光の華 THREE 前編

THREE 家に一人娘を残して



 香美から電話が来る。『おはよ友也。元気?』「え? ああうん。おはよう……どうしたの、香美」『別に。一昨日はどうだった? うまくいった?』「一昨日? ……まあ、ね。付き合うことになった」『そう。……やっぱ、うちいなくてよかったでしょ?』「そんなことないよ。次は三人で行こう」『…………』「香美?」『ねえ友也』「はい」『うち、これからも友達?』「え? 僕はそのつもりだけど」『ずっと友達?』「うん。香美と遊んだり話したりするのは楽しいから」『……そっか。そうだよね、やっぱ』「どうしたんだよ、香美。何か嫌なこととか、変なこと言われたりとかした? 友だちだって言うなら相談してよ。力になるから」『ありがと。でも何でもないから。それじゃね。朝から、ごめんね』

 一方的な終了。まただ、と僕は思う。

 香美はこんな変な電話をした後に変な切り方をするような人ではなかったはずなのに。精神的に何かあるのだろうか?

 人間という生き物にいつも同じ素行とテンションを求めてはいけないと言われればそれまでだけれど……。

 自室の壁の高いところに掛けられている正方形の銀色時計は午前十時を指示している。僕はベッドから起き上がって顔を洗い、櫛で髪型を整え、歯磨きをして髭を剃る。どこかに行くの、と着替えているときに親に訊かれ、遊びに行ってくる、と返す。

 彼女さん?

 そうだよ。

 そっか。香美ちゃん?

 え? 何で?

 ……違う娘なの? どんな娘?

 その辺の説明は帰ってきたらでいい? 急いでるから。

 あ、そう。じゃあ楽しみにしてるからね。

 靴を履きながら不思議に思う。どうして僕の親は僕の彼女が香美だと勘違いしたのだろう。……まあ、僕が家に呼んだことのある女子なんて香美しかいないから、僕の周りには香美しか女の子がいないと思われてもしょうがないか。僕と美苗さんは全然違う学校に通っているし、美苗さんがあの日に身を投げようとしなければ絶対に関わることはなかっただろう。本来なら接点なんてなにひとつない僕達なのだ。

 人と人との出会いって凄いなあ、と実感してみる。

 僕は炎天下、ひとりで塔まで向かう。途中で美苗さんからメールが来て、向こうも家から出るところらしい。僕も今出たところだよ、ちょっと待たせちゃったらごめんね、と返信して、僕は坂を登る。ひとりで登る坂が一番長い。こういうとき、もっと携帯に音楽をダウンロードしておけばよかったと思わなくもないけれど、僕はイヤフォンやヘッドホンが好きじゃないから聴くとなると垂れ流しになる。それはやっぱり恥ずかしい。美苗さんとメールでやりとりをしながら坂を登りきり、僕は塔の門の前に立つ。待ち合わせ時間の五分前。僕の家から塔までの距離と、美苗さんの家から塔までの距離を比べれば美苗さんのほうが近い計算なのだけれど、そういうことは気にするべきではない。何はともあれ、美苗さんを待たせなくてよかった……と胸を撫で下ろしかけた僕の視界に左右から幕を被せられる。押し付けられた少し温いそれは太陽光に透けて輪郭を紅く光らせる。人間の肌だ。白い肌。

「ーだれだ」

「美苗さん、伸ばし棒の位置が最高に気持ち悪い」

「回答と突っ込みを両方一気に的確にしてくれてありがと」

 美苗さんは僕の目元から手を離すと、その手を僕の手に繋いだ。彼女はアザレア柄のサンドレスに身を包み、ベージュ色のショルダーバッグを肩から掛けていた。髪は後ろで括って垂れ下がらせて、それがいつもよりも明るい印象に感じさせた。

 勿論、いつもの大きな(似合っていない)サングラスはかけていたけれど。

「おはよう、友也くん」

「おはよう。どれくらい待っててくれた?」

「いやあ、実は割とさっき来たばっかりで」

「そっか。まだ早いけれど、バス停に行く?」

「そうだね」

 塔からそう遠くない場所にバスストップが設置されていて、そこにはベンチも日除け屋根も自動販売機もあるから、少なくともこんな炎天下、何もない塔の庭で駄弁っているよりかはマシだろう。塔内に入るのもよかったけれど、門の開閉が少しばかり億劫だ。

