光の華 SIX 前編

SIX さよなら




 二十三歳なんて全然大人じゃない。歌醒高校を卒業して恋川大学はきちんと内定の決まった状態で卒業出来てそのまま恋川県の株式会社鵜藻体に今年入社を果たした僕が胸を張って言えることなんてそれだけだ。中学生の頃は十八歳になったら大人としての自覚のあるちゃんとした人間になっていると思っていた。でも高校に入って、十八歳であるはずの三年生達の姿を見て別にそうでもないのかなと思い直したし、実際に自分が十八歳の誕生日を迎えたときも、大人としての意識なんて微塵たりとも芽生えなかった。いつの間にか十八歳になっちゃったけれどいいのだろうか、なんて思ったりした。そしてそれは大学に入学したときもそうだったし、成人式に出て親と酒を飲んだときも僕はまだ全然子供だった。というか高校生の頃とまるで変わっていなかった。顔は少し縦に伸びたけれどそれくらいだった。思考とか倫理観とか、そういうものは殆ど更新されないまま僕は大学を卒業して社会人にまでなってしまった。という話を会社の鹿金先輩にしてみたところ、

「まあそれは私にしたところでそうだから、そういうものなんじゃないのって感じかな。そりゃあ世間ずれはしたし出来ることも増えたし疲れる日も断然増えたけれど、でも高校の頃と同じ生活サイクルに戻されたら、きっと何も変わらないと思う」

 という返答が帰ってきた。鹿金先輩はまだ(ぎりぎり)僕と同じ二十代で独身だから、三十路を越えた人や家庭を持っているに訊けばまた違った答えが返ってくるのかもしれないけれど……でもまあ、基本的にはそうみたいだ。

 大学生になったからって、成人式で写真を撮ったからって、社会人になったからって……それを切欠に大人になれるという訳ではないらしい。

 結局のところ進級も就職もランクアップでしかないのだ。

 レベルアップはまた別の問題。

 経験値は自分から稼ぎにいかないといけない――僕はまだ、それが足りていないのだろう。

 ひとかどの大人になるための経験値が。

 あるいは子供から脱け出すための経験値が。

 僕はどうしてその経験値稼ぎを今までサボタージュしてしまっていたのだろうか。簡単だ。そんなことをしなくても大学生や成人や社会人にはなれてしまうからだ。詰まり、あんまり必要性がなかったのだ。必要じゃないことはやらない人間。僕はいつからそんな、生気の足りない人間になってしまったのだったっけ。考えて、すぐに答えが出る。美苗さんをうしなってしまったからだ。いや、僕が彼女を『うしなった』と思ったときにはとっくに僕のものではなかったのだけれど(というかきっと、真に彼女が僕のものだった時期なんて存在しないだろう。そもそも彼女は僕ひとりの手に負える人間ではなかった)、それでも、そのせいで僕の気力が失せてしまったのだという説を立てることは可能だ。いやさ、本当にそれは僕が勝手に意気消沈してしまっただけの話だったりするのだが――美苗さんの友達の香美だって、僕のその様子には呆れかえっていた。

「こんなこと言うのもなんだけどさ、そういうのって気持ち悪いと思うよ。いや本当。うちも結構ショックだし、普通に泣いたし立ち直るまでなかなか時間掛かったけど、なんで友也が落ち込む訳? 馬鹿じゃないの? 一ヶ月で気持ち切り替えられないっていうのも、まあある意味健全なことだとは思うよ。でもだからって、ねえ……ただの元カレでしかないのに、そんな目に見えて落ち込まれても、どう声を掛けていいか解んないんだけど。って今こんな風に言ってるけど。先生にも元気ないって心配されてるし。いっそ言えばいいんじゃないの? 僕がやる気も根気も活気も生気もないその訳は、一ヶ月前に別れた元カノが死んでしまったからですって」

 香美は僕にそんな厳しいことを言いながらも高校卒業までは僕の近くで友達として支えてくれた。香美は推薦が決まっていたから、僕の受験勉強を見てくれたりもした。僕が恋川に引っ越すときに、しっかりやりなね、と胸を叩いてくれた。

 僕はあれから何も変わっていない。

 六年前から、子供のままだ。





 お盆休みを四日間とることが出来た。僕は恋川のアパートメントから、列車で実家に帰省することにした。恋川県から歌醒県までの数時間の間を眠って過ごした。別に夢は見なかった、気がする。

