう言った。ほら、世界はこんなに美しいんだよ。この世は色んな綺麗なもので溢れているの。そして私達はその十分の一も知らないんだよ。なのに、どんなに辛いからって、自分から死んじゃったりしたら、ねえ、勿体ないと思わない?

 母は父が死のうとしていたことを見抜いていたのだ。だってなんか挙動不審だし表情が泥沼みたいだったしねえ、と笑いながら僕に語る母に、泥沼ってなんだよ、と父は言って笑う。父はそのとき、母に恋をしたらしい。この人とこれっきりになったら俺は絶対に後悔する、と直感したらしい。だからその場で連絡先を交換し、まずは友達から始めて、すぐに恋愛が始まって、あまり時を俟たずに婚姻まで結びついた。その間に父は別の企業に転職し、前ほど辛い環境ではなくなった。休みの日も増えて、年に四回くらいなら遠くに旅行ができるようになった。母は父と結婚してからもしばらくは写真家を続けていたが、僕を身籠ったのをきっかけに、引退したという。

この人と友也とスーパーのチラシとファインダーの向こうを見てたら目が足りなくなっちゃうから、と母は笑った。

その選択を微塵も後悔していないことが、それだけで伝わった。

 仕事で写真を撮ることがなくなったぶん、自分の好きなものを何も気にせずに撮れるようになった。母はそう言いながら、一旦席を外して押し入れのほうに行った。そして戻ってきたときには、分厚いアルバムを胸に抱えていた。

 アルバムの表紙には、『吉津家のアルバム』と丸い文字で書かれていた。一ページ目は、まだ赤ん坊の僕を抱く父と、隣で幸せそうに笑う母の写真が大きく貼り付けられていた。そこからずっと、僕の成長記録と家族写真が貼られていた。

 最初のほうは時に祖父も写っていたりする。僕が小学校に上がっても、進級するごとに両親と並んで立っている写真が撮られていて、背の伸び方が瞭然と知れた。僕は写真を眺めながら、撮ったからには過去にこういう状況があったんだろうけれど、でも撮った瞬間のことはこうして写真を見るまで思い出せないものなんだな、と思った。勿論、高校の卒業式くらいになると鮮明に思い出せるが。

自分の記憶にない瞬間でもこうして写真として残っているって不思議だ。

 想い出を形に残しておくことはとても素敵なことなのかもしれない。

 そして僕は気付く。僕は美苗さんの写真を持っていない。元々、携帯で誰かの写真や誰かとの写真を撮るタイプではないのが災いして、美苗さんの写真を収めようという発想がなかったのだ。


 だから、僕は美苗さんを忘れていくことしか出来ない。

 

 僕は胸が苦しくなる。でもそれは必要な苦しみなのだ、ということは解っている。僕は美苗さんを失うことしかできない。それでいいじゃないか。彼女はもう亡くなったのだし、喪ったのだし、だったら、あとはもう失うしかないのだ。喪い、失い、そして前を向いて歩くしかないのだ。それの何が悪いと言うのだろう? そもそも悪いとか、良いとか、そういう問題じゃない。僕は大人にならなければいけない。過去にしがみついていてはいけない。だからその助力となるのなら、この痛みだって、苦しみだって、僕には必要なのだ。

 アルバムの、僕が高校を卒業したときの写真に雫が落ちる。何の液体なのか、僕には判らない。親は心配そうに、友也どうした、と訊いてくる。ごめん。何でもないんだ。何でもないから。大丈夫。大丈夫だから。僕は大丈夫だから。心配かけてごめん。

 背中を撫でる手と、頭を撫でる手がある。

 どちらも温かく、優しく、愛おしい。




 その日の夜、僕は夢を見る。夢の中で、僕は塔の四階から花火を見ている。僕の手を握る感触があって、振り向くとそこには美苗さんが立っている。菖蒲色の生地の浴衣を着た美苗さん。

「花火、綺麗だね」

「そうだね」

「どうして夏って永遠じゃないんだろう」

「それは永遠なんてないからだよ」

「どうして永遠はないんだろう」

「永遠があったら、前に進めないからじゃない?」

「前に進むことがそんなに大事? 永遠がないってことは、大切なものも永遠に覚えていられないってことなのに」

「それでいいんだよ。全部覚えているには、人生はちょっと事件が多すぎるから。どうしても溢れちゃうし、無理矢理押し込んだら壊れてしまう」

「壊れることの何が悪いの? 忘れていくくらいなら、失っていくくらいなら、そっちのほうがよくない?」

「そうだね。失いたくない。喪うのも嫌だ。でも、この世に永遠はなくて、僕達は壊れることができない。壊れないようにするシステムは、僕達の意志よりずっと強い。受け入れなければいけないんだ」

「どうして受け入れなきゃいけないの? ねえ、綺麗なもの、素敵なもの、美しいもの、そういうもののために生きなきゃいけない、そういう主張あるよね。解るよ。でも、そのためにここまで苦しまなきゃいけないって、どうなの? それは本当に良いことなの?」

「苦しみだって生きていけば想い出になるよ。喉元過ぎれば熱さを忘れる。全部、大切な想い出になるんだ」

「想い出になっても、いくら大切でも、そのうち薄れて、褪せて、忘れていっちゃうんじゃないの? 物事があって、想い出になって、忘れちゃって、それって不毛じゃないの? 忘れる苦しみを繰り返すだけなんて、何の価値があるの?」

 僕はそこで黙り込んでしまう。

 何の価値があるのだろう? 解らない。いずれ失うと判っているものを手に入れることに価値はあるのだろうか? 忘れて進んで進んだ先に起こったことも忘れて、なら進む必要なんてないんじゃないか? 

