光の華 THREE 後編


 美苗さんの家はアパートメントの201号室で、彼女曰く隣の部屋は空き室らしい。大家さんの家も遠くにあるから、騒いでも余程じゃない限り苦情はこないのだとか。

「お邪魔します」

「ただいま」

 どちらの言葉も返してくれる人はいない。玄関先には僕の靴と、美苗さんの靴と、恐らく通学用のローファーしかない。『おばさん』はもう外に出たのだろう。

 閉じられた靴箱を覗いてみたい衝動に駆られるが、やめておく。理由はプライバシーの観点からの配慮、ということにしておく。本当はただ、見るのが怖いだけなのだけれど。

 居間に通される。電気を点ける。美苗さんは台所に行く。飲み物を出してくれるらしい。

「何が良い? 缶でよければお酒とかあるけど」

「へえ。美苗さん、飲酒するんだ」

「いや、全然。美味しさもよく解らないくらい。友也くんは?」

「生憎、親族に飲ませてくれる人がいなかったから……美味しさがよく解らないって感覚すらもよく解らない」

 正直に告げると、そっか、と美苗さんは普通にコップに牛乳を注ぎ始める。それでいい。美苗さんが飲酒を好まないのなら、そのお酒は『おばさん』のものなのだろうから。見知らぬ他人に、しかも大人に、あまり迷惑を掛けたいとは思わない。

「あ、友也くんは牛乳の濃さに拘りとかあった?」

「いや、とくには」

 渡されたコップに口をつけようとして、美苗さんに制される。

「乾杯しよ、乾杯」

「何の乾杯?」

「お泊まり記念日」

 きん、とコップ同士が緩く衝突する。外の暑さで喉が渇いていたから、牛乳がとても旨い。

「そう言えば、僕の着替えとかどうしようかな……汗かいたし、シャワーは浴びておきたいけど」

「そうだね。私やおばさんのはサイズが合わないだろうし」

「夏とはいえ、裸で過ごす訳にもいかないからね」

「別に私はそれでもいいけど?」

「……僕が駄目なんだ」

 恋人とはいえ、初めて来た家の中を裸でうろつき回る勇気は、僕にはなかった。今日のところは、不本意ながら我慢する向きとなった。男だから一日入らなくても大丈夫、なんて台詞があったりするけれど、あれも常識として浸透したら性差別になりそうだよなあ、なんて考えつつ扇風機の風を浴びる。

 美苗さんはお風呂に入る。

「覗かないようにね」

「大丈夫、脱衣所で水音に耳を澄ませているから」

「そっちのほうが変態だー」

 笑いながら脱衣所のドアを閉める美苗さん。鍵は閉めなかった。僕は彼女が出るまで居間で待っていることにする。携帯を起動する。香美からの着信はカラオケのときの一件のみ。やはり掛け直したほうがいいだろうか……いやさ、美苗さんに気付かれたら色々と拗れそうだからやめておく。別に、悪いことをするつもりじゃないのにどうしてそんな風に考えなければいけないのだろう。そんなの決まっている。最悪の事態は必ずしも最悪の行動によって引き起こされるとは限らないのだ。良かれと思って、これくらいならいいだろう、そういう思考によって起こる悲劇は少なくない。

 僕はメールボックスを開き、何も来ていないことを確認して、携帯の電源を落とす。それから、この家について考える。

 美苗さんの両親はいない。彼女自身が言っていたことだ。そしてこの家には美苗さん/『おばさん』/両親の四人で暮らせる広さがあるとは思えないから、きっと美苗さんは『おばさん』に引き取られたのだろう。離婚だったらどちらかの親に引き取られるのが一般的だろうから、美苗さんの両親は亡くなったと考えるのが妥当だ。亡くなったのではなく両親共々記憶喪失で、親としての記憶や愛情を忘れてしまっているから、美苗さんの『親』はもう失われてしまった……なんてことを不謹慎にも思いついてしまうが、そんな訳がない。それじゃあ三流小説の筋書きだ。

 でも、と僕は部屋を見渡して首を傾げる。

 仏壇がどこにもない。アパートメントで仏間を用意するのは難しいだろうし、見たところ居間だけでリビングはありそうにない。床の間も多分ないだろう。どこかの押し入れだろうか? 美苗さんの寝室とか……何だか、美苗さんが朝起きて押し入れを開けて拝んでいる光景が想像しにくいけれど、人間の行動が他人の想像の範囲内で収まることなんてないのだから、一先ずその方向で納得しておくことにする。

