光の華 FIVE 前編

FIVE 救いの光



 僕は美苗さんが好きだ。富良野美苗が大好きだ。最初は見た目の美しさに惹かれた。長く麗しい睫毛と黒く澱んだ瞳とすらりとした切れ長の瞼に射止められた。細め歪められた双眸から溢れでる涙に見とれてしまったのが恋の始まりだった。けれど、交流していく内に、彼女の不思議な雰囲気や気ままな振舞い、思考と言葉の深さ、時折見せる意味不明な部分も含めた人間性に入れ込むようになっていった。理解不能で困ったところとかも多々あるけれど、それでもそういうところも含めて、僕は彼女が大好きだ。愛している。でも、結局のところ僕は彼女のどこが一番好きなのかと、もしもいつか誰かに質問されてしまったら、僕はきっと即答で、「目だよ」と答えるだろう。詰まるところそれが全てなのだ。

 だから僕は美苗さんの後姿しか見えない状況になると焦らされているみたいな気持ちになる。彼女の流れるような黒髪も小さな背中も確かに好きだけれど、それでも僕が一番好きで常に眺めていたいと思うのは彼女の顔の前方にある目なのだ。だから、僕はそういう状況になってしまったとき、自然、彼女の顔を覗き込もうとする癖がついてしまっている。彼女は僕と目が合うと笑う。彼女は僕の目のことをどう思っているのだろうか。僕は顔も瞳も髪も、そこら辺にいる凡庸な男子高校生とそう変わらないと思う。もしかしたら少し劣っているかもしれない。自分の顔の評価はどうしても難しい。どこからが自惚れでどこまでが謙遜にあたるのかいまいち判断ができないからだ。

 僕はどんな顔をしているのだろう。

 僕は今、どんな顔をしているのだろう。

 香美に友情を裏切られて、裏切るに至るまでを吐き出されて、許せないけれど取り敢えずはもう責めずに抱きしめて、そうしたら美苗さんが唐突にやって来て、恐らく浮気の現場と勘違いされて逃げられて、もしかしたら死んでしまうかもしれなくて。

 そんな状況下において、僕はいったい、どんな顔をしているのだろうか?

 って、おいおい。そんなことはどうでもいいだろ僕。走ってさえいれば現実逃避が許されるって、そんな訳がない。僕は本当は自分の顔とかそんな考察に興味なんてない。僕が興味を持っているのは美苗さんの顔だ。美苗さんはどんな顔をしているだろう? 泣いているだろうか? 怒っているだろうか? どちらかだといい。どちらかならまだ救いがある。どちらでもなかったらどうしよう、そうなったらとても難しい。でも難しくても何でも、取り組めるだけまだいい。最悪は、僕が彼女の顔を確認することが出来なかった場合。大好きな富良野美苗の睫毛を、瞳を、瞼を確認する暇もなく、彼女が僕の前から消えてしまった場合だ。僕は四階建ての塔の出窓から身を投げて顔から地面に落ちて判別不可能なほどにぐちゃぐちゃになってしまった美苗さんの顔面を想像する。そんなものは見たことないし見たくもないけれど、この世に存在しない訳じゃなくて……ああもう、糞、どうしてこうなった。

 それは簡単なことだった。僕が美苗さんを疑ったからだ。恋人を、全幅の愛情を持って信頼すべき恋人に疑いの目を向けるなんて、幾ら焦っていたとしてもそれは謗られるべき失態だ。

 僕は最低だ。

 ではここから這い上がるためにはどうすればいい?

 それも簡単。最悪の結末を防げばいい。美苗さんのアーチスチックな瞳が眼孔から飛び出してしまうワーストエンドを阻止すればいい。そうすれば多少はマシになる。少なくとも自分を許せるくらいには。

 そうと決まれば急げ僕。

 僕の愛情は最悪を防げると自分に示せ。


 塔の廊下で美苗さんの背中を追いかけていると、僕達の交際が始まった日の追いかけっこを思い出す。でもあのときとはまるで違う。あのときは、僕達はそれを楽しんでいたし、美苗さんは最後にはスピードを緩めてくれたし、タイムリミットもなかった。

 タイムリミット。

 美苗さんが――北東の出窓に辿り着く前に、捕まえないと。

 美苗さんは足の速さも体力も僕の上だ。

 だから、その差を埋めるために。

 とにかく前へ前へと――走れ!