 バスストップのベンチは露草色の塗装が少し剥げていて、年季を感じさせる。僕の親曰く、十年前からあるらしい。ベンチの上には誰も座っていなかった。僕達は時刻表の読める距離に並んで座る。次のバスは、十六分後。

 蝉のぞめきが空間を支配している。でも、街路樹を幾ら睨もうと声の主の姿は見えない。不思議だよな、と思う。どこにいても耳に届くくらい鳴いているのに、どこにいるのかは中々判らない。

 不思議だよね、と僕は美苗さんにその話をしてみると、美苗さんは、

「そうだね。でも、それでいいんじゃないかな? だってほら、別に人間に向けて鳴いてる訳ではないんだし」

「そうだけど、少し気にならない? 聞こえるのに、どこから聞こえるのかはよく判らないっていうのは」

「なら、誰かが録音したのを流していると思えばいいんだよ。勿論、実際はそうじゃないけど、そう思っておくことによって、私達はBGMとしてそれを楽しめるし、蝉達は余計な詮索をされずに自由に求愛を続けられる」

「はあ……」

「事実とは違くても、そう思い込むことによって平和になることって割とあるよね」

 確かに、そうかもしれない。何かが崩れたり駄目になったりするくらいなら事実なんて無視したほうがいい、というのもまたひとつの正しさだろう。

「正しいことというのは必ずしも、間違いや嘘を排したものではない……ってこと?」

「そういうこと。迷信とか、おとぎ話とかがその代表格だろうね」

 鈴虫の声も聞こえてくる。坂の上で、山が近い。

 美苗さんは、思い出したようにバッグの中を漁って、虫よけスプレーを取り出した。

「友也くん、これつけてきた?」

「あ、いや。別にいいかなって思って」

「駄目だよ。今日は街で遊ぶ訳じゃないんだから」

 彼女は僕の手首を取って、スプレーを吹きかけた。手の甲の中心から、肘の関節まで縦線で。両腕やって、スプレーをしまう。

「ありがとう」

「どういたしまして。……あ、肌質大丈夫だった? 今更だけど」

「特に弱くも強くもない感じだから、大丈夫」

 薬液の吹きかけられた部分が、違和感のある冷たさを主張する。耳の後ろから首筋まで汗が伝う感覚。日除け屋根のおかげで日射は感じないけれど、暑さは対して軽減されない。美苗さんはタオルで頬の汗を拭いながら、どこか遠くを見ている。僕も同じ方向を見てみる。車道に背を向けた状態で座っているから、目の前には普遍的な一戸建てしか見えない。表札には川島と書いてある。窓が閉まっていて電気もついていない。カーテンの色はピンク寄りだけれど、ちゃんとした色味はよく判らない。

「暑いね」と僕は言った。

「そうだね」と美苗さんは受けてから、「あの家、五年くらい前には船原さんの家だったんだよ」と、見知らぬ川島さんの家の表札を指差した。

「船原さんとは、知り合い?」

「いや。別に。関わったこともないよ。でもあの家が五年くらい前まで船原さんの家だったことは知ってる」

「ふぅん。表札だけ変わっちゃったってこと?」

「うん」

「よく覚えているね。関わったことのない家の表札なんて」

「小さい頃、よくこのベンチに座ってたから」

「何のために?」

 僕の質問は、時刻表より二分早く停車したバスにかき消された。僕達は小豆色のバスに乗り込んだ。三人の乗客がまばらに座っていた。奥から二番目左側、二人掛けの席に腰を下ろした。美苗さんが窓側に座って、クーラーの風を涼しそうに受けていた。

 老夫婦の乗車を待って、バスは発車した。

 行き先は、所以駅。




 所以駅から列車に乗って数分揺られ、句世江駅に降りるとまたバスを使って二十分。最寄りのバスストップから五分歩いたところに、僕達の目的地はある。

「綺麗だね。どこまでもどこまでも草原だ」

「うん。一度来てみたかったの」

 ゆとりがはら管理草原。人の手によって虫や蛇などの駆除が行われ、いつでも安全に時間を過ごせるようになっている、広い広い草原広場。敷地内に入るには荷物のチェックが必要になるうえに、いざというときに係員を呼ぶための防犯ブザーが貸与されるため、防犯面でも行き届いている。広い草原の中でゆっくりと時間を過ごしたいファミリーやカップルに支持されている、歌醒県の観光地のひとつだ。