 置いてなくとも、宗派が違うだけかもしれないし。

 話したくなったら話すと美苗さんも言っているのだから、いつか知ることになるのだろうな、と思いながら彼女の湯上りを待つ。

 美苗さんはバスタオル一枚で上がってくる。髪を頭の上の方でだんごに纏めて。

「お待たせ」

「今来たところだよ」

「じゃあさっきまでどこにいたの……?」

「それより、どうしてそんな姿で」僕は目を逸らしながら言う。

「え? これがいつも通りだけど」

 美苗さんは当たり前みたいに僕の隣に来て、扇風機を固定モードから首回しモードに切り変える。少しの間だけ風を浴びてから、

「じゃ、パジャマ着てくるから。覗いていいよ」

 と言って立ち上がり、居間から出ていった。

「…………」

 さっきまで美苗さんのバックグラウンドについて真剣に推理していた自分が、何故だか馬鹿らしく思えてしまった。

 ややあって、居間のドアがまた開けられた。パジャマ姿の美苗さん。白地にぐでたまが散りばめられている。襟はポロシャツのようになっていて、第二ボタンまでが開けられている状態だ。

 それにしても、と僕は美苗さんの顔を見ながら思う。お風呂上がりということはノーメイクと考えていいだろうけれど……美苗さん、本当に綺麗だな。改めて思う。日中と殆ど変わらない。目立つような肌荒れもないし……本当の意味ですっぴん、ということなのだろう。

 不躾を承知でじいっと見つめていると、美苗さんは僕の隣に寄り添う。肌がしっとりと温かい。シャンプーの匂いが鼻腔を撫でる。僕はそれだけで欲情してしまうけれど、行動を起こす前に彼女はこんなことを言い出す。

「ねえ、友也くん。アルバム、見ない?」

「あ、アルバム?」

「うん。音楽じゃなくて写真のほう」

「それって……家族写真とかの?」

 家族の想い出のアルバム……だろうか。美苗さんが生まれたときからの集合写真とかを保管してあるような。美苗さんはそれを見せながら両親の話をしてくれるのかもしれない。それなら見たい、と思う。性欲なんて後でいい。

「うん、まあ。そういうの、なんだろうね」

 と、美苗さんは歯切れの悪い反応をする。やはり、両親との間に何かがあるのだろう。僕の憶測が的を射るようなことは九分九厘ありえないだろうから余計なことは考えないが。

 余計な想像が事態を好転させることなんて殆どないのだ。

 美苗さんに促されるまま居間を出て廊下を歩いて、恐らく美苗さんの部屋と思われる、高校生の部屋にしては少し狭い一間に通された。白いベッド/そこそこの大きさのクローゼット/小説や漫画や絵本が詰め込まれたカラーボックス/扇風機/勉強机。天井から電灯がぶら下がっている。

 押し入れはなかった。

「そこのベッドに座っていいから」

 言われて、僕は大人しく腰を下ろす。それほど柔らかくはない。綺麗に敷かれたシーツ。乱れのない掛布団。染みひとつない枕。全て白い。病室みたいだ、と失礼にもそう思ってしまった。

 美苗さんはカラーボックスのほうではなく、勉強机の小さなファイル立てからアルバムノートらしきものをひとつ取り出した。『私達の想い出』と表紙にサインペンで書かれた、無印良品にでも売っていそうなシンプルなデザイン。

 中身を確認してから、美苗さんはそれを持って僕の隣に座った。そしてゆっくりと、一ページ目を開いた。最初のページには一組の男女が楽しそうにピースサインをしている写真が貼られていた。日付は十八年前で、まだ美苗さんは生まれていないだろう。

「この二人が、両親?」

「うん」

 美苗さんは次のページを捲った。一ページ目と同じ男女が自然の中で笑い合っている。どうやらデート中の写真らしい。二人とも指輪をしている。四ページ目になると女性のほうのお腹が目立ってくる。美苗さんがいるのだろう。段々と家の中での写真が多くなってくる。そして六ページ目。美苗さん零歳。しわくちゃの赤ちゃん。可愛いね、と僕は言う。美苗さんは、ありがと、と抑揚のない声で言って次のページを捲る。暫くの間、三人で撮影している写真ばかりになる。九ページ目には美苗さんは六歳で、小学校の入学式の写真。三人で校門のところで写真を撮っている。そして、美苗さんの写真はそれが最後になる。十ページ目からはまた、二人で撮っている写真ばかりになる。美苗さんがカメラに写らなくなる。最後の写真から何年経っても美苗さんの再登場はない。たぶん、フォトショップで消去したとかじゃなくて本当に撮影されていないのだ。男女で山や海や遊園地や縁日に行った想い出の写真がずっと続く。ずっとずっと続く。まるで美苗さんなんて生まれていないみたいに。

 僕はいったい何を見ているのだろう?

