光の華 FOUR 後編



『おばさん』が帰ってくるまでまだ時間があるということで、僕達は前回不完全に終わった閨事をやり直すことにした。前回の失敗が僕の自信に影響してまた駄目になりそうだったけれども、美苗さんの協力もあって無事に終えることができた。でもこういうのって、一連のくだりが『済んだ』とは言えるが『終わった』という感覚にはならない。興奮状態から落ち着くことをメイクラヴの終わりと定義するべきではないような気がする。じゃあいつそれが終わるのかと言えば、そもそも始まる終わるという話ではなくて、あくまで流れのひとつのように感じる。重要な中間地点。これは始点でも終点でもなくて、あくまでひとつの必要な儀式と捉えるのが正しそうだ。けれどまあ何にせよ、こうしてきちんとひとつの何かを完遂できるということは気持ちのいいことだし、美苗さんを抱きしめているとどうしても幸せだ。

「友也くん、あのさ」僕の腕の中の美苗さんが言う。「前に会ったときからね、ちょっと真面目に自分が性的な事柄についてどう思っているのか考えてみたんだけど」

「うん」

「やっぱりそういうこと自体はそんなに好きじゃない。というか、ちょっとだけ、子供の頃の両親と同じことをしているんだよな私、みたいなのが過っちゃったりする」

「そっか」

「けどそれでも、私は愛するのも愛されるのも好き。友也くんのことが好き。友也くんと一緒になれるのが好き。だからもう、別物ということで割り切る方向でいくことにしたの」

「別物?」

「両親がしていたことと、私達がしていることは、別のこと。だって違うカップルなんだから、そういうことの理由とか本質とかの、核の部分の性質も違っている筈だもの」

 人はみんな違う。関係もみんな違う。全く同じ関係なんてありえないし、全く同じ感情もまたありえない。だから、感情を交わす行為としての閨事もその中身は違う。

 美苗さんの言うそれは正しいことであるとともに、それが正しくありますようにという祈りにも聞こえる。正しくあってくれないと困る、という叫びのようにも聞こえる。自分を歪め苦しめた両親と、同じことをしているとは思いたくないからでっち上げた真実のようにも思える。間違っていないし、反論もないけれど、僕は少し痛々しい気持ちになってしまう。

 だから僕は美苗さんを強く抱き締める。彼女は抱き返してくれる。肌は柔らかく、汗は冷たく、肩は小さい。

 彼女はたぶん弱くない。

 脆くもなければ、儚くもない。

 だけれど、きっと、とても小さい。

「……そろそろ帰ってくるかも」

 不意に美苗さんが言うので時刻を確認すると午後四時で、確かにそろそろ夕方と言っていい頃合いだった。僕はベッドの脇に散っていた服を集め、身に付けていった。

「ごめーん、私の服も取ってー」

「はいはい」

「ありがとー、大好きー」

「僕も大好きだよ、っと」

 二人とも着終えて、部屋を出る。

 玄関先で美苗さんは訊く。

「友也くん、『おばさん』と顔合わせしとく?」

「んー、今度でいいかな。それじゃ、課題片付け頑張ってね」

「はあい。……友也くんが手伝ってくれたらよかったのになあ」

「ごめん……西八木高校の課題なんて出来る気がしない」

「まあ大丈夫。頭はいいほうだし。ああ、でもやる気がでないなあ。誰かやる気がでるおまじないとかしてくれないかなあ」

 わざとらしく言う美苗さんにときめきながら、僕はキスをする。

 唇だけの、軽く短いキス。

「これで合ってる?」

「花丸。けどもう一拍くらい置いてもよかったかもね。じゃ、またデートしようね」

「うん。明日はバイトだから、明後日くらいに」

 そんな感じで別れて、僕は201号室を出る。階段を下りたところで中年女性とすれ違う。美苗さんと同じシャンプーの匂いがする。今のが『おばさん』だろうか。ひどく疲れ切った表情をしていた、ような気がする。でもあれくらいの年齢の大人は、みんなそういう顔をしているような気もする。よく判らない。