 入場料は子供百円、中学生以上は三百円。

「地平線の向こうまで、ずっと草……。アルプスってこんな感じなのかな」

「でもこんなに安全で綺麗な草原、ここにしかないよね。ねえ友也くん、追いかけっこしようよ」

「好きだね、追いかけっこ。いいよ。勝ったら?」

「キスしてもいいよ」

「おっけー」

「私が逃げ切ったらどうする?」

 美苗さんはそう言って悪戯な笑みを浮かべる。

 キスしてもいいよ、と答えても通りそうだけれど、ここはあえて。

「入り口近くの売店のアイスを奢るよ」

「え、本当? やった! じゃ、スタート!」

「えっ」

 瞬きの合間に美苗さんは走り出していた。こちらを振り返りもせずに、地平線へと一直線に。

 幾らなんでもテンションを上げ過ぎだと思うのは僕だけだろうか。

 まあ、そういう面があっても可愛いからいいけれど。

 別にアイスくらい奢れるから、無理して美苗さんの逃げ切りを阻止する理由はない。

「……でもだからと言って、僕のほうの褒賞を諦める理由もない」

 すっかりアドバンテージを許してしまったが、まあそれくらいなら、彼氏として持つべき余裕だろう。大丈夫、塔のときだって追いつけたのだから草原でもいける筈だ――

 駄目だった。

「……ええと、ごめんね? その、友也くんが意外と体力なくて、私もびっくりしてるところだから……」

「謝らないで……惨めになる……」

 草原の真ん中に汗だくの僕が横たわっている。僕の顔を心配そうに覗き込む美苗さんは、ちょうどよい日除けになってくれている。僕もあの塔や坂を頻繁に昇降しているから、本当に体力には自信があったので、この結果には動揺を隠せない。でも考えてみれば、吹奏楽部はパートによってはとても重たい楽器を持ちながら、長い間演奏を続けなければならない部活だ。そのためには普通の人よりも体力が必要になる訳で……そもそもトレーニングに走り込みとか、腕立て伏せなどの筋肉トレーニングが含まれる時点で、僕みたいな帰宅部よりも体力が養われていて当然だ。

 ……という理論付けは然し、『追いかけっこで彼女に追いつけないままギブアップする男子』という、他人事だったら肩を叩かざるをえない現実の前には無力である。

「げ、元気出して友也くん。アイス奢ってあげるから」

「やめてください美苗さん。それは追い打ちでしかない」

 美苗さんはバッグからタオルを取り出して、僕に差し出す。僕は受け取るとまず顔の汗を拭って、それから自分のリュックの中の水筒を開ける。一口飲んで、ゆっくりと起き上がる。

「それじゃ、アイスを食べに行こうか」

「そうだね。はあ、良い運動したなあ……でも汗で日焼け止め流れちゃってるかな。塗りなおさないと」

「そう言えば、この管理公園には害虫とかいないんだから、虫よけスプレーは必要なかったんじゃない?」

「でも、あっちの」彼女は管理外の、林のほうを指差した。「草原に含まれないところだったら出たかもしれないから」

「あんなところ、行く予定あったの?」

「……ほら、ここ家族連れもいるし。キスで足りなくなったときには草原から出なきゃいけないかなあって」

「…………」

 追いつけたらそんな展開もあったのかと思うと、何と言うべきか、体力の足りない自分をここまで恨めしく感じたことはなかった。

 やはり、鍛えないと色々と損をする。

「ま、取り敢えず今はアイスだよ。アイスルート、アイスルート。ここのアイスの品揃え、殆どサーティワンと変わらないらしいから楽しみだなあ」

 さいですか。

 ゆっくり歩いて休憩所までたどり着き、席に荷物を置く。一緒にアイスを注文しに行く。僕も暑いし、疲れているから甘いものは魅力的だ。美苗さんはカップにチョップドチョコレートとキャラメルリボンを、僕はコーンにオレオクッキーアンドクリームをひとつ頼んだ。八百八十円也。千円で払って百二十円でお釣りを貰う。