 歌醒駅から乗り換えて急行列車で所以駅に向かう。十数分で着く。駅のホームで両親が出迎えてくれる。

 見ないうちに大人びた、と言われる。成長して帰って来てくれて嬉しい、歌醒は暑いだろう、香美ちゃんも元気だよ、と言われる。

「香美かあ。懐かしいなあ、どうしているんだろう」

 香美とは大学生の頃はメッセージで会話とかしていたけれども、僕が卒業論文やら就職活動やらで忙しくなってからは全然何もなくなっていた。就職した、という報告を送ってみても返事はなかった。今、どこで何をしているのだろう。両親の口ぶりから察するにこの町からは出てなさそうだけれど……と想いを馳せていると、両親が言う。

 そう言えば、香美ちゃん結婚したよ。去年くらいかな。大学中退して専業主婦だってさ、このご時世に凄いよねえ。

「あ、そうなんだ」

 と僕は流すけれど、何も教えてくれなかったのがショックじゃないとは言えなかった。

 所以駅からバスで家の近くまで来て、懐かしの実家に招き入れられる。経済状況的に両親に来てもらってばかりでまったく帰省していなかったから、実に六年ぶりだ。壁紙が少し新しくなったり冷蔵庫が買い替えられたり僕の部屋ががらんとしていたりする以外は、殆ど昔のままだった。

 近況を報告しあって、久し振りの手料理を振舞われて、少し感動する。本当に久し振りに実家の浴槽に浸かる。アパートメントにはベッドも運んだから、僕の部屋だったところには寝具がない。押し入れから枕と布団を引っ張り出してもらう。寝る前に両親のマッサージをさせてもらう。断られそうになるけれど、押し切ってやってみたら感動気味に感謝される。

 僕も嬉しい。

 僕はその間、ずっと笑顔だった。両親もずっと笑顔だった。僕達は仲が好かったから、こういう風にこの家で団欒しているのが一番落ち着けるのだ。

 布団に入る頃には午後十時になっている。僕は消灯して布団を被って、疲れているからそのまま眠ってしまいそうだったけれど、なんとなく眠気に抗いたいと思う。

 でもやっぱり疲れていて、僕は香美に『久し振り。今日から一週間帰省しています』と送るだけで寝てしまう。

 次の日、目を醒ますと既読がついている。





 夏は成年にも未成年にも分け隔てなくそのポテンシャルを発揮してくれる。日射の熱気と蝉の騒き音。夏の匂い――室外機の匂い。汗の匂い。僕は無地の半袖シャツと薄手のパンツを履いて外に出る。午後十三時。今日はとくに何もないけれど、明日には神社で祭りがあるのだという。花火大会には間に合わなかったけれども、明日のほうには参加しておきたいと思っている。そういうのに顔を出しでもしなければ、折角の休みでも持て余してしまうだろうから。

 明日はさておき何もない今日、僕は六年ぶりに塔に向かっている。親から鍵を貰って、坂道を登り始めている。曰く、あの割れた窓は僕のいない間に修理してしまったらしい。あれをあまり放置するとどこの誰とも知れない馬鹿が侵入したり近所の子供が秘密基地にしてしまったりという可能性が生じるから、別に僕はそれを咎めようとは思わない。少しだけ寂しいとは思う。

 僕は坂をひとりで登っている。隣には香美も美苗さんもいない。僕は美苗さんと離れ離れになってしまってから一度もあの塔に足を踏み入れていなかった。登る動機がなかったし、登らない動機は幾らでも思いついたからだ。

 次の年の夏だって、僕は塔から花火を見ようとはしなかった。香美もそんな提案はしなかった。家のベランダから見物するに留めた。

 だから、あの塔に入るのも。

 どころか、この坂を登るのだって――六年越しだ。

「……にしても、こんなに長かったっけ」

 僕は坂の途中で一息つく。既に汗で全身が濡れ鼠になっている。分け隔てなくとは言ったけれど、これは明らかに、六年前より暑くなっている……。

 地球温暖化って現実だったんだな、なんていい年して思ってみたりする。

 僕は自販機に五百円硬貨を投入して、全てのランプが灯ったのを確認してから飲み物を選び始める。六年も経てばだいぶ中身が入れ替えられていて、六年前好きだったカフェオレとかも姿を消していて、なんとなくミネラルウォーターが多くなっているように思えた。見たこともない飲み物とかはない。取り敢えずアクエリアスを買って、がどんと受け口に落ちるペットボトルをふと十秒間見つめてみる。じいっと、ぼうっと。もしかしたら暑さで朦朧としていたのかもしれないが、そんなの僕には判らない。

