光の華 TWO 後編



 唐突に提示された褒賞に驚いた僕はスタートが遅れる。

 美苗さんは暗い廊下を僕に背を向けて走って行く。

 急いでその背中を追いかけるが、美苗さんは結構速い……というか、走り慣れているような感じがする。

 後ろからでも判るくらいに綺麗なフォームで走っている。

 吹奏楽部のトレーニングには走り込みとかも含まれると、かつて姉が部員だった香美は言っていた。日常的に走っている人間は、その目的が速度になくても速くなっていくものだ。

 僕は歩いてばかりで全然走ってないから、体力はあってもそれだけでは距離は縮まらない。それにきっと、美苗さんのほうがその体力もあるだろう。

 暗闇に目が慣れているから、視界としては問題ない。美苗さんの服装が白のワンピースだから闇の中でも視認しやすいのも相俟って、電気が点いていないことは殆どデメリットにはならない。

 塔の中には隠れる場所なんてそうそうない――強いて言えばソファーの裏側とかがあるが、鬼ごっこのためにそんな埃臭いところまで行く人はそういないだろう――だから暗闇の中の白色さえ追っていれば見失わずにすむ。

 それさえ追えていれば。

 美苗さんが少しペースを上げたのを見て、僕も前傾姿勢になる。

 狭い廊下に足音が反響する。美苗さんは言う。

「友也くん意外と足遅いねー!」

「美苗さん存外に足速いね……」

 まあ、お互いに本気は出していない。

 こういうのは長いとだれるけれど短すぎると詰まらない。

 満喫するべきなのだ。

 美苗さんのペースが緩んで、僕のペースはそのままだったので、距離が縮まって来る。

 僕は美苗さんの背中に手を伸ばす。

 だけれどその指先は空を切る。

 美苗さんが唐突にペースを速めたから。

 追って、追われて。あと一歩で逃して、間一髪で逃れて。

 そういうのを楽しいと思えるのは、きっと若さの証拠なのだろう。

 僕は一度静かに立ち止まって、それから逆走を始める。

 美苗さんの足音が遠ざかる。僕の足音も美苗さんから遠ざかっているだろうから、きっと気付かれている。

 暗闇に、美苗さんの姿をまた捉える。

 美苗さんがこちらに向かって走って来る。

「きゃあ」

 とわざとらしい悲鳴を上げた美苗さんは、ブレーキをかけるみたいにつんのめって停止して、僕のほうを見ながらまた背を向けて逃げ出す素振りを見せるけれど、顔は笑っていて、もう本気で逃げようとしていない。

 僕は美苗さんの右肩を緩く掴んで、

「僕の勝ち」

 なんて言って笑う。

「あーあ。負けちゃった」

 と肩を竦める美苗さんもにやにや笑っている。

 なんだかくすぐったい気持ちになる。

 夏に屋内で、全力でないにしろ走り続けた僕達は当然汗をかいている。身体が火照っていて、前髪も乱れている。疲労からか、美苗さんは立膝の体制になる。僕もそれに合わせる。

「暑いね」

「暑いねえ」

「一旦休憩する?」

「いいや。暑いしちょっと疲れてるけど、テンションは上がってるから、今がいい」

「わかった」

「目、瞑ったほうが萌える?」

「それはそっちに任せる」

 美苗さんは瞼を閉じて唇を尖らせる。目が隠されるぶん、睫毛の長さと美しさがよく判る。差し出された唇に中々近づく勇気をだせないが、あまり待たせると無しになってしまうと考えて、僕は徐に美苗さんの後頭部に手を添える。

 歯が当たったりはしない。

 でも舌と舌は当たる。美苗さんは何も言わずに滑ったそれを割り入れ、僕のものを先端で撫でる。戸惑いながらも僕も応じる。舌ってイメージよりも硬い。そして唾液の成分なんてみんなそう変わらない筈なのに、何故か自分のものと美苗さんのものの区別はつく。体温の違いだろうか。