「美味しいね」

「うん」

 美味しいけれど、サーティワンアイスクリームの同じ名前のフレーバーとまるで違いがないので不安になる。大丈夫なのだろうか。心配する筋合いはないし、美味しいからいいのだが。

 休憩所のパイプ椅子に置いた荷物をテーブルの端に置いて、僕達は向かい合って座る。自分のアイスを、お互いに食べさせあったりする。僕は今まで何となくスルーしていたキャラメルリボンの美味しさを知った。好きな人に食べさせてもらうアイスの味と一緒に。僕はプラスチックのスプーンでアイスを掬い、美苗さんの口に運びながら、こんなに幸せそうにアイスを食べられる人がちょっと前まで自殺志願者だったなんて傍目からじゃ誰にも判らないよな、とか思ったりする。実際、初対面の瞬間の僕に現在の状況を教えても嘘をつけと言うに決まっているだろうし。

 自分のアイスを堪能している美苗さんを見つめていると、彼女は僕と目を合わせる。サングラスは掛けたままだ。

「……どうしたの、友也くん。食べないと溶けちゃうよ」

「ああ、いや。幸せそうだなあっていうのと、サングラスは、もう外した方がいいんじゃないかなあって」

「ん? ああ、まあそうだね。でも掛けてるほうが落ち着くんだよねえ」

「そうなんだ。けど、サングラスないほうが可愛いよ」

「そりゃあ、サングラスあったほうが可愛かったらショックだけど」

「サングラスがあっても美苗さんは可愛いけどね」

「ありがと」

 リュックの中の携帯が着信音を鳴らす。電話が掛かってきた。僕はリュックから携帯を取り出して、「ちょっと席外すね」と美苗さんに言って席を離れる。発信者を確認。バイト先だったらどうしようかと思ったけれど、香美だったから少し安心する。でも香美はどうして急に掛けてきたのだろう?

「はいもしもし」と僕は少し緊張しながら応答する。

『友也? うちだよ』電話越しの香美の声。

「香美? どうしたの、突然」

『明日、空いてる?』

「あー……、夕方からバイト。昼ならまだ空いてる」

『そか。よかった。一緒にお昼しない? ちょっと話があるんだわ』

「ごはん? いいけど」

『……いいんだ』

「いいんだ、って誘ったの香美じゃん……やっぱり香美、最近少し様子がおかしい」

『その辺の説明も明日つくから。取り敢えず明日、いいよね?』

「いいよ。場所は?」

『所以のマックでいいよ』

「り。ちなみに心の準備は必要?」

『さあ。要るんじゃない? 知らないけど。ちなみに今、何してる?』

「え? ゆとりがはら管理草原。美苗さんと来てる」

『そっか。……じゃ、また明日』

 通話終了の表示が出て、僕は嘆息する。これは一体、何が起こっているのだろう。香美に何があったのだろうか。そのことは、僕にどんな関係があるのだろう……いやさ、友達なのだから、無関係にされたほうが傷つくけれど、それにしたって。

 もやもやとしながら席に戻ると、美苗さんはサングラスを外している。見蕩れる間もなく、彼女は僕に言う。

「誰からの電話だったの? なんだか元気がないけど」

「香美。明日のランチのお誘い」

「ふぅん。オーケーしたの?」

「まあね。最近、ちょっと様子がおかしい気がしたから放っておくのも危ないかと思って。話があるって言ってたし」

「話……ねえ。そっか」美苗さんは意味深に目を細めた。

「美苗さん……?」

「何でもなーい。それよか友也くん、アイスのコーン好き?」

「……嫌いじゃないけど」

「はい」と彼女は空のワッフルコーンの先端を、僕の口の側に突きつける。「あーん」

「……丸々残しちゃうの?」

「いいからいいから。あーん」

「……あーん」

 さふ、と先端を前歯で齧ると、美苗さんは、コーンを更に前へと突き出す。僕は唇に当たった部分を食べていく。さふさふさふさふさふさふさふ……。脳内で客観視してみると、少しだけ、牧場の牛や馬への餌やり体験に似ていると思った。別に問題はないが。