アクエリアスのボトルを取り出してキャップを開けて少しずつ飲む。舌も喉も潤うと、僕はボトルを左手に持ち替えてまた歩き始める。坂の上のほうから、若い男の子が自転車で駆け下りていく。背丈的には中学生くらいに見えるが、服のセンスが高校二年生くらいの落ち着いた感じだったのでよく解らない。顔はよく見えなかったが、僕のどの知り合いにも似ていなかったと思う。

もしも僕が高校生の頃に自転車を使っていたら、見知らぬ彼に過去の自分を重ねたりしたのだろうか。だとしたら、使っていなくてよかった。あの頃のどうしようもない(今も言えたものではないが)自分と罪のない見知らぬ男の子を重ねるような真似をしたら地獄に落ちる。

 僕は結局、馬鹿だったのだ。

 今になっても治っていないくらい、深刻な馬鹿だった。

 塔の前に辿り着いて、僕はポケットにしまった筈の鍵がないことに気付く。どうしよう。折角直してもらった窓ガラスを割る訳にもいかない。腕を組んで立ち往生していると、背後から声を掛けられる。

「鍵、落としましたよ」

 振り向くとそこには武藤先輩が立っていて、でも鍵を受け取ってお礼を言うまで二人ともお互いに気付けない。

「もしかして、吉津くん? 俺だよ、覚えてる? 武藤武藤」

「はい、武藤先輩ですよね? 高校の頃のバイト先の……久しぶりです。元気でした?」

「まあね。そっちは?」

「今年サラリーマンになったばっかです。あれ、というか先輩って、隣の駅に住んでませんでしたっけ? どうしてこんなところに」

 さっきまで彼のことなんて全く考えていなかったのに、再会した瞬間に色々と思い出せてしまうから不思議だ。

「ああ、引っ越したんだよ。坂の上のアパートにね。大学出て就職してからもしばらく実家で生活してたんだけど、結婚を機に家を出ることにしたんだ」

「ご結婚なさったんですか。おめでとうございます」

「どうも。吉津くんはそういう予定とかないのかい?」

「それが、大学時代に彼女を作ったりもしたんですけど、あんまりうまくいかなくて。まあ、人生は長い……ですよね?」

「さあね。吉津くん次第だよ、何もかも」

 こういうところ変わらないよな、と僕は耽る。口癖みたいにアドバイスするところ。六年経ても変わらない。

「吉津くんの実家も坂の上にあるのかい?」

「いえ、下りです。この鍵は、その塔の鍵ですよ」と僕は目の前の塔を指差す。「祖父の土地なんです。帰省がてら、登っておこうと思って」

「へえ、吉津くん家のだったんだ。近所の人に訊いたけど、その塔って結構有名なんだよね。怪談も作られたくらい」

「怪談? どんなのですか?」

 と僕は何も考えずにその内容を聞いてしまう。


 夜の塔には幽霊が出る。女の人の幽霊で、白い着物と肌に長い黒髪という定番のデザイン。夜の塔の一階の窓ガラスを割って電気を点けないまま四階まで上がると、いくつもある出窓のひとつが開いていて、その側に幽霊がゆらりと立っている。彼女と口をきいてはいけない。彼女に手で触れてはいけない。彼女を強く睨んではいけない。どれかをしてしまったら最後、彼女の側の出窓が大きな音を立てて割れ、そこにいる子供達をみんな窓の外に吸い込んで落として殺してしまう。もしもルールをすべて守ってその場から逃げることができても、そのことを誰にも話してはいけない。話せば最後、幽霊が話した人の口を塞ぎに枕元にやってくる。


 僕は武藤先輩と適当に世間話や思い出話をしてから別れて、塔に入る。錠の鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくりと捻る。音を立てて、錠が落ちる。扉の横のレバーを押し下げる。扉は唸りながら引き上げられ、収納される。六年前よりも軋んでいる気がした。僕は中に足を踏み入れる。埃臭い。まあ、僕が時折掃除したりできたのは、学生と言う暇な身分だったからであって、両親はまだ現役で働いているのだから、わざわざ坂の上まで登って四階分を一日かけて掃除したりするのは難しいだろう。時間的にも体力的にも。僕は明かりをつけて、怪しい足跡等はないことを確認してから階段に向かう。