 息ができなくなってきて、僕は顔を離す。鼓動が早い。ズボンの中を意識する。美苗さんの唾液が歯茎の底に溜まっている……気がする。

「友也くん、顔真っ赤だね」

「美苗さんもそうだよ」

「え、嘘。恥ずかしー」

 と美苗さんがはにかんで、そのときに美しい双眸が細められて、顔も赤くて暗くて呼吸がまだちょっとだけ荒くて近くて汗の匂いがして黒い乱れ髪が闇に水みたいに融けていて襟から覗く鎖骨が綺麗で唇が濡れていて口の端が上がっていて暗い部屋の中でこの四階建ての塔の中には僕達以外に誰もいなくて夜で夏で高校生でさっきの冷たい手の感覚と肩に手を置いたときの体温を思い出して僕も美苗さんに名前を呼ばれるのが好きでアーチスチックな切れ長の瞳へ今は何時か解らないけど相対性理論が綺麗なフォームにうなぎ上りの好感度と初恋な人生が花火で、僕は色々なことを思いつつも何も考えてないって精神状態のまま美苗さんを押し倒す。




 爆発した衝動に乗せられて美苗さんを自分の下に倒した僕はとても混乱している。自分が何をしたのか今がどういう状況なのかすら、理解に数秒かかった。そして現状を把握してから、僕はどうすればいいのか解らずにそのままの体勢で固まって、何かを言うことさえもできない。

 僕の両手は美苗さんの白く円やかな双肩を床に押さえつけていて、美苗さんはとくに怯えているという風ではないが少し不思議そうな表情で僕を見ている。長い髪が散らばって、前髪は上がって狭い額が見えている。

 さて僕は何を言って何をするべきなのだろう?

 そもそも僕は何のために押し倒したりしたのだろう?

 とか疑問に思ってみるけれど、もう高校生なのだからそれくらいは直感的に理解できる。僕は美苗さんに劣情をもよおしている。これも若さということで許されるだろうか? 誰に?

 そんなことをぐるぐる考えている暇は今の僕にはない。この状況、どうせずっと黙ってこのままって訳にはいかないだろうから。美苗さんが何か言うのを待ってるのもよくない。

 始めた僕が言わないと。

 でも口を開くための心の準備をしている間に、ターンは美苗さんに回ってしまう。

「あのさ、友也くん」

「……何?」

「今から話す物語を、聞いてくれないかな」

「物……語?」

「そう。フィクション」

「……今なの?」

「うん。今じゃないと駄目」

 と言い切る美苗さんの顔は笑顔ではあるけれども真剣で、意図は解らないが僕は了承する。彼女の思考がまったく読めないのはもう慣れた。

「ありがとう。じゃあ、話すね。昔々、あるところに、寿命七日病に罹った一組の夫婦がいました」

 そして美苗さんは語り始めた。

 とある男と女の話を。




「二人は晴れた日、夫婦仲好く遊園地に遊びに行きました。ですが突然、夫婦は揃って熱を出してしまいました。仕方なく遊園地を切り上げて、病院に向かいました。お医者さんに診察してもらうと、その熱は寿命七日病の初期症状であることが判明しました。夫にも妻にも、もう七日間しか余命が残されていないのです。寿命七日病には治療法がなく、大人しくタイムリミットを待つしかありませんでした。

「熱はその日のうちに収まりましたが、夫婦は家事をする元気もありませんでした。二人は明日から六日間しか生きられないという、なんとも現実味のない現実に、しっかりと向き合うことにしました。残りの寿命をどう有意義に過ごそうか。あれこれと議論した結果、悲しまずに幸せに逝けるように、六日間をずっと二人のデートに使おうという結論に至りました。夫婦は、それはそれは愛し合っていたものですから、そうして二人で時間を過ごすことが一番の幸福なのです。二人は、仕事をしばらく休む旨を職場に伝えました。返事は聞きませんでした。

「次の日起きると、二人はまず海を見に行きました。列車まで使って、遠い海へ。夫婦は人気のない岩場に座って、手を握って、ずうっと水平線を見ていました。日が暮れると、目を瞠るほど美しい夕焼けを見ることが出来ました。夫婦は住んでいた家には帰らずに、近くのホテルに泊まりました。その後、寿命が尽きるまで夫婦は一度も家に帰りませんでした。