 そしてそのままアルバムは終わる。今から五年前の日付に撮影された、ウェディングドレスの女性と白いタキシードの男性の写真で締め括られたアルバムは、ページがまだ半分以上余っていた。

「美苗さん」アルバムを閉じた彼女に、僕は訊く。舌がもつれて震えるけれど、どうにか言葉にする。「これ……何?」

 美苗さんはアルバムを床にそっと置く。それから唐突に僕に抱き付いて、ベッドに倒れ込む。仰向けの僕は俯せの美苗さんに抱きしめられている。彼女の顔は僕の顔の横を見ている。僕は彼女の表情を見ることが出来ない。

「美苗、さん」

「友也くん」彼女は甘ったるい声で言う。まるで酔っ払っているかのような、蕩けるような声色。「私、前に……友也くんとする前に、物語を話したよね」

「うん。あの、死ぬまでの七日間を生きる夫婦の話だよね? それが――」どうしたの、と言おうとして、僕は背筋に寒いものを感じる。

 あのあと、僕は美苗さんに訊ねた。

 さっきの物語は美苗さんが創ったの?

 美苗さんは答えた。

 事実を元にして創った。

「あの話、事実を元にしたフィクションなんだけどね」美苗さんは言う。「でも、大して面白いアレンジとかをした訳じゃないの。私は想像力を駆使してロマンチックに演出したりしなかった。だって、あれは殆どそのまま起こったことなんだから」

「ほ……殆どって」

「殆どは殆どだよ。だって、『起こったこと』の、全ての段落から、たった一行削除しただけだもん」

「一行」

「うん、一行。何だと思う?」

 解らない。そんな問題を出されても、僕は今とても混乱しているのだから。思考が働かない。ただひたすらにこれ以上の話を聞くのが怖い。

 きっと僕がここで逃げ出して美苗さんの家からも出ていったら美苗さんは僕を嫌いになるだろう。

 でも僕がここで逃げ出さず、美苗さんの部屋からすらも出なかった場合、僕は美苗さんのことが嫌にならない保証はあるのだろうか?

 怖い。僕は美苗さんの話が怖いし、美苗さんが怖い。

 心の準備が必要なら前日にちゃんと連絡してくれればいいのに。

「正解はね」

 美苗さんは。

 解答を告げる。

「『家に一人娘を残して。』――でした」





「二人は晴れた日、夫婦仲好く遊園地に遊びに行きました。家に一人娘を残して。ですが突然、夫婦は揃って熱を出してしまいました。仕方なく遊園地を切り上げて、病院に向かいました。お医者さんに診察してもらうと、その熱は寿命七日病の初期症状であることが判明しました。夫にも妻にも、もう七日間しか余命が残されていないのです。寿命七日病には治療法がなく、大人しくタイムリミットを待つしかありませんでした。

「熱はその日のうちに収まりましたが、夫婦は家事をする元気もありませんでした。二人は明日から六日間しか生きられないという、なんとも現実味のない現実に、しっかりと向き合うことにしました。残りの寿命をどう有意義に過ごそうか。あれこれと議論した結果、悲しまずに幸せに逝けるように、六日間をずっと二人のデートに使おうという結論に至りました。家に一人娘を残して。夫婦は、それはそれは愛し合っていたものですから、そうして二人で時間を過ごすことが一番の幸福なのです。二人は、仕事をしばらく休む旨を職場に伝えました。返事は聞きませんでした。

「次の日起きると、二人はまず海を見に行きました。列車まで使って、遠い海へ。夫婦は人気のない岩場に座って、手を握って、ずうっと水平線を見ていました。日が暮れると、目を瞠るほど美しい夕焼けを見ることが出来ました。夫婦は住んでいた家には帰らずに、近くのホテルに泊まりました。その後、寿命が尽きるまで夫婦は一度も家に帰りませんでした。家に一人娘を残して。