 僕が美苗さんに追いつくことができた事実を、愛情ゆえの奇跡と解釈することは容易い。けれど、それでも現実的な解説を付け加えるとすれば、彼女はこの長い四階建ての塔の階段を、一階から登ってきた直後だったことが一因と言えるだろう。

 要するに、付き合い始めた日やゆとりがはら管理草原のときとは足腰の疲労度が違ったのだ。

 更に言えば、上に香美が乗っかっていたり精神的な疲弊だったりはあるものの、僕はさっきまでソファーに長く身体を沈めていた。詰まり、脚はそこまで疲れていない。

 それに、八月は日増しに暑さが育っていくものでもあるし……いや、その点については僕のほうが香美と抱き合っていたぶん暑いのだろうけれど。

 まあ、纏めると、元々のステータスでは僕のほうが負けていても、美苗さんのほうが十全なコンディションでなければ、勝つ可能性は無きにしも非ずということであり。

 僕は無事に、と言うにはもう出窓は目前だったけれど、美苗さんを捕まえることが出来た。

「触んないで!」美苗さんは振り向いて叫んだ。髪が誰かに掻き回されたみたいに乱れている。「離してよ!」

「離さないけど、話はさせてほしい。僕は浮気をしていた訳ではなくって……」

「煩い! 聞きたくないの!」

 美苗さんは僕の手を振りほどこうとするけれど、僕はもう一方の手も使ってそれをさせない。

「聞いて。僕は確かに香美と抱き合っていたよ。それは事実だ。でも、それは香美の想いに決着をつけるために必要だったんだ。詰まり、僕は香美をきちんと振るために、」

「煩いよ! そんな話聞きたくない! 違う女の名前を出さないで!」

「そんなこと言われたら誤解が解けないじゃないか。美苗さんは、僕が香美と浮気していると思っているんだろうけれど……」

「煩えっつってんだろ!」

 美苗さんは怒鳴った。

 初めて会った日、自分を強く追及する香美に投げかけたみたいに。

「ふざけんなよてめえ! なんでそんな風にあのクソ女なんかを大事にするんだよ! あんなの放っといて私だけ幸せにしてろよ!」

 どうしてそう、不適切な言葉を発するのだろう?

 僕は初めて美苗さんに怒りの感情を抱いた。香美は僕の大事な友達なのだ。許しがたいことをしたばかりだけれど、それでもその存在を侮辱する言葉は看過できない。

 でも僕はぐっと堪えた。ここで激昂したり手を上げたりするのは絶対に事態を悪化させるだけだ。今の美苗さんは混乱しているのだ。デリケートだ。仏のような心を以て接しなければいけないのだ。

 ごめん嘘。普通にビンタした。

「ふざけてんのはてめえだろうが! こっちの話も聞かねえで俺の友達を貶してんじゃねえぞこの野郎!」

 僕は何をしているのだろうか?

 どうして好きな人を打ったりしているのだ?

 解らない。今日はちょっと色々あり過ぎて、僕だってもう疲れているのだ。

 まあどんな言葉も男の子が女の子の顔を殴っていい理由にはならないのだけれど。

 美苗さんは赤くなった頬を暫く手で押さえて、

「…………何、もう」

 そのまま、床にへたり込んだ。

「……ごめん、美苗さん。その、カッとなっちゃって」

 という僕の声も、美苗さんは聞かない。

 彼女は、頭をだらんと俯かせた。

「もう、嫌だ。最悪」

「美苗さん……本当に、ごめんなさい」

「こんなの嫌だ。折角、何とか修正したのに」

「…………?」

 修正?