 美苗さんはどうしてああいう人間に育ったのだろうか、と何度目かの思考が勝手に始まり、終わる。

 まだ付き合ってひと月も経っていないのだから、そんな思考を練るには材料が足りない。それにどうせ僕は正しい答えなんて導けっこないのだ。だってまだ、洞察力も敏感さも過ごした時間も全然足りないのだから。





 事件はいつだって唐突に起こる。予兆や前振りがあったとしても、そんなこと気付ける人のほうが少ないだろう。何せ日頃から色々なことが起こるしそのせいで色々な感情を抱くのだから、多少の引っかかりとかがあっても、大抵の場合は流されていく。そしてその積み重ねが、僕達を手遅れにするのだった。

 その日は朝起きてバイトの時間まで美苗さんと電話で会話して、バイト先に向かって制服に着替えて武藤先輩が三十分遅れて入ってきて、そのせいで武藤先輩が三十分遅れて退勤することになって、取り敢えず先に帰ることにした僕が制服から私服に着替えたところで香美からメッセージが入っていることに気付く。


 ごめん。助けて。塔。


 さて何が起こっているのだろうか? この文面からでは何も読みとれない。ひたすらに嫌な予感がするけれど、それは行ってはいけない予感なのか無視してはいけない予感なのかいまいちよく解らない。メッセージを受信した時刻はついさっき、ちょうどバイトが終わったタイミングで受け取れるように調整してくれたみたいだ。詰まり、それくらいの余裕はある? 少なくとも、犯罪等に巻き込まれたとかではないのだろうか? ちょうどいいタイミングでチャンスが来たとか……そもそも香美はどうして塔にいるのだろう。塔と言ったら、僕も香美も知っている塔なんて祖父の塔しかないのだから、あそこで間違いはない筈だ。でもだからこそ、香美がそこにいる理由を察することが全然できない。そもそも察することは苦手分野だ。美苗さん相手だと、恋人同士と言うのが作用しているのか、雰囲気とか感じることはできるのだけれど……美苗さん? 

 塔の階段登ってるよ。

 言ってなかったっけ? 私、ときどき登るんだよ。

 背筋が寒くなる。恐ろしい可能性が思い浮かんでしまう。僕は美苗さんに香美のことを報告するべきではなかったのだろうか? 美苗さんはもしかして、僕が告白されたことによって香美のことを意識し始めて浮気に到ることを危惧して、そんなことが起こる前に、僕から徹底的に隔離しようとしているのではないだろうか? そのために美苗さんは暴力的な手段を避けてくれるだろうか? 僕は思い出す。塔の窓を破壊したハンマー。香美は弱くないけれど、というか普通に僕よりは強いのだけれど、それでも夜に後ろからハンマーで襲われて昏倒させられ、塔に監禁されているとしたら? 駄目だ。嫌な想像ばかり広がる。平和じゃない悪いパターンばかりが脳内で増殖する。でもしょうがないじゃないか。そもそもの香美のメッセージが平和じゃないのだし、美苗さんのことは最近少し解り始めたばかりなのだし、それに人間の悪意や愛がどう作用するかなんて誰にも想像つかないものだからこそ、無限の《もしかしたら》が誕生してしまう。とにもかくにも僕はバイト先のスタッフルームなんかにいるべきではない。動かなければならない。僕は暗く蒸し暑い夏の夜の街に駆けだしながら香美に電話を掛ける。安否の確認と状況の把握のために。でも香美は出ない。何回コールしても応答がない。焦る。汗も噴き出る。僕は美苗さんに電話する。すぐに出てくれる。『こん。おつかれさま、友也くん』「こんばんは、美苗さん。今どこにいる?」『家だよー』「そう? 本当に? 今日は塔に行ってないの?」『え? そりゃあまあ、今日はなんとなく疲れてるしね。どうしたの?』「いや、それならいいんだ。うん。じゃあまた」『あ、うん。よくわかんないけど、おやすみ』通話終了。美苗さんはどうやらこの件には関係がないらしい……。胸を撫で下ろしかけるけれど、でもよく考えたら美苗さんではない、別の誰かや何かのせいで香美が窮地に陥っているとすればそれは、そっちのほうが危険なのではないだろうか。

 見知らぬ他人が香美をあの塔に監禁していたとしたら、僕に何ができる?