 割合すぐに四階まで辿り着く。

 まだ昼なので、幽霊はいない。いやさ、ここでは誰も死んでいないのだからいる筈もないのだが。

 北東の出窓も綺麗に張り替えられている。まるでハンマーで破壊されたことがあるとは思えないほどに。僕は出窓を開けて、頬杖をついて景色を眺める。

 夜でもなければ花火をやっている訳でもないので、僕の目の前に広がるのは夏の新緑と青い空くらいのものだった。

 僕は携帯のメッセージアプリを開きながら、まったく香美は何てことをしてくれたんだ、と思った。





 富良野美苗の死因はn年東北大震災で発生した津波に巻き込まれてしまったからだった。そのとき富良野美苗は東北地方にある時唄県の拍子町に住んでいた。都会寄りの田舎って感じの街で、でも富良野美苗はその町の魅力を十分に理解することは出来なかっただろう。ひとつの地域を理解するには一ヶ月じゃあとても足りない。西寄りの歌醒県から東北の時唄県にどうして彼女がいたのかと言えば、彼女と共に二人で暮らし、幼少期より生活を支えてくれた伯母・富良野享子の突然の自死を発端とするべきだろう。

 保護者を亡くして、富良野美苗はあの201号室に独り取り残されることになってしまった。そして両親も保護者も喪った彼女は、時唄県の親戚の家に引き取られる運びになってしまった。アルバイト等で自活をするには、時間はあっても精神が十全ではなかった。自分の人生を美しい物語にする、という指針を揺さぶられた直後にずっと一緒にいた伯母の遺体を見てしまった彼女は、およそ正常な精神状態とは言えなかった。

 引っ越しは八月中に行われた。そして時唄県に住み移った富良野美苗は、n年東北大震災の犠牲者として親戚一家と共に落命してしまった。震源地がちょうど時唄県で、同県は海に面していたから、津波の被害も尋常なものではなかった。

 あれから六年後の今も、復興は続いている。香美は高校三年生の夏休みに炊き出しのボランティアに行ってみたりもしたらしい。僕はその報告を受けたとき、どうだった、とだけ訊いた。

 香美は言った。

「正直、現地に行ってみてもここで美苗が死んじゃったんだって、そんな風には思えなかった。全然そんな気がしなかった。美苗は、本当はもっと違う意味不明な死に方してそうなんだよね。ってまあ警察の人が津波で死んじゃったって言うならそうだったんだろうけど、さ」

 僕は思う。震災が起きて、迫りくる津波から逃げおおせることが出来なくて、そのあっという間な死に際で、美苗さんは何を思ったのだろうか。彼女は自分の人生に満足しただろうか。

きっとそんなことはないだろう。彼女の求めた死に方は、死は、もっとプロットのある、ある種予定調和のご都合主義みたいな側面もあるような、劇的な死だっただろう。もしかしたら震災の前にそんな心は入れ替えたかもしれないけれど、それでも災害でみんなと一緒に死にたいという人は極少数だろうし、彼女は絶対にそんなタイプではなかった。彼女はきっと、自分の死を察したとき、ひどく絶望したことだろう。他の犠牲者と同じように絶望し、それと同時に、他の犠牲者とは違う独特な絶望を感じたことだろう。だって、これが物語だとすれば、こんな結末は唐突で理不尽で、美しい物語だったとはとても言えないだろうから。

 あるところにひとりの女の子がいました。女の子は両親から無視をされながら育ちました。そしてその両親は、女の子を無視しているという点を除けば、とても美しい人生を送って亡くなりました。女の子はそれに憧れ、自分の人生も美しいものであればいいと思い、そのためにたくさん努力をしました。でも女の子は女の子の人生を。女の子の考える美しい物語のようにはどうしてもできませんでした。女の子が二回目の失敗をしたとき、女の子と一緒に暮らしていた人が亡くなってしまい、女の子は遠くの親戚のところに行きました。そしてそこで、大きな地震と津波に巻き込まれて亡くなってしまいました。

 そんな物語のどこが美しいというのだろう。少なくとも僕の感性ではこんなプロットじゃ納得できない。

 でもこれは現実で、それに災害というものは得てしてそういうものなのかもしれない。災害は、情けも容赦も前触れもなしに、想いも好みも積み重ねも関係なしに、土地や命を根こそぎ台無しにするものであって、そのときにそこにいたことは不幸でしかない。だから、美苗さんは、そして彼女を含むn年東北大震災の犠牲者の方々は、ただ不幸だったのである。日頃の行いが悪かったからとか、災害に対して余裕綽々な態度をとっていたからとか、そういったことではないのだ。

そしてだからこそ、災害は理不尽で、現実は残酷だ。

 震災の犠牲者の途方もない人数がテレビで発表されたあと、高校生の僕はホームルームのときにクラスメイトと一緒に黙祷を捧げた。命を落としてしまった犠牲者達を悼むための時間だったけれど、僕は美苗さんの死だけを悼んでいた。他の犠牲者達がどうでもよかった訳じゃなくて、ただ僕は彼女の死が他の何よりも悲しかったのだ。僕は美苗さんの死が悲しかった。今も悲しい。他の何よりも悲しい。だって僕はもう、美苗さんのいる世界で生きていくことができないのだから。何かの雑誌やテレビで美苗さんが輝いているところを見て勝手に誇りに思ったりとか、日本一周旅行の最中にたまたま再会したりとか、香美から美苗さんが結婚したことを教えてもらったりとか、そういうことはもう絶対に起こらないし、それを妄想することすらもできない。未来や幸せを願えない。それがどれだけ悲しいことなのか、僕は美苗さんを喪ってようやく理解ができた。