 どんなこともいい想い出になるって言ったって、そのいい想い出さえも忘れてしまうのなら、どんなことも忘れてしまうのなら、そこに意味はあるのだろうか? 

 ある。

 あるよ。

「忘れてもまた思い出せばいいんだ。忘れることは失うことだけど、消えることじゃない。失ってもどこかにあるんだ。取り戻せばいいんだ」

 きっとそれは色々な方法があるだろう。

 両親のように写真として形に残すでもいいし、香美と話していたときみたいに、誰かと想い出話をすればいい。

 武藤先輩と逢ったときみたいに、もしも想い出の主役が生きていれば、再会するだけですぐに色々と思い出せてくる。

 忘れたら思い出せばいい。失ったら取り戻せばいい。

 同じ形で戻って来なくても、その変化すらも愛せばいい。

「でもそれじゃあ、結局は前に進めていないんじゃないの?」

「進めているよ。だって一度は、思い出す必要があるくらいに忘れたんだから。その時点で進めている」

「思い出しちゃったら、戻るんじゃない?」

「人生が戻れる訳ないじゃないか」

「でも、でも」

「でも?」

「……でも、忘れることは、寂しいでしょ?」

「大丈夫。何が起こったか忘れても、どんな形だったかわからなくても、どういう言葉だったか思い出せなくても。そのときに抱いた感情は、それが強い想いなら、絶対に憶えているから。脳が忘れても、心が憶えてるから。だから、安心して、生きて」

 大輪の花火が上がった。

 星のない夜の深い闇に、美しい閃光が咲いた。

 死んでしまいそうなくらいに。

 救われてしまいそうなくらいに――それは綺麗だった。

「美苗さん」

「友也くん」

「ずっと好きでした」

「私も好きだったよ」

「うん、知ってる」

 僕は知っている。今僕が対しているのは美苗さんじゃない。

「美苗さん」

「友也くん」

 それでも僕は言う。

 深呼吸のあとに――言う。


「さよなら」


 美苗さんが消える。

 花火が上がって咲いて落ちて失われる。




 お盆休み最終日、僕は両親に見送られ、朝早くから歌醒県を出る。列車の発車時刻が近づいたとき、親から鍵を渡される。祖父の塔の鍵。お守りにしてほしい、とのことだった。でも僕は鍵を返した。もう僕には必要がなかったのもそうだが、恋川のほうでなくしたら大変だし、それにもしも塔に何かあったとき、僕がすぐに行けるかどうかわからない……なんて現実的な理由で。

 それに――これは両親には言わなかったけれど。

 その鍵は僕の青春の象徴であり、青春とは得てして、置いていくものだと思うから。

 列車に乗って、席に座って、少しぼうっと益体のないことを色々思ってから、携帯のメッセージアプリの香美のチャットを開いた。

『帰ります。またね』

 それだけ書いて送った。恋川駅まで寝て過ごした。夢は見なかった。




 夕方に家に着いて寝る。そして起きて朝になって出社して仕事して仕事して残業して帰って寝てを繰り返す日々がまた始まる。でもそれだけじゃない。その途中で色々な人と関わるし、ずっと隣で仕事していた人の吃驚するような一面を垣間見たり、信じられないような人格の持ち主と話をしなければならないこともあれば、同じ出身地の人と地元トークで盛り上がったり、職場の人に恋してどうにか付き合えても細かい感覚の違いで駄目になったり、安いボーナスで買ったものが一か月後にはいらなくなっていたり、とにもかくにも様々な出来事がその日々に内包されている。あっという間に月日が経つ。大事なことをうっかり忘れたりする。嫌なことも良いことも馬鹿なことも起こる。死にたくなるようなことも起こる。生きていこうと思えるようなことも起こる。

 新しい命が生まれたりもする。

 社会人三年目のお盆休み、僕は香美から一歳の赤ちゃんを抱かせてもらう。二年目の頃には逢えなかったのだが、それがまさか産後すぐの時期でまだ入院中だったからなんて思ってもみなかった僕は、その報を受けたときすごく吃驚した。赤ちゃんは重たくて温かくて、命なんだな、と思えた。彼女の名前は伊理恵ちゃんというらしい。川島伊理恵。命名は旦那さんで、僕はそのときに旦那さんとも対面する。香美が言っていた通りの、何だか安心感のある男性だった。流れで飲み交わしたりして、二人の馴れ初めも聞いたりした……が、途中で香美が終わらせてしまったので最後までは知れなかった。

 まあそれはまたの機会でいいだろう。

 僕は香美に抱かれてすうすう眠る伊理恵ちゃんの顔を眺めながら、この子はどんな風に生きていくのだろう、と思った。この小さな小さな赤ちゃんは、いったいいつ大人になるのだろうか。誰と出会って、何が起こって、どんなことを考えながら成長していくのだろう。伊理恵ちゃんの人生はどんな物語を積み上げていくのだろうか。

 願わくは、伊理恵ちゃんにとってそれが、幸せなものでありますように。泣いたり悔やんだり混乱したり怒ったり、失敗したり間違えたり迷ったり停まったりしながらも、それでも最後にはいい想い出になるような、想い出として最期の日まで抱き続けていられるような、そんな人生でありますように。なんて、両親でも親戚でもない僕に祈られたところで、この子にしてみれば何の意味もなかったりするのかもしれないけれど……それでもせめて、図々しくも楽しみにさせてほしい。

 君の人生がどんな物語になるのか、僕に見せてほしいんだ。



<了>

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