 とか怯えている場合じゃない。香美は僕に助けを求めたのだ。香美が、助けて、と僕に言ったのだ。友達が助けを求めてくれたのに、うだうだと考えて足を停めるなんて絶対に間違っている。そして、そんな結論はとっくに出ている。僕は走り出してから一遍も立ち止まったりはしていない。塔に向かって全力で駆け続けている。すぐに汗みずくになってしまう。肌着がしっとりと濡れてくる感覚が気持ち悪い。風が全然吹いてくれない。誰もいない坂道を駆けのぼっていると、なんだか地獄か何かに向かっているような気がする。塔の中は地獄だろうか。少なくとも天国ではないだろう。でもそんなことは関係ない。どうでもいい。どうだっていい。そう思い込まないと走れない。香美からのメッセージの追加がないかチェックする。ない。香美は今、塔でいったいどうなっているのだろうか。倒れていたらどうしよう。酷い状態になっていたらどうしよう。殺されていたらどうしよう。考えるな、と僕は自分の頭を殴る。後ろ向きな想像は前進を阻むだけだ。嫌なことばかり考えたって何かがどうにかなるということはない。

 大丈夫だ。僕も香美も美苗さんも。

「大丈夫、大丈夫」

 大丈夫って言葉に大した中身はないけれど、それを口に出すことには祈りとしての価値がある。

 取り敢えずいざとなったら警察に通報する用意もしつつ、僕は塔の前に到着する。扉は閉まっている。鍵は家に置いてきてしまっている。誰かが僕の家から鍵を回収したりしただろうか? まさか。そんなことがあったら親からきちんと連絡が行っているはずだろう。別に僕に知らせなくてもいい相手と言うならそれこそ香美くらいだろう。なら美苗さんが割ってそのままの、すかすかの窓から入っていったのだと考えるのが妥当だ。どのみち僕も鍵を持っていないから、まだ見ぬ侵入者に倣って僕も窓から入る。中は暗い。階段の位置も判らない。僕は壁に手をつきながら歩く。壁に沿って進めば入口の扉に辿り着けるだろう。スイッチはそのすぐ側だ。まず光がないと何もできない。救いが欲しい。

 僕は扉に触れ、間もなくしてスイッチに触れる。電気を点ける。一階全体が明るくなる。荒らされた形跡はない。少なくとも視界の中には誰もいない。ところで僕の存在は気付かれるべきだろうか。静かに息を潜めたまま香美を探すべきなのだろうか。そもそも香美はどこに居る? 何者かが香美の携帯を奪って装って僕を誘き寄せて……僕はそんなに誰かに恨まれる人生を歩んできたのか? 解らない。そんなことは知らない。僕は何も知らないし解らないし、きっと知っていて解っていると思っていることもいくつかは勘違いだ。そんなことばかりだ。香美のことすらそうだった。

 僕は今どういう風に勘違いをしているのだろうか? それは致命的なものだろうか? 糞。また不安が渦巻いている。本当に間違えているのはきっと今こうして無駄に不安がって足が遅くなっているこの時間だ。僕はもうどうせどんな精神状態になろうとも後戻りとかできなくなっているのだ。状況的にも心境的にも。僕は進まなければいけない。階段を登れ。汗なんて無視しろ。何をしても巧くいかないのならせめて何もせずに取り返しのつかないことになるなんて無様な悲劇を避けろ。

 そんな風に強気ぶって階段を登り、二階を捜して誰もいなくて、また階段に戻り、登る。三階に着く。香美を捜す。いない。

 いよいよ四階だ。四階には何がある? 美苗さんが破砕した窓。どうせろくなことは起こらない。いっそ何も起きていなくて、香美の送ったメッセージは何かの間違いでしかなくて、僕のバイトが終わってからここまでは全て徒労でしかないのだ、というオチだったらいいのに。それだったら僕はどれだけ幸せだろう? 帰宅が遅くなって親に心配をかけてしまうのは喜べないけれど、それはもう今更だ。