 僕は、もう一度美苗さんに会いたいと何度も思った。僕は彼女が引っ越すときに見送りに行かなかったことをずっと後悔している。あれが美苗さんと話す最後のチャンスだったのに、とくに理由もなく、何となくで欠席してしまったことをひどく悔やんでいる。

香美は言っていた。「美苗、寂しそうだったよ。これ勘だけど、引っ越すこととか、ずっと傍にいた身内が死んじゃったこととかもあるけど、友也がその場にいなかったことも寂しさの理由のひとつだと思う」

僕はなんて馬鹿だったんだろう。僕はなんて馬鹿だったんだろう。僕はなんて馬鹿だったんだろう。もしかしたら、僕が美苗さんの死をずっと引きずってしまっているのは、そのせいなのかもしれない。僕はこの後悔をずっといつまでも抱き続けているせいで大人になれないのかもしれない。ずっと子供のまま、高校生のままでここまで来てしまったのかもしれない。時間は戻らないし、死人は蘇らない。それが現実なんだからどうしようもない。だからこんな後悔はしても無駄なことなんだ。

 でも感情を足枷になるかならないかで仕分けして『なる』のほうの箱に入れた感情を箱ごと捨ててしまおう、みたいなことをできる人間なんてこの世にいるのだろうか?

 僕は知らない。

 塔をおとなった次の日、僕は朝早く神社に向かった。神社は僕の家から高校に行くまでの道程にある公園を抜けた先の森にある。と、覚えてはいたものの自分の記憶が正しいか不安だったので、確認のために道を辿った次第である。間違いの多い人生だから、確認作業は忘れないようにしなければならない。

 まあ、早くに目を醒ましてしまって暇だったのもあるけれど。

 結果として、僕の記憶は正しかった。記憶の通りの道程を往けば、記憶の通りの光景に逢えた。紅い鳥居、広い境内。屋台は既に置かれていて、どうやら準備中みたいだ。祭りは午後からなのだから、それは当たり前のこと。

 僕は参拝を済ませてから、折角だし、と境内を散歩してみることにした。由縁神社。この神社には大した思い入れはないけれど、大学入学までここで毎年初詣を行っていたから、思い出はある。恋川県の白樺神宮はここよりもっと広く高位な雰囲気を醸していたが、由縁神社にも由縁神社の良さがあったりする。

 境内で僕は携帯を起動して、香美とのチャットを開く。既読がつきはしたがそれっきりだ。彼女は今どうしているだろう。かつて僕のことが好きだった女の子。今でもあれは気の迷いとかそういうものなのではないかと思っている。少なくとも高校生の頃の僕には魅力なんてなかったと思うのだけれど。振った手前、どこが好きだったのかとか訊けないままだったし。

 まあ、今は別の人と結婚しているし、僕だって今更好きになっているとかでもないのだが。

 僕が思い出すのは、香美でも美苗さんでもなく、武藤先輩ですらなく、大学時代に別れた人のこと。船原すえ。僕は確かに彼女のことが好きだったけれど、だからといって美苗さんのことを忘れた訳ではなかった。船原すえのことを好きつつも、富良野美苗のことを愛し続けていた。当然、僕達が破局した理由もそれだった――当時も今も、それは当たり前の結末だったという感想は変わらない。僕が最低だったのだ。僕は船原すえを愛したければ富良野美苗への愛情を捨てなければならなかった。誠実さというのはそういうものだし、それが出来ないのなら浮気者の謗りを免れる権利はない。

 僕は僕の不誠実ゆえに、船原すえを傷付けた。

 不誠実――あるいは、未熟さゆえに。

 僕はいつになったら大人になるのだろう? 好きな人を自分のエゴで傷付けない、失恋を乗り越えて次の恋へと前に進めるような、誠実な大人に。

 決まってるだろ、と僕は自嘲する。決まってるだろ。そんなの、美苗さんのことを忘れるまで無理に決まってる。

 でも忘れるということは失うということで、僕は美苗さんをどれだけうしなわないといけないのだろうか?