 何の話だろう。

「もう」美苗さんは、か細い声で言う。「もう、ぐちゃぐちゃじゃん。駄目だよこれ。相応しくない」

「……美苗さん? いったい、何を」

「こんな流れ、美しくない」


「こんな人生――美しくない」


 深い深い、溜め息。

 全てが嫌になってしまった人の溜め息だ、と僕は感じた。

 僕は何を言えばいいのだろう? 今の僕の立場から言えることなんて、果たしてあるのだろうか? きっと、少なくとも美苗さんにとっては、僕は明らかに加害者なのだから。

 でも何も言わないでいたら、この女の子はふらりと死んでしまいそうだ。どうせ僕は、今日の僕は正しい行動なんてとれやしないのだから、もう思ったままに話したほうがよさそうだった。

「美苗さん」僕は美苗さんを見下ろして言う。「愛しています」

「煩い」美苗さんは枯れた顔で言った。「私はそんなことなかった」

 へえ、そうなんだ。

 僕はもう一発殴りそうになるけれど、こっちは流石に我慢する。




「美苗さん、まずは落ち着こうよ。僕が言うことじゃないけれど、感情が昂っているときなんてろくな思考も発言もできないんだから、まずクールダウンが必要なんだって」

「黙れよ」美苗さんは僕を見据えて言う。僕を見ているだけで僕の目を見ているんじゃない。今までとはもう、決定的な何かが違ってしまっているのだ。「私はもう冷静だよ。というか、素かな」

 素。素顔。美苗さんの素顔。それはこんなにも。

「ああ、もう。本当、どうしてこんなことになっちゃったんだろうなあ。もう生きてる意味ないじゃん。こんな過去を背負って生きていったって何か暗いだけじゃん。最悪だよもう。死ねないし」

 僕は思い出す。


「なんだよおおおおお! なんなんだよもおおおおお! 最悪だ、最悪だよこんなの! うああああああ! もう嫌だ、もう嫌だ! こんな展開嫌だ! さっき死ぬのが一番だったのにいいいい! うえ、ぐえ、ぐふえええええええん。うええええええん。うええええええん。うええええええん。うええええええん。もう嫌だあ……もうこれ以上生きたくないよ、でもここでこんな風に死にたくもないよおおおお! 最悪だ最悪だ、どうしてこんなんなっちゃったのおおおおお! こんな、ひう、ひふぅっ、こんあのすっごい格好悪いじゃんかあああ! 格好悪い、格好悪い、格好悪いよおおお! ああああはあああああん! あは、あはあ、あうっ、ひうっ、うう、うええええええん。うええええええん。うええええええん」


 美苗さんは、泣き散らしてこそないものの、あのときと同じことを言っている。彼女の自殺が未遂に終わり、僕達が出会った日から、何も成長していない。いや、でもそんなことは今更だ。美苗さんは明るくなったように見えて、考えを改めたかのように思えて、実はずっとそのままだった。いつだって、美しい物語の話をしていた。美苗さんは、自分の両親の物語を、自身の存在を除去して僕に話したとき、そしてそれに対して僕が「美しい物語だね」と評価したとき、確かに嬉しそうだった。あれはもしかして、自分の思う『美しさ』を誰かに共感してもらえたことが嬉しかったのかもしれない。なら、だとしたら。だとしたら何だと言うのだろう?

 僕は美苗さんについてのある仮説を立てる。美苗さん。富良野美苗さん。僕のことは愛している訳ではなかった美苗さん。放置した両親の最期を、自分の存在を消してまで美しく語った美苗さん。僕が色々なことを巧くできなかった日の夜、僕なんて死んでしまえばいいと寝言で漏らした美苗さん。スーパーマリオブラザーズの筋書きを美しいと絶賛し、僕に自分のスーパーマリオになってほしいと言った美苗さん。