 四階へ続く階段に足を乗せる。

 そしてその途中で、僕は四階の明かりが既に点いていることに気付く。

 誰かがいる。

 僕は階段の真ん中で深呼吸して、それからまた登り始める。

 そして香美を見つける。





 階段を登りきり、四階の廊下に出てそのまま歩いてソファーのある場所まで行くと、そこに香美がいる。

 香美は膝を抱えて蹲って泣いている。ソファーには座っていない。ソファーの側面に背中を預けるようにして小さくなっている。まるで親とはぐれて呼んでも叫んでも再会できる気配がなくて体力も尽きて独りで泣くことしかできなくなった子供のように。世界中の誰よりも不安を抱えた存在であるかのように。

 周囲に誰かのいた痕跡や気配はない。

 香美ひとりだ。香美は独りだ。

「香美」

 と僕は声を掛ける。香美は顔を上げる。目元が腫れている。

 そして無言で僕を見つめる。美苗さんとはまた別の種類の、虚ろな瞳。

「どうしたの? 話、できる?」

 取り敢えず、あんなメールを寄越したからには理由があるのだろう。それを聞かなければ始まらない。僕はしゃがんで、香美と同じ目線になって顔を覗いた。

 香美はしばらく黙っていた。その沈黙はマクドナルドでのそれと、非常に似ていた。時間はゆっくりと流れていった。

 長期戦を覚悟し始めたとき、香美は小さな声で何事か言った。

「……ごめん、聴きとれなかった。ボリューム少し上げて」

「……手、貸して。立ち上がらせて」

「わかった」

 僕は先に立ち上がって、香美に右手を差し伸べた。

 香美はその手に左手を近付け、重ね、握った。

 強く、縋るように。

 握り返して、適当な強さで引き上げる。香美は立ち上がる。

 足元が覚束ない様子で、ややふらついている。

 まだ手を離してはいけなさそうだ。

「わ、っと。香美、一体何があったの?」

「ねえ友也」香美は僕の問いかけを無視して言う。「なんで来たの?」

「なんで、って……そんなの、香美が助けてって言うから、来ない訳にはいかないだろ」

「そっか。ありがと。ごめん」香美は笑う。「本当にごめん」

「え?」


 香美は手を握ったまま僕の唇を奪った。


 これまでの人生で一番、何が起こっているのか理解できなかった。僕は何をされているのだろう。息を止めながら思った。僕は何をされているのだろう。だって香美は友達だし、いや香美はこれからも友達でいられるかどうか解らないと言っていたけれど、でも僕達はキスをするような間柄では絶対にないし、その関係になる可能性は僕がきちんと潰したはずなのに、どうして僕の唇が香美の唇に押し潰されているのだろう?

 混乱から覚めてきたのと呼吸が苦しくなったのとで、僕は香美を引き剥がす。乱暴になってしまったかもしれない。だが、そんな場合ではなかった。

「か……香美。どういうつもりだよ」

「どういうって、こういうつもりだけど」

 香美は僕に脚を引っかけた。不意打ちでよろけてしまったところに、香美の手が双肩に置かれ、そのまま体重を乗せられる。僕達はソファーに倒れ込む。

 僕は香美に押し倒されている。

 美苗さんとの交際が始まったソファーで。

 香美はもう一度口付けをしようとする。僕は顔を逸らし首を曲げ唇をしまって回避する。瞼にキスをされる。香美は僕のシャツを捲って腹筋に触れる。抵抗しないと、と僕は思う。