 屋台は神社の境内と、公園と神社の間にある道に出ている。僕がそれに並ぶ人達を見て思うことは、別に祭りでしか食べられないものでもないのに、どうして焼きそばやかき氷がここまで爆発的な人気を誇るのかということ。祭りの屋台、みんなテンション上がってるんだからもっと色物とか意味不明なものを売っていてもいいのではないか、ということ。けれども、祭りの屋台に客が求めるのは結局のところ焼きそばやかき氷で、意味不明な色物なんて食べて不味くて気落ちしたくないし店側もそういうのを出して食中毒でも起こしたら大問題だから無難で取り扱いの知り易い食べ物を出したいって気持ちも解るなあ、ということ、とか。

 夕食代わりに来ているので、取り敢えず一食分になるだけの量を買って公園に戻ってベンチで食べようと思うけれど、公園のベンチは既に同じような目的の人達でいっぱいだった。公園を空けているのはこのためだ。この公園にベンチが十二個もあるのもこのためだ。

夕暮れの公園は薄暗くて、昼間にここで誰かがサッカーボールを蹴ったりしていたとはとても思えなかった。そんな健全な場所には思えなかった。十二個のベンチのうち四個は若いカップルで、三個は家族連れで、二個は二十代後半くらいの夫婦で、残り三個はひとりだった。ひとりの人の隣に座ることが出来るかもしれなかったが、その許可を貰いに行くのは億劫だった。でもベンチに囲まれてぼうっと突っ立っているとまるで世界から孤独者の烙印を押されてしまった気分になってくるので、僕はまた屋台のほうに歩いて行った。

 歩きながらフランクフルトと焼き鳥とたこ焼きを完食して、ラムネを飲み干した。誤美箱に容器を分別して捨てて、そのまま歩くと由縁神社に辿り着いた。神社の屋台にはお面や綿菓子や花火が売っている。少し離れたところにお守りやおみくじが出来るところもあって、それ等に目もくれずに真っすぐ突き進めば賽銭箱が設置されている。

 賽銭箱の近くにも少なくない数の人がいる。神社側の作戦が功を奏している――これは予想だけれど、公園で祭りをやらないのは休憩所として使うのもあるが、公園と神社の間の道から神社の境内まで祭りが続いていれば流れということで参拝をしてくれる人が増えるだろうという目論見が主な理由と言える。

 夏祭りと神社と言えば恋の匂いがするが、このように『流れ』を作ればどんな人も気兼ねなく参れるのだ……ろう。

 よく知らないけれど。

 それでも神社だし暗いし、ここにいるカップルは公園よりも多いのだろうなあと思いながら賽銭箱に向かう人々のことをぼうっと見ていると、僕は香美を見つける。

 六年も経ったのに、僕はすぐに彼女が香美であると判る。片手に大きな綿菓子を持っている。菖蒲色の生地の浴衣を着ていて、髪は後頭部の高いところで結わえてある。高校の頃よりも随分髪が伸びている。六年経てばそれはそうだろう。顔つきが大人びているけれど、全体的な雰囲気は全然変わってない。間違いなく香美だ。

「あれ、香美じゃん」

 と僕は、なるべく軽い感じで声を掛ける。香美はこちらを向いて立ち止まる。隣を歩く男性が夫かと思ったけれど、たまたま横並びになっていただけみたいだった。

「友也。お祭り来たんだ」香美はさして驚いてもいない様子で言った。「久し振り。元気してた?」

「うん。息災だったよ。香美は元気だった?」

「そりゃあまあ」

「そっか。香美もひとりで来てるの?」

「や、待たせてる……って言いたかったけど、うん、ひとりっすわ」

 苦笑する香美。六年経っても変わらないな、と僕は安心する。

 僕と香美は一緒に参拝して、五円玉を投げる。同時に入る。

 それからかき氷の屋台に一緒に並ぶ。香美はブルーハワイを選び、僕はレモンを選んだ。イチゴが定番だけれど、紅い色は今は見たくなかった。

 公園に戻ると、ちょうど一席空いていた。夫婦が一組どいたみたいだった。僕達はベンチに並んで座った。手を繋げそうな距離だったけれど、そうしようとは思えなかった。

 香美は僕に綿菓子を持たせて、自分のかき氷を食べ進めていった。途中でアイスクリーム頭痛に邪魔されていたが、そう時間をかけずに食べ終わった。空き容器をベンチの端に置いたのを見て、僕は香美に綿菓子を返した。僕のかき氷は溶け始めていた。でも僕はそのくらいが食べやすかった。