「海を見に行った次の日、二人は知らない街で一日中遊びました。踊ったり歌ったり、食べたり飲んだり、服を買ったり思いっきり走ったり。平日だったので空いている店も多くて、まるで今まで社会で抑圧されてきたぶんを取り戻すみたいに全力で。夜にはくたくたになっていたので、昨日とは違うホテルで泥のように眠ったそうです。家に一人娘を残して。

「次の日は、一度住居の近くに戻って、ひたすら散歩をしました。近所の人にはただ有給を使っているだけだと説明しました。そして、いつも行っているショッピングモールで、いつも行っていないお店に行ったり、いつも気になっていたものを買ったりしました。機会のなかった旅館に泊まってみたりもしました。家に一人娘を残して。その晩、妻は今までお世話になった人に電話を掛けました。寿命七日病を発症しているということは誰にも言いませんでした。とにかくお礼が言いたかっただけなのですから、心配をかけたくはありませんでした。

「翌日、夫婦は二人が出会った街に行きました。そして、まだ恋人になったばかりの頃によく食事をした喫茶店に立ち寄ると、あの頃のメニューがまだ揃っていて安心しました。夫婦はそのメニューを頼むと、食後までずうっと、恋人同士の頃の思い出を語り合いました。そして食べ終わったあとは、思い出の場所を巡れるだけ巡りました。家に一人娘を残して。

「残り寿命が二日間になった日は、二人はどこにも行きませんでした。ホテルの上質なベッドの上で四六時中愛し合いました。家に一人娘を残して。愛情を惜しみなくぶつけ合いました。愛のために何度か泣きました。でもその涙を拭ったのも愛でした。たくさんの感情を吐き出しました。今まで言えなかったことも告げました。求め合い、応え合いました。その日が一番幸せでした。

「最後の一日。夫婦は衣装屋さんに行き、残っていた最後のお金でウェディングドレスとタキシードをレンタルしました。そしてその日の夜、誰もいない丘の上で、二人きりでもう一度結婚式を挙げました。夫婦が指輪を交換し、誓いのキスをしたちょうどそのときに寿命は訪れ、心臓は停まりました。夫婦は幸せそうな笑顔で、抱き合いながら亡くなりましたとさ。家に一人娘を残して」





 美苗さんの右手が服の上から僕の脇腹を撫でる。ぞくりとする。小指と薬指と中指と人差し指と親指って、敏感なところに置かれるとその違いが見ずも明瞭になる。僕はでもすぐには興奮できない。彼女のした話は僕にとってあまりにも冷たすぎた。

「とても素敵なカップルだったと思う」美苗さんは囁く。「私なんか見えないくらい、お互いにぞっこんだった」

「……でも、親なんだから。親なんだから、子供のこともちゃんと、見てあげないと」

「見てたと思うよ。私が小学生になるまでは」

「なってからは、どうしたの」

「居候のおばさんがいたの」美苗さんは僕の臍に指を立てる。「とてもお世話になったなあ。って、まあ今もだけど」

「……美苗さん」彼女は、だからと言って、『おばさん』を親として愛している訳ではないのだろう。少なくとも彼女の言葉からはその片鱗すらも感じ取れない。つい五年前まで彼女の両親は生きていた。けれど両親はその更に数年前から彼女を子供として扱ってこなかった。居候に責任を押し付けて、自分達は色々なところに旅行に出て。最期には七日間帰らず、財産を残そうという配慮もなく二人きりで亡くなった、両親。

「でもね、友也くん」美苗さんは力ない声で言う。「最期の七日間、両親はずうっと家を空けていたけど……。その間は、当時の私は、とてもほっとしてたよ」

「ほっと、って……どういうこと?」

 虐待もされていたのだろうか。いや、具体的なところは判らないにしても親が子供を無視するというのはそれ自体が虐待だろうけれど。でもその場合、両親の外出は美苗さんが胸を撫で下ろすことに繋がるとは思えない。

 考える僕に、美苗さんは吐き捨てる。

「私の両親は、私のことなんて見ていなかった。私がいることなんて全然考えなかった。だから、まるで子供の目なんてどこにもないみたいに、暇で体力のあるときはいつも、セックスばかりしていたから。朝となく夜となく、いつでもどこでもどんなときでも、それは熱烈にお楽しみしてたよ」

「…………それって」

「あはは。まあ虐待だよね。おばさんは居候させてもらっている身だからって通報はしなかったけど。でも私はすごく嫌な気分だった。とても気持ち悪かった。そのまま燃えて消えてしまえばいいのにと思っていた。けれど私に両親を殺す勇気はなかった。だからそういうとき、いつも家の外に逃げてた。おばさんが迎えに来るまで」