「ちょ……っと、香美! 何の真似だよ!」

「うるさい友也。黙って」

「黙れる訳ないじゃないか、こんな状況で!」

「じゃあ黙らせる」

 香美はまた唇を重ねる。キスで黙らせるなんて格好良すぎだろう、とかそういうことを考えている場合じゃない。だけれどソファーと後頭部の間に差し込まれた左手が僕と香美を離さない。香美の力は強い。香美の汗が鼻筋に落ちてくる。堰を切ったように何粒も。香美は目を閉じている。暑い重い汗の匂い。香美は長く唇を重ねながらも舌は入れてこない。僕を黙らせるための、暴力としてのキス。彼女の手はその間に僕の腹部から離れてズボンのジッパーを下げるのに忙しそうだ。香美は慣れない、戸惑うような手つきでゆっくりとチャックを開けていく。僕は脚をばたつかせて抵抗するけれど、香美の脚に両脇から挟まれ封じられる。どうして香美はこんなに強いのだろう。どうして僕はこんなに弱いのだろう。ジッパーを下げきると下着の上から局部に手を置かれる。擽るとか、撫でるとか、そういうことはされない。ただ、きちんとそこにあることを確認するための作業として触れただけだ。僕はこの状況で興奮出来るほど雄として優秀じゃない。

 僕は香美の唇に舌を差し込む。突然のことに驚いた香美は、少し力を弱める。その隙に後頭部の手を除けて顔を背け、僕は叫ぶ。

「香美! いい加減にしろよ! こんなことをするために、あんなメッセージを送ったのかよ!」

「そうだよ」香美は下着の前開きに指を掛けながら言う。「つかさ、夜に、自分のこと好きな女から呼び出されてのこのこひとりで行くとか、彼女持ちとしてどうなの? こんなことになってもしょうがなくない?」

 僕はその言葉にとても傷つく。心から怒ると同時に、心から哀しむ。さっきまでの焦りとか不安とか心配とかそういうものを返してほしいと思う。そんな開き直りみたいな言葉を香美の口から絶対に聞きたくなかったと失望する。どうしてこんな挙句になったのか、正直言って見当もつかない。でもそんな色々よりも何よりも、

「なんで友達を信じちゃいけないんだよ……」

 という悲鳴が、僕の脳内の大部分を占めているのだ。

 僕は友達からこんなことをされるなんて微塵たりとも考えていなかった。友達から助けを求められたから素直に助けに行っただけだ。なのにどうしてこんな仕打ちを受けて、こんな気持ちにならないといけないのだろう。僕はただ猫林香美というひとりの友人を信じただけなのに。どうして友達に嘘なんてつくんだよ。どうして友達を騙したりするんだよ。凄く凄く心配だったのに。怖くても友達だから来たのに。全力で走ったのに。必死で探したのに。心の底から、僕は香美のことを想ってここまで駆けつけてきたのに。見つけることができて嬉しかったのに。なんで僕の信用を、信頼を、友情を、裏切るような真似をしたんだよ。

「もう嫌だ。香美なんて大嫌いだ」

 僕は泣きそうになりながら言った。こんな気持ちにならなければいけないくらいなら来なければよかった。こんな言葉を言う羽目にならなければいけないくらいなら、香美なんかに大好きな祖父の塔を教えたりしなければよかった。香美なんかと花火を見なければよかった。

「香美となんて仲好くしなければよかった。友達になんてならなければよかった」

 もう、殆ど泣いていた。香美なんかに泣き顔を晒してしまうなんて。

 香美なんて、香美なんて、香美なんて。

 君なんて大嫌いだ。

 僕の額に液体が降ってきた。また汗かと思った。

 でも違った。それは香美の涙だった。





 ごめん、と香美は漏らす。それを切欠に、香美は僕を犯そうとする動きを止めて、ただ洟を啜り涙を流しながら口を動かすだけになる。   

 ごめん、今更謝ってごめん、って何で謝ってんだろ、嫌だ、もう、うち、うちが、嫌だ、意味不明過ぎて嫌だ、友也、ねえ友也、うち何で泣いてんだろ、何で謝るんだろ、ごめん、うち、友也が好きで、すごく好きで、花火のとき、キスしようとしたくらい、好きで、あの日、二人で花火見るって、二人きりで、夜って、すごい嬉しくて、前の日に、告ろうって決めてて、