「うちね」香美は僕を見ずに言った。「結婚したよ」

「知ってる」僕は香美を見ずに言った。「親に聞いた」

 そうなんだ。吃驚させたかったなあ――と、香美は言った。

「どんな人と結婚したの?」と僕は訊いた。

「いい人。優しい人。真面目な人。格好良くはないけど、頭がよくて、あまり厳しくない職場に勤めていて、年上なんだけど、どっか子供みたいなところがあって面白くて、ちゃんと護ってくれる人」

 香美は夫を褒めながら、だんだん口元を綻ばせていった。

 すごく好きなんだね、と僕は言った。

 すごく好きなんだよ、と香美は言った。

 そこで会話が途切れた。僕は何も言わずにかき氷を口に運んでいた。香美は何も言わずに綿菓子を噛んでいた。

 どこでどのように出会ったのか、具体的にどんな仕事をしているのか、どうして今日は一緒に祭りに来ていないのか、なんてことは訊かなかった。香美も言わなかった。

 どこかで虫が鳴いていた。誰かの会話が聞こえてきた。祭囃子は遠かった。

「名字は」僕は香美を見て言う。「今の名字は何?」

「川島だよ。川島香美。普通でしょ」

「そうだね」

「実は猫林って名字好きじゃなかったから、安心したよ」

「そうなの? 可愛いじゃん猫林」

「可愛いから嫌だった」香美はそっぽを向いて言った。「猫の林とか想像しただけで萌えるじゃん。そんな名字を背負って一生送ってくなんてちょっと御免だよ。荷が重い」

「あはは。でも香美って名前も可愛くない?」

「まあそだね。けど猫林よりはありふれてる。猫歌ちゃんとかだったら親には悪いけど改名してた」

 猫林猫歌の字面を想像して、僕は苦笑してしまった。ネコバヤシネコカ。猫の林で猫の歌。流石にそんな名前だったら、もし僕ならとても耐えられない。

「友也は何か、浮いた話とかある?」

「残念ながら」僕は肩を竦めた。

「そう。もしかして、美苗のこと、まだ気にしてんの?」

 そんなことない、と言うべきだと思った。肯定すると香美に心配をかけてしまうだろう。あるいはがっかりさせてしまうだろう……だから、僕は、否定したかった。

 でも、僕は香美に嘘をつかなかった。嘘なんてどうせいつかばれるか、言った瞬間にばれているのに気付いていない振りをされるかなのだ。

「うん」

「ふぅん」

 香美は予想に反して、味気ない反応だった。

「ところでさ」僕は香美に訊く。「あの、塔の怪談、創ったの香美でしょ」

「塔の怪談? ……ああ、あれ? 知ってんだ。うん、うちだよ。ごめんね勝手に怪談のネタにしちゃって」

「いや、いいけど……でも、どうしてそんなことしたの?」

「美苗のことを、せめて物語にしたかったから」と香美は言った。「ほら、災害の被害者として急に死んじゃったじゃない? たぶん美苗はそんな死に方望んでなかった、って誰もがそうだと思うけど……だから、せめて美苗をモチーフにした物語を創ってあげることが、供養になるかなって。罰当たりなのかもしれないけど」

 人生を物語にすることを望んだ彼女のために。

 彼女を怪談という物語のモチーフにした。

「……いや、それにしたって怪談はないでしょ」

「しょうがないじゃん、妄想力ないんだから。文章力とかもないし。あれば小説投稿サイトにでも上げてたよ」

「はあ……」

 だからって怪談にするのはどうなのだろうか?

「あのさ、香美。少しの間でも美苗さんと友達だった訳だけど、どうだったの?」

 僕の質問を受けて、香美は考え込む。思い出しているのかもしれないし、なんと表現していいのか解らないのかもしれない。もしも後者だったら、僕は同意せざるをえない。

「美苗が引っ越す前にさ」香美は言った。「取り敢えず約束だしってことで愚痴大会やったんだけどね?」

「やったんだ……僕の愚痴大会……」

 なあなあになっていてほしかった。

「うん。所以駅のタリーズで。あれ結構盛り上がったよー。今でもなんか覚えてる。録音しとけばよかったってくらい面白かった」

「僕に楽しそうに言わないでほしい」

「で、駅前で別れたんだけど、そのときになんとなく気になって、美苗に訊いたんだよ」

「何て?」

「『友也のこと、本当に好きじゃなかったの』って」香美は浸るように瞼を閉じて言った。「好きじゃない男の愚痴で、二時間も盛り上がれるとは思えなかったから」

 いや、愚痴で二時間も盛り上がってたら普通に嫌っているような気がするのだけれど。

 美苗さんもそうだが、香美もどれだけ僕に対して鬱憤が溜まっていたんだよ。

「そしたら、何て帰って来たと思う?」

「さあ。美苗さんのことは予想できないから」

「『好きじゃなかったよ、勿論。愛なんてなかった』」香美はそこで区切って、僕の顔色を見てから、続けた。「『でも、付き合ってるのは楽しかった。死ねって思ったこともあったけど』――だってさ」