 ――あの家、五年くらい前には船原さんの家だったんだよ。

 ――小さい頃、よくこのベンチに座ってたから。

 殺す勇気もなければ、どこかの家に駆けこむ勇気もなかったのだろう。

 小学生の頃の美苗さん。

「『可哀想』とか、思わないでね。思うなら『可愛い』にしといて。そっちのほうが幸せだから」

「可愛いよ、美苗さん」

「ありがとう」

「ねえ、美苗さん。可愛い可愛い美苗さん」

「何?」

 首を傾げる美苗さんに、僕は言う。

「本当は性的なこと、嫌いなんじゃないの?」

「わかんない」

「わかんない?」

「わかんないけど、愛し合うことは素敵で綺麗なことだと思うよ」

 と言って、首を傾げたままで笑う彼女のことが、僕はまたわからなくなってしまっている。




 それから閨事が始まる。僕の人生で二回目の行為。でも先程の話が尾を引いて僕は何だかうまく没頭できなくて、逆に美苗さんは前より積極性を高めていて、結局最後まで致すことはできない。どちらも不完全燃焼のままで、もういいや、ということにする。

 裸同士。僕は美苗さんを抱きしめる。美苗さんも僕を抱きしめる。薄い布団は僕達のお腹を冷やさない程度に被さっている。

 僕は美苗さんに、ごめんね、と囁く。

 なにが、と美苗さんは僕の目を見て訊く。

 最後までできなくて、という言葉が頭に思い浮かぶけれど、なんとなく違う気がして、もう少し適当な表現があるような気がして、一旦しまい込んでしまう。でも別の言葉は出てこない。だから不本意に黙ってしまって、その間に察したのか彼女は言う。

 気にしてないよ。今回はちょっとバランスが悪かっただけ。私が振り回し過ぎたんだよ。……友也くんも、色々まだまだなところはあったけどね。

 と、全てを許すような笑みで慰められて、僕は胸が痛む。自分だけを悪く言ったら僕が罪の意識を感じてしまうことを見越して僕についても付け加えてくれる配慮に、優しさに、僕は気付いてしまう。どうしてこういうときだけ鈍感性が発揮されないのだろう。鈍感なほうが幸せなときに限って察知してしまう。そしてきっと、僕は彼女の本当に気付いてほしいところに関してはいつも感じ取れないでいるのだろう。

 ありがとう、と僕は言う。美苗さんは黙って僕の頭を撫でる。僕はどんな表情をしていたのだろう。解らないけれども、取り敢えず撫で返してみる。さらさらと絹糸のような細やかさの黒髪。

 夏。夜。女の子の部屋。白いベッドの上。薄い布団の下。暗い部屋の中。男女。恋人同士。裸同士。高校生同士。撫で合う二人。気付かれる気持ち。気付かれない気持ち。

 きっと今、ここにあるものはそれだけではない。僕が、美苗さんが、あるいは二人ともが見つけられていない何かが漂っている。確信はないけれど、少なくとも空間を構築する要素の全てを把握できる人間なんて一握りだ。いつだって僕達は綱渡りで、下を見ると怖いか らなるべく目を背けていて、でもそのせいで綱がどんどん細まっていることに気付けないでいる。全部が奇跡的な偶然の連続で保たれていることに気付けないでいる。でも、そういうことに気付かない振りをしていないと僕達は安心して眠ることもできない。





 深夜、ふと目を覚ます。美苗さんを起こしてしまうのは忍びないのでそのまま目を閉じてまた眠れるのを待つことにする。

 すると美苗さんの寝言を聞く。聞いてしまう。

「友也くんなんて……死ねばいいのに……」

 それは確かに、美苗さんの声だった。でも僕に、美苗さんの心の中の僕に対する言葉のはずなのに、どうしてか世界の全てに対しての呪詛のようにも聞こえた。

 僕は眠れないまま朝を迎えた。だけれど、僕の睡眠時間なんて、そんなことはどうだってよかった。





 思えば夏休みのマクドナルドは僕にとってソフトツイストと水をテイクアウトして暑さを誤魔化しながら帰路に着くためのお店なので、ランチをとるのを目的として訪れたのは一ヶ月半振りだった。僕は美苗さんとデートした翌朝、一度家に帰ってお風呂に入って着替えて、それから所以駅のマクドナルドに赴いた。その間に待ち合わせ時間を香美にメールで確認すると、午前十一時半だと言われた。

 僕の到着時刻は午前の十一時で、香美の姿はまだない。

 テーブル席の椅子のほうに座り、ソファーにリュックを置いて席をとった。

 最近、香美の様子がおかしいから今回でその原因だけでも理解できればいいのだが……一年間付き合ってきた友達が急に今までとは違う態度をとってきたのだから、何かあるのは間違いなのだろうから。でもそれなら、どうして僕に相談してくれないのだろう?