 香美はそこで一旦詰まって、片腕で汁塗れの顔を拭う。

 僕は何も言わない。

 落ち着いて。深呼吸して。

 別に本気じゃないから。僕こそごめん。

 ゆっくり話し合おう。

 とか、そういうことも言わない。

 筋合いじゃない。

 香美は再開する。

 でも、窓割れて、富良野さんが、富良野さんが来ちゃって、台無しになるって思って、富良野さん、富良野さんに苛々して、酷いことして、酷いこと言って、友也の前で、それで、もう、好きとか言う空気じゃなくて、でも、踏み出そうと思って、でも友也気付かないし、友也、富良野さんにうっとりしてるし、友也富良野さんのこと好きだし、

 香美はまた洟を啜る。

 ふす、確かにさ、富良野さん、可愛いし、美人だし、でも、うちのほうが一緒にいて、でもうちのこと、友也、別に意識とかしてないっぽいし、じゃあ、もう今更、富良野さん攻撃しても、うちが頑張っても、駄目だな、駄目だよなって思って、応援して、うちがいても邪魔だろうしって、線香花火、二人きりにして、そしたら付き合ったって言われて、

 僕の両腕は香美の両手に握りしめられている。ジッパーは開けられたままで、香美の顔や首から落ちて来る汗と涙が僕の服に染み込んで僕自身の汗と混ざる。

 全然喜べなくて、そりゃそうで、うちは友也が幸せならそれでいいとか友也と付き合えなくても関わっていられればいいとか、そんな風に出来てなくて、出来た人間じゃなくて、もやもやして、死にたくて、自分が嫌いで、自分のことが嫌いな自分も嫌いで、富良野さん嫌いで、友也は好きで、でも、こんな精神状態で、メンタルで、友也と遊んだり、出来なくて、メッセージ送っても、変なことばっかになりそうで、それで、限界で、もう言おうって思って、だけど、駄目って言われたら、美苗さんも一緒でいいかなとか言われたら、きっと、壊れちゃうかもって思って、何がって、言われたら、解んないけど、でも、放置したってひどくなるし、濁って、澱んでくるから、くるから、なら、壊れたほうがマシで、電話して、いいけど、なんて、あっさり、友也は、富良野さんと付き合っても、そんな風に、うちのことは友達で、友達でしかなくて、友達としか思ってくれていなくて、うちも、友達だけど、好きで、男の子で、恋しててさ、なのに、友也は富良野さんに恋してて、名前で呼んでて、今まで名前で呼んでくれてるのうちだけだったのに、香美、って、猫林さんから香美になるまで、一年あったのに、もう美苗さんで、

 香美は泣いている。香美が泣いている。友達が泣いている。僕の友達だった人。僕は友達としか思っていなかった人。

 ねえ、友也、友達って、友達って何、何なの、友達は、恋人より下なの、負けなの、結びつきとか、距離とか、恋人のほうがずっと近いの、何でなの、何でうちは、友也とキスしちゃいけないの、何で友達だからって、駄目なの、友達に、好きって言って、何が駄目、何がいけないの、どうして、あのとき、傷ついたみたいな、辛そうな、ねえ、友達は何人いてもいいのに、恋人はひとりしかいけないの、どうして、どうしてなの、どうしてうち、うちのこと、女の子として、見てくれなかった、どうして、何で、何が、何が悪いの、うち、ずっと一緒だったのに、一年間、ずっと楽しくて、二人で、ずっと二人で、最初は、猫林さんと、吉津くんで、でも、友也から、距離を感じる、って、一年目に、言われて、それから香美と友也だったのに、富良野さんは、最初から、友也くんで、一週間も経たないのに、美苗さんで、うち、どうして、どうすれば、どうすればそうなれたの、

 どうすれば香美は僕に女子として意識されることが出来ただろう? 