 僕はその言葉で感涙したりはしない。本当は好きだったとかならまだ泣けていただろうけれど、死ねって思ったこともあったなんて言われて泣ける筈がない。

 でも僕は、僕達は、どうして友達になれなかったんだろうと思う。恋とか愛とか性的なこととか美しい物語とか、そういうややこしいものを抜きにして。抜きにしなくてもそういうのじゃなくて。例に挙げるなら今の僕と香美みたいな、お互い会えなくなってしばらく経っても、五年経ても六年経ても、こうして再会したときには当時のように明るく話せる、そんな――そんな友達同士に、どうして、僕と美苗さんは、なれなかったのだろうか。

 そういう結末は、本当になかったのだろうか? どこかでうまくすれば、僕達は大人になっても遊べるような関係になれたのではないだろうか?

「客観的に見れば、それは無理だったんじゃないの」僕の気持ちを香美はばっさりと切り捨てる。「だって、友也が美苗に関わろうとしたのは美苗を好きになったからだし、美苗が友也と関わろうとしたのは友也を自分の……物語? の王子様にしたかったからなんだから。恋愛なくして関われるってことはなかったと、うちは思うよ」

「…………」

「人生、恋が全てじゃないけどさ。愛が全てを救ったりとか、そんなことないけどさ。それでも、恋や愛がないとそもそも成立しえなかった関係っていうのがあるし、人と人を結ぶって意味でも、愛って大切だよね」

「……いいこと言うじゃん、香美」

「当たり前じゃん、一昨日本屋で立ち読みした格言本みたいなやつの受け売りだし」

 僕はベンチからずり落ちそうになる。漫画的表現だと思っていたが、ずっこけみたいなのって本当にあるんだな、と今知った。

 学びを得た、というにはあまりにもどうでもよすぎるけれど。

 僕のそんな姿を見て、香美はくつくつと笑う。いつの間にか、綿菓子がもうだいぶ体積を減らしている。

「ち、ちなみにどんなタイトルの本なの」と僕は訊く。

 香美はまた少し考えてから、うろ覚えなんだけど、と前置きして、

「クリスタルサイリウム名南って人の《出会いと別れ、愛とナミダ、そして世界の寿命》っていう本だった。表紙が、すっごいキラキラしてんの」

「胡散臭いにもほどがある……」

 僕のちょっとした感動を返してほしい。

「ちなみに装丁は本当に好きだったから買ったんだけどね」

「ええ……。それで?」

「昨夜、酔った勢いで三軒隣の家のポストに投函しちゃった」

「どんな勢いだよ! 投函された人はそんなのもらってどうすればいいんだよ!」

 僕の指摘で香美はお腹を抱えて笑っている。僕も自分で言ってから想像して笑う。暗い公園のベンチで仲好く爆笑してると、それこそ子供みたいで、これが二十歳も昔な社会人の姿とは到底思えないが、でもまあいつも社会人でいるなんて無理だ。久し振りに会った仲の好い友達の前で大人になるなんて、きっと誰にもできないと思う。少なくとも僕達には何十年経っても不可能だろう。

「ま、そんな感じで適当に生きてるよ」笑いが収まった頃、香美は言う。「子供の頃は、こんな適当な大人になっちゃうとは思いもよらなかったなあ。結婚するのは二十五歳くらいだと思ってたのに、三年も前倒ししちゃった」

「僕も、中学の頃は冴えないサラリーマンなんてなりたくなかった。でも何でか、行きたいところとか行ったほうがいいところとかを選んでった内に、そこに辿り着いちゃった」

「辿り着いたと思っちゃ駄目。まだ二十三なんだから、これから何があるか判んないでしょうが」

「はは、そうだね。……あのさ、香美」僕は香美の目を見る。化粧で雰囲気が変わってはいるけれど、形は殆ど変わっていない。アーチスチックとは思わないが、強くて優しい双眸。「香美は、自分が大人になったと思ったのはいつ?」

「年金払わなきゃいけなくなったとき、かな」

「……えらく現実的な答えだね」

 気持ちはとてもよく解るけれども……。

「別にいいじゃん。大人になる瞬間が劇的である必要なんてどこにもないし。それよか、大人になるまで生きてこれたことのほうがよっぽど劇的だと思わない?」

 そう言って、香美は穏やかに微笑んだ。

 異論はなかった。


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