 コーンと食べきっても、美苗さんの手は僕の顔の前にある。人差し指が僕の唇のほう向いていることに気付く。恐る恐る舐めてみる。とくに嫌がられている感じはしない。何となくしゃぶり続ける。綺麗で少し長い爪。長い指の関節の皺。

 指舐めをセクシャルな行為として見做す向きはあるけれど、少なくとも舐める側からすれば、別に大して興奮したりはしないなあという感想だ。

 休憩所は閑散としているから、子供が目撃してしまう可能性は低いけれど、アイスクリームの売店の人はちらちら見ているような気がしないでもない。

 美苗さんは暫く黙って僕に指を舐めさせたあと、前触れもなく唇から指を抜き、唾液でてらてらと煌めく自分の爪を眺めながら、

「ねえ友也くん、今日は家に帰らなくていい? 外で過ごしたい」

 と言い放った。





 真意が全然図りきれなかったから詳しく話を訊いてみる。

「要は外でオールしたいなってこと。別にどこかで寝てもいいけど。でも今日は友也くんとずっと一緒にいたいから」

「ずっと一緒にいたい、って言うのは凄く嬉しいけど」

 何だか唐突な提案過ぎて、少し裏を感じる。香美からの電話の、というか明日香美と会うという約束をしてしまったことせいなのだろうか。

 嫉妬? だとしたら嬉しい反面、不安でもある。僕は別に美苗さんと付き合っているからと言って香美と疎遠になっていいとは思っていないのに。香美は同級生で一番仲が好くて、何でも話せるからいなくなられると困るのだ。美苗さんだって全然違う学校の知らない先生の授業中の微妙なミスの話なんてされても困るだろうし、その話をするためだけに長い説明をしなければならなくなるからテンポも悪くなる……とか、そういうのはどうでもよくて、とにかくなるべく香美と縁を切りたくない。でもそういう話をするのはきっと今じゃない。

「……うん、いいよ。たぶん親もちゃんと電話すればオッケーしてくれるだろうから。美苗さんのほうは大丈夫?」

「まあ、私は大丈夫だよ。前に彼氏いたこともあるし、おばさん、あまり干渉してこないから」

「そっか。……ねえ、美苗さん」

「何?」

「両親のこと、訊いていい?」

「それは話したくなったら話すから大丈夫。取り敢えずいないってことだけ言っとくけど」

「……そう」

「あ、『可哀想』とか思わないでね。思うなら『可愛い』にしといて。そっちのほうが幸せだから」

「わかった」

 と僕が言うと、美苗さんは黙ってこちらを見つめて来る。口元が少しにやついている。何かを期待されている気がする。じゃあそろそろ行こうか、は望まれていないような。……最近『そんな気がする』で選択肢を絞ることばかりだから、どこかで間違えていそうだけれど、まあ自分の行動なんて自分の意志でしか決められない。

 いつまでも黙っていられないから、僕は一先ず適当そうな本音を言ってみる。

「可愛いよ、美苗さん」

「ありがと、友也くん」

 よかった、正解だった。

 正解じゃないけれど笑ってくれているという可能性については、考慮したくない。

 親から外泊の了承を得て、僕達はゆとりがはら管理草原を出る。美苗さん曰く、この近くには何もないらしいので、バスで駅前まで戻ることにする。句世江駅の駅前を少し歩いて、結局しまむらとコンビニエンスストアと入荷の遅い本屋くらいしかなかったので、また列車に乗る。所以駅に着く。遊び慣れている駅前のほうが楽しい。美苗さんはまたサングラスを掛けてしまう。でも見慣れてくるとその状態もすごく魅力的に思えてきて、やばい僕でかいサングラスの女の子が『好きなタイプ』に入りそう。





 すっかり暗くなる。晩御飯になるようなものを近くのスーパーで買い込んでから、カラオケボックスに入店する。フリータイム。やや広い、八人くらいで来ればちょうどいいという感じの部屋に通される。午後八時。