 さあ。

 誰かに恋をするのに大した理由は必要ないのと同時に、誰かに恋をしないのにも大した理由は必要ないのだ。

 なんて言葉も贈ろうとは思わない。

 香美はそんなの望んでいない。

 だって香美は別に訊いている訳じゃないのだ。僕のすぐそばで、僕を見て言っていても、僕には言っていない。

 香美は誰かに言っている訳じゃない。勿論、香美自身にも言っていない。

 そもそも言いたい訳じゃない。

 ただ、もう止まらないのだろう。もうどうにもならないのだろう。泣き出した瞬間から、僕に大嫌いだと言われたそのときから、胸の中で今まで膨らんで萎んで生まれて死んで熱して冷めて分離されて合成されて隠れて現れてきた感情を抑止することが不可能になり、決壊したのだ。

 香美は言う。

 そんで、そんなで、そんなだから、マックで、告って、振られて、友也、友達のままでいさせてくれるって、でも、無理で、もう無理で、わかんないって言ったけど、無理で、でも無理とか言えなくて、友達のままとか無理だけど、他人になりたくないし、恋人は絶対に無理だし、だったら、なりたくなくても、他人になるのが、それが一番、一番で、でも自分から、うちから、そう言うのは、考えただけで吐きそうで、やっぱ大好きだし、友也とずっと一緒にいたいし、でも富良野さんのこと好きな友也と、友達でいても、もしかしたら、富良野さんの話題とかされるかもって思って、富良野さんと三人で何かするってなったとき、富良野さんのこと見てる友也とか見たくないし、友也と富良野さんの組み合わせ、見たくないし、どうせ、そういうときってたぶん、違うかもだけど、友達として居る人って、三人目だし、友也と富良野さんとうち、になるし、うちのほうがずっと、ずっと前から、一緒で、好きで、大好きで、なのに、付添いみたいになるって、思うと、駄目で、だったら、もう友達じゃない、ないほうが、幸せで、だけど、友也は、うちと友達でいたいって、言うし、言うから、だから、こんなこと、嘘ついて、心配かけて、襲って、そうすれば、友也は、軽蔑するかなあって、思った、思ったんだけど、

 香美は今まで見たどんな誰よりもひどい表情をしている。

 まるで心の隅の暗くて弱い感情を一度に発露させたかのような。

 一ヶ月前の僕は香美がこんな顔をするなんて思っていなかった筈だ。

 だけれど、一体どうしてそう思っていなかったのだろうか?

 簡単だ。僕にとって猫林香美は少し気が強くて明るくて仲の好い友達でしかなかったから。

 香美にとって残酷なことに。

 そしたら、ほんとに、本当に、嫌われて、ショックで、すごい、すごいショックで、痛くて、自分から、そうなるようにしたのに、自分の意志で撒いた種なのに、嫌で、これでいいはずなのに駄目、駄目で、なんで、なんで泣いてるのか、本当に解んない、解んない、嫌だ、自分嫌だ、嫌い、自分嫌い、うち、うちは、どうすればいい、ねえ友也、友也、友也、何で、何で嫌いなんて言うんだって、そんなのうちが、うちがそんなの、そんなことしたせいで、何でだって、うちがそんなことしたの何でだって、全然解んない、今のこれも解んない、ねえ、友也、ごめん、ごめんね、ごめんなさい、ごめん、助けて、助けてよ、友達でしょ、友達だよね、まだぎりぎりそうだよね、ごめんね、崩したの、酷いことしたの、うちだけど、訳解んないけど、うちのこと、うちを、助けて。

 そんなことを言われたって、と僕は言う。

 そんなことを言われたって。もうそんなのどうしようもないじゃないか。僕だって。僕だって香美のこんな顔なんて見たくないよ。僕には香美の気持ちを受け止めることは出来ないよ。僕は美苗さんが好きだから。美苗さんの恋人だから。香美の告白も。キスをされるのも。犯されるのも。受け入れられないし。受け入れちゃいけないんだよ。