「美苗さん」

 君は。


「美苗さんは……自分の人生を、美しい物語にしたかったの?」


 美苗さんは頷かなかった。

 ただ、目を剥いて僕を見た。僕の目を見た。

「……なんで、そんなこと、解ったの」

「彼氏だからね。それくらい気付くさ」

 もしかしたらもう『元』なのかもしれないけれど。




 美しい物語とはなんだろう? そもそも物語の美醜なんて、誰がどう判断すればいい? ごまんと溢れる創作物の中には、崇美なスプラッタも醜悪なラブロマンスもあるだろう。だから物語としての美しさに置いてジャンルは関係ないと考えていい。では叙述や描写が如何に繊細にして緻密であるかというところだろうか? いやさ、それだって人によって匙加減が違うし、作り込み過ぎて美しくはあっても物語ではなくなっているものが生まれてしまうことがある。ならば、美しい物語とはなんであろう?

「美しい物語っていうのは、美しい流れによって生まれるんだよ」と、美苗さんは言う。「どれだけ筋書きが陳腐で普遍的だろうとも、そこに至るまでの流れだとか、積み重ねだとかが流麗か、もしくは衝撃的なものだったとき、人は物語の中にぞわつくような美を感じる」

 そして、美苗さんはそれを自分の人生に求めたのだろう。

 自分の両親のように、美しい物語として幕を閉じられるように。

「……解ったように言っておいて、質問タイムを挟むのは格好悪いことこの上ないけどさ」肩を竦めて僕は言う。「美苗さんの命を助けたのは香美なのに、僕に助けられたってことにしたのは、いったいどう美しい物語に繋がると思ったの?」

「話はちゃんと覚えてなよ。私がてめえに助けられたのは人生だ。まあ、結局駄目そうだけど」

「……どういうことさ」

「解んないの? 想像力が足りないなあ」美苗さんは嘆息する。「自殺しようとした自分を助けてくれた、見ず知らずの男の子と恋に落ちて、結ばれ、幸せに暮らす。なんとも愛と希望に満ちた流れだと思わない? 少なくとも、自殺しようとしたら見ず知らずの女に阻止されて怒鳴られてすごすご帰ったってだけの話よりは」

「…………」

「だから、てめえがあの場にいてくれてよかったと本気で思ったよ。お蔭で人生の活路がまだ開けたもんな。てめえは私の物語を幾分かマシにしてくれる救いの神みたいだったよ。過去形だけど」

 僕は思い出す。


「確かに、私の命を救ってくれたのは猫林さんだね。だけど、私の人生を救ってくれたのは友也くんだよ。友也くんがいなかったら、私はもうどうしようもなかった」


 そりゃあまあ、香美にあの剣幕で怒られてそれで話が終わりだったら、どうしようもない結果に終わってしまったと言わざるを得ない。けれど、僕がいなかったら、そもそも香美はあの塔の存在すら知らなかった訳で――そうなると、美苗さんが独りで自殺して終わりになるのだが。

「そうしたら、当初の予定通りってだけだよ。何の不都合もない」

「……そもそも、どうして自殺をしようと、するべきだと思ったの?」

「意外性に溢れた、唐突な幕切れっていうのもいいと思わない?」と美苗さんは唇を歪めた。「順風満帆な人生を送っていた女子高生。身なりがよくて、良いところの高校に合格して、部活も恋愛も謳歌して、二年生の夏って言ったら青春真っ只中の一番楽しい時期でさ。それなのに、急に部活を辞めて彼氏と別れて、あっと言う間に変な塔から飛び降り自殺。まるでミステリー小説みたいな謎の匂いがするでしょう? 悲しい以上に不思議でしょうがない。そんな風に誰かの頭の中に残り続けられたら……そんな衝撃的な人生であれたら、私は満足だよ。謎は美しい。だから謎めいた人生もまた美しい物語と言える」

 言えるのか? と僕は納得ができない。でもそもそも美苗さんの思考は把握できても納得や理解をするのはいつだって難しい。

 狂人の思考に共感できるほど、僕は包容力のある男じゃない。

 でも、どうしてだろう。

 こんなに知りたくなかった中身を曝け出されているって言うのに、僕はそれでもまだ、美苗さんのことが好きだよ。



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