 ソファーに座った美苗さんは、「たくさん歩き回って疲れた」と僕の膝に頭を置いて寝転がる。僕も疲れていない訳じゃなかったけれど、美苗さんを膝枕するシチュエーションが唐突に舞い降りてきてそれどころではない。疲れが吹っ飛ぶ、という感覚を初めて味わった……。汗で少し湿り気を帯びた前髪を手で梳いていると、彼女は言う。

「友也くん、歌いたいのとかあったら好きに入れていいからね」

「美苗さんは? カラオケ行きたいって言ったの美苗さんじゃん」

「んー、休憩がてらって言うか。オールと言ったらカラオケ、みたいなところあるし」

「そうかな……」

「ところで友也くんは名南奈美とか好きな人?」

「え。ごめん、誰?」

「あ、知らないなら良いの。というか知らなくて良いの。たださ、疲れているときに名南奈美なんかの歌詞が耳に入ったら最悪だから、確認のために訊いただけなの。忘れて」

「はあ……」

 どうやら相当お嫌いらしい。そこまで言われると逆に知りたくなるけれど、好きな子の嫌いなものを積極的に好きになるメリットはどこにもない。忘却忘却。

 結局、僕はマイクもタブレットも置いて、レジ袋の中のポテトチップスを開ける。僕も美苗さんもコンソメパンチ派だったのでそれを一袋。チップスを美苗さんの口元に近付けると、唇が開く。差し込む。咀嚼されながら飲み込まれていく。チップスの噛み砕かれる音。テレビジョンから流れる、知らないアーティストのメッセージ。袋の中を探る音。隣の個室の人達は随分盛り上がっているようだったが、僕達のいる部屋はそんな風に、どうでもいいような音ばかりが生息していた。

 僕の携帯が鳴る。ゆとりがはら管理草原のときと同じ音。香美だ。ポケットに手を遣ろうとした僕に、美苗さんは言う。

「出ないで。昼なら許すけど夜は駄目」

「……オッケー」

 三秒間くらい着信音は鳴って、やがて停まった。

 携帯の電源をOFFにした。

 僕の膝が痺れてきた頃に、美苗さんは起き上がって背伸びして、それからマイクを取った。彼女はそれから十曲以上歌った。色々なアーティストの曲を歌った。メジャーもマイナーもメインカルチャーもサブカルチャーもごちゃ混ぜに。でも、なんだかとても聴きやすい曲順だった。曲調の流れがついていきやすくて、それでいて飽きない。自分が全然歌っていないことなんて、まるで気にならないくらいに美しい流れ。美苗さん自身の歌唱力も一定水準を下回っておらず、どの曲も音を大きく外さずに歌い上げてくれるからストレスもない。

 カラオケでぶっ続けで歌うためのプレイリストでも作ってあるのだろうか。

 ひとしきり歌うと、美苗さんは僕にマイクを渡す。

「はい。友也くんの番」

「僕、美苗さんほど巧くないし持ち歌も十個も無いけど……」

「いいから歌って? 聴きたいから」

 僕はマイクを受け取る。携帯の音楽アプリを開いて曲名を確認し、タブレットで検索。出る。『KISS FROM A ROSE/アンジェラ・アキ』。一番まではどうにか歌えたけれど、そのあとに待ち構えている英語のパートでしどろもどろになる。思っていたより歌詞の流れが早い。慌てながら必死で画面に映る英文を読む僕を美苗さんはにやつきながら見ていてとても恥ずかしい。どうしてこの曲を選んだのだろう。誰か助けてくれ。畜生、英語の授業では発音は良いほうなのに……!

 最後の「愛で死ぬならキスで殺して」も日本語なのにうまく歌えずに、何故かひどく汗をかいてしまった僕はマイクをテーブルに置いてソファーに深く腰を下ろす。美苗さんにアンコールを乞われる。辞退したほうが精神的に良さそうだったが、アンコールを除けるのはどうにも印象を下げそうだったから取り敢えずもう少し楽に歌えそうなものを入れることにして受ける。アンコールって命令とどう違うのだろうか。男性ボーカルなら歌うのに苦労することはないだろうと『迷宮ラビリンス/嵐』を予約するけれど、イメージよりも音階が少し高かったから最初のほうで戸惑う。採点機能をOFFにしておいてよかった、と思う。