 だったら、と香美は言う。

 だったらさ、せめて、落ち着くまで、抱きしめて、抱きしめてよ、それくらいなら、友達同士でも、するでしょ、ねえ、愛とか、なくていいから、嫌々でいいから、抱きしめて、そしたら、あとは、絶交とかしていいから、今だけ、抱きしめて、そうしたら、助かる。

 僕は香美を抱き寄せた。

 美苗さんとは体重も体格も感触も香りも違う。

 香美は僕の肩と首の間に顔を埋めて、何も言わない。呼吸音すらしない。さっきまであれだけ喋っていたのが嘘みたいに。口なんてないみたいに。唇なんて付いていないみたいに。

 猫林香美。

 僕の友達。

 二年間同じ学校で、二年間同じクラスで。

 そして、それだけのはずだった。

 少なくとも僕はそのつもりだった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕が間違えたのだろうか? いや、そんなことはない。僕は悪くない。香美も悪くない。美苗さんだって悪くない。恋や愛も悪くない。悪い人なんてどこにもいない。

 ただ、残念なことが起きて、残念な結果になっただけだ。

 どんな経緯や理由があるにせよ、僕は香美の行動によって傷つき、嫌悪感を抱いたのだ。哀しみや怒りも覚えたのだ。その現実も痕跡もきっと永遠に消えない。許せるかどうかも判らない。少なくとも、僕は香美を抱きしめこそすれ許した覚えはない。

 嫌いだと言ったし、友達にならなければよかったとも言った。

 それは、少なくともそのときは、偽りなき本音だ。

 けれど、それでも僕は、香美の友達を辞めたいとは思わない。

 香美と他人になりたいなんて、絶対に思わない。

 こういうのを友情と言うのだろうか?

 だとしたら、とても身勝手な感情だけれど。

 でも、そもそも人間関係なんて殆どが身勝手から始まるものだ。

 自分の寂しさのために友達を作り、自分の愛しさのために恋人を作る。

 そういうものでしかない。

 僕達は身勝手だ。

 きっとそれを受け入れ合うことこそが、人間関係なのだと思う。




 そして僕は恋人を疑うことの罪と罰を知る。これは僕の予想なのだけれど、美苗さんは僕から『今日は塔に行っていないのか』という確認の電話をされて、そのままきちんとした説明もなしに切られたせいでどういうことだったのかどうしても気になってしまって、それゆえに彼女は単身、パジャマを着替えて夜道をひとりで歩いて、この塔まで向かったのだ。そして、一階から四階までの電気が点いているから僕が何かをしているのだと確信し、自分で割った窓から入り、一階から三階までを――きっと、僕がついさっきしたように――くまなく探して、四階まで登ったとき、僕と香美の姿を目撃してしまった。

 僕に身体を預けて動かない香美を。

 香美を抱きしめてじっとしている僕を。

 僕と美苗さんが初めて契ったソファーの上で、香美と抱き合っている僕の姿を。

「何やってんの、友也くん」

 美苗さんは、強くも震えてもいない、平淡な声で問いかけた。

「違うんだ、美苗さん――話を聞いてほしい」

 咄嗟に、僕は言った。言ってから、こんな常套句みたいな言葉を言う日が来るなんて、と自分に吃驚した。これじゃあ言い訳みたいじゃないか。でも実際、急にこんな状況になったら、すぐに出てくるのはこういうありふれた言葉くらいだ。少なくとも僕は、ここで気の利いたことを言えるほどの人生経験はなかった。

「振ったって、嘘だったの?」美苗さんは香美を見ながら言った。

「嘘なんかじゃない! ちょっと落ち着いて話し合おう――」

 美苗さんは話し合う気なんて更々ないようで、それどころか聞いてすらくれないようで、僕の言葉を最後まで聞かずに走り去ってしまった。僕の上には香美が乗っていたから、すぐに動けなかった。

 走った方向には――美苗さんが割った、北東の出窓。

 受けたら私、あの出窓から飛び降りるから。

 僕は自分がどうやって香美をどかしたのか、よく覚えていない。でもきっと、優しい風にはできなかったと思う。

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