 香美は十一時半になっても来なかった。メッセージを送ってみても返事はなかった。十二時になっても来なかった。十三時になっても来なかった。十四時になって、やっときた。

「ごめん。ちょっと立て込んでた。待っててくれてありがと」

 香美はそう言ってソファーに腰を下ろした。香美は"Isolation"と褐返色で書かれた白い半袖のシャツを着て、首からチョーカーを提げていた。チョーカーの先には金属製のリボンのような飾りが付いている。

「どういたしまして。何食べる?」

 と僕が訊くと、香美は財布からチーズバーガーのセットとシェイクのクーポン券を取り出した。

「友也は何食べんの? クーポンあったら分けてもいいけど」

「や、大丈夫。お金なら普通に持ってるし」

「そっか。じゃ行こう」

 レジで少し並んで、香美は先程のクーポンのものを、僕はてりやきバーガーとチキンマックナゲット、それからファンタグレープのМを注文した。トレイを受け取って席に戻ると、隣のテーブルに二人の幼子を連れた母親が腰を下ろそうとしているところだった。

 いただきますをしてから、僕も香美もバーガーの包み紙を開けた。フライドポテトとチキンマックナゲットは暗黙の了解としてシェアすることになっている。

 テーブルの上からハンバーガーが消えてから、僕は口の中のものを飲み込んで問いかける。

「で、香美。話って?」

「え?」

「話がある、って言ってたじゃないか。何?」

「……んー、取り敢えず食べてからで」

「ちゃんと話してくれるならいいけど」

 と僕はチキンマックナゲットに手を伸ばす。バーベキューソースはふたつあるから、それほど遠慮せずに使える。

 やがてテーブルから食べ物が消えて、飲み物だけになったときに、香美はこちらをちらちらと窺いながらシェイクをかき混ぜている。そろそろだろうか。僕は時間を確認する。午後二時四十五分。まだまだ時間の余裕はあるけれど、香美がしたい話の長さがどれほどか判らないから早く始めてほしい。

 というか、と僕は思う。

 僕と香美の間の空気として、これは少し異常だ。今まで、こんな風に気まずさというか、緊張感のある空気になったことはなかったのに。今までと変わったことは何だろう? それについては明瞭だ。富良野美苗の登場。僕が美苗さんと恋人になったこと。でもそんな、言ってしまえば香美の人生にあまり絡んでこなさそうなことがどうして僕達の空気を変えてしまうのだろう? 僕と香美が付き合っているというのならまだしも(そうだとしたらとんでもない状況だが)、ただの友達同士だというのに。僕は別に美苗さんと付き合っているからといって香美をないがしろにした覚えはないのに。

 もしかして、美苗さんではなくて、香美と塔に登り美苗さんに出会ったあの夜に見た花火が、香美の中の何かを変えたりしたのだろうか? 闇夜の救いの光が猫林香美という人間の中の何かを変え、その影響で様子が怪しくなったのだとしたら……なんて想像力を働かせていると、見透かしたように香美が言う。

「ねえ、友也。花火大会の日に友也に訊かれて、ずっと放置してた質問があったよね。あれ、今答えるから耳かっ穿ってちゃんと聞いてね」

「質問……?」

「好きな人はいるのか、ってやつ」

「……ああー」

 したようなしていないような。

 でも、どうして今、今更、そんな話題を掘り返すのだろうか。

「うち、いるよ」

 香美は言った。

 僕の目を真っすぐ見て、はっきりとした発音で。

「そうなんだ。おめでとう。同じクラスの人?」

「うん」香美は頷いて、それから少し間を開けて、また僕の目を見て言った。「名前は吉津友也って言うんだけど」

 香美の言葉で硬直する僕。

 吉津友也。

 キツトモヤ。

 それは僕の名前に他ならなかった。

「聞こえてる? うちさ、あんたが好きなんだよ。花火大会のときにキスしようとしたくらい、恋してんの」

 さてこうして僕の日常の中の謎がひとつ解けた訳だけれど、こんな解答を僕はどうすればいいって言うんだ。

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