「次はデュエットしない?」

「いいけど、僕が知ってるやつで頼みたいかな……」

「解った。じゃあ知ってたら知ってるって言ってね」

 一曲目。

「ごめん、知らない」

 二曲目。

「曲名聴いたことある。でも解らない」

 三曲目。

「なんかのドラマのCМで流れてたかも。歌えないけど」

 四曲目。

「あ、クラスの嫌いな人が授業中に流して怒られてたやつだ」

 五曲目。

「アーティストは知ってる。それはごめん、聴いたことない」

 六曲目。

「ラップバージョンのほうしか知らない。美苗さんは……そっちは知らないんだ」

 結局、『君が代/国歌』をデュエットすることになる。

「細石の」まで交互に歌って、「巌となりて」からハーモニーを作る。

 然しまあ、カラオケで君が代を歌ったのはこれが初めてだけれど、どんなネタ曲よりも「何やってるんだろう自分」と思えてしまうのは流石国歌と言うべきか(僕だけかもしれないが)。

 歌い終えて、美苗さんは僕に時刻を訊ねる。確認するともう九時半になっている。彼女はそれを聞くと、

「ねえ友也くん、私の家に来ない?」

「え? カラオケはもういいの?」

「うん」

「というか、外で夜を明かしたいんじゃあ……」

「気が変わったの。外にいたって駄目だって判ったから」

 何が駄目なのだろう。唐突な心変わりについていけない。女心と秋の空とは言うけれど、そんな範疇にない気がする。僕が何かを間違えたのか、美苗さんが何かの間違いに気づいたのか。彼女の言葉から読めば後者だが、何が駄目なのかを理解できていない僕から察するに前者の可能性も高い。

 複合かもしれない。

 どちらにせよ、頑なにカラオケを続ける理由もないから、僕達はカウンターに行って支払いを済ませ、バスロータリーに行った。

 ベンチで、ポテトチップスの残りを食べながら待つ。

 夜の所以駅は、まるで家の中にいる人を除いた全住民が集まっているみたいに人が行き交う。車もそこかしこでヘッドライトから光線を飛ばしている。ビルや店やショッピングモールの明かり。夜の中の光。でもこれではあまりにも多すぎる。夜にこんなに光はいらない。光は救いで、救いの手は過多になると恩恵として思えなくなる。あたたかさが、あさはかにあふれて、ありふれてしまう。

「バス、まだかな」と美苗さんが呟いた。

「ごめんね」と僕は言う。「もうちょっと僕も盛り上げられたらよかったんだけど。カラオケ、あんまり行ったことがなくて」

「大丈夫、楽しかったよ。なんて言われると、気を遣われていると思う?」

「……うん」

「それは不幸なことだね。じゃあ」美苗さんは少しクールに前髪を掻き上げて、女優のように射抜く目で言う。「次回を楽しみにしてるから。精進しなさいな」

「……ありがとう」

 美苗さんの存在も、そのうちに僕にとってありふれたものになってしまうのだろうか? 今はそんなの有り得ないと言えるが、今だからそうなのであって、半年後――そこまで関係が続くとして――僕はきちんと彼女を尊重できているだろうか?

「あ、そうだ。ちょっと電話しなきゃ」

 美苗さんは携帯とイヤフォンを取り出して接続し、イヤフォンを右耳に嵌めて携帯を弄り出した。それから、イヤフォンのマイクに向かって話し出した。

「もしもし。私だけど、今から彼氏と一緒に帰る」

「えーいやでも」

「本当にいい? じゃーよろしくね。うんー解ってるーそれじゃ」

 通話を終えて、イヤフォンを外すと、美苗さんは言う。

「おばさん、今日はどっか泊まってくれるってさ。二人きりだね」

「え。嬉しいけど、そんな迷惑かけていいの?」

「いいのいいの。おばさんだって、カップルのいちゃいちゃとか、聞きたくないだろうし」

 と美苗さんが言ったとき、バスがやってくる。

 逆光が彼女の表情を隠す。どんな顔をしているのか不明瞭になる。

 その瞬間だけ、僕は富良野美苗の顔を忘却していた気がする。

 バスに乗って、二人掛けに座る。

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