「海を見に行った次の日、二人は知らない街で一日中遊びました。踊ったり歌ったり、食べたり飲んだり、服を買ったり思いっきり走ったり。平日だったので空いている店も多くて、まるで今まで社会で抑圧されてきたぶんを取り戻すみたいに全力で。夜にはくたくたになっていたので、昨日とは違うホテルで泥のように眠ったそうです。

「次の日は、一度住居の近くに戻って、ひたすら散歩をしました。近所の人にはただ有給を使っているだけだと説明しました。そして、いつも行っているショッピングモールで、いつも行っていないお店に行ったり、いつも気になっていたものを買ったりしました。機会のなかった旅館に泊まってみたりもしました。その晩、妻は今までお世話になった人に電話を掛けました。寿命七日病を発症しているということは誰にも言いませんでした。とにかくお礼が言いたかっただけなのですから、心配をかけたくはありませんでした。

「翌日、夫婦は二人が出会った街に行きました。そして、まだ恋人になったばかりの頃によく食事をした喫茶店に立ち寄ると、あの頃のメニューがまだ揃っていて安心しました。夫婦はそのメニューを頼むと、食後までずうっと、恋人同士の頃の思い出を語り合いました。そして食べ終わったあとは、思い出の場所を巡れるだけ巡りました。

「残り寿命が二日間になった日は、二人はどこにも行きませんでした。ホテルの上質なベッドの上で四六時中愛し合いました。愛情を惜しみなくぶつけ合いました。愛のために何度か泣きました。でもその涙を拭ったのも愛でした。たくさんの感情を吐き出しました。今まで言えなかったことも告げました。求め合い、応え合いました。その日が一番幸せでした。

「最後の一日。夫婦は衣装屋さんに行き、残っていた最後のお金でウェディングドレスとタキシードをレンタルしました。そしてその日の夜、誰もいない丘の上で、二人きりでもう一度結婚式を挙げました。夫婦が指輪を交換し、誓いのキスをしたちょうどそのときに寿命は訪れ、心臓は停まりました。夫婦は幸せそうな笑顔で、抱き合いながら亡くなりましたとさ」




 美苗さんは語り終えると、僕の目をじっと見つめた。感想を求められているのだろう、とすぐに気付く。美苗さんの語った物語。今、語らないと駄目な物語。彼女の人格や人生に、この物語はどれだけ呼応するものなのだろうか。

 僕は感想に悩む。幸せな物語とは言い切れないだろう。だって、そんな風に愛し合える二人なら、寿命七日病とやらに罹患しなければもっとずっとゆっくりと幸せに暮らしていれただろうから。では悲しい物語だろうか? それも違う気がする。何故なら、二人はその生涯を幸福に閉じることができたのだから。しっかりと愛しあって、想い出も噛みしめて、現世に心残りもなく、瞬くような自由を謳歌して、その上でロマンチックな最期を迎えた二人の物語を、僕は悲劇とは呼ばない。

 ではいったいどんな物語であるか?

 僕は美苗さんに言う。

「美しい物語だね」

 彼女はそれを聞くと、頬を綻ばせた。きっと求めた賛辞に相違なかったのだろう。自分の素直な感想が相手の求めた感想と被さると、なんだか告げたほうも嬉しい気持ちになる。

「ありがと、友也くん。友也くんがそう言ってくれてよかった」

 美苗さんはそう言うと、僕にまたキスをした。フレンチキスという言葉が可愛らしく爽やかなイメージがあるのは僕達がフランスに対して洒落た印象を抱いているからであって、語源である英国側の立場になってみれば確かに、本当の意味のほうがしっくりくるものだ……とか考えている余裕は勿論ない。

 美苗さんが物語を語っているときに収まりかけた獣欲が再び鎌首をもたげる。唇が離されたとき、美苗さん、と僕は呼びかける。

「美苗さん。……好き、です」

「……よかった。私も好きだよ」

 僕のほうからキスをする。

 それから、硬い床の上では身体が痛いということで、美苗さんを抱き上げてソファーまで移動して、ソファーに彼女を座らせると一度抱き合う。

 そして僕は、人生で初めて女の子の服や下着を脱がす経験をする。




 これからどうしよっか、と美苗さんは口の結ばれたビニール袋の中身を見ながら言う。これからというのが今これからのことなのか僕達のこれからのことなのか解らないから尋ねてみると、どちらも、と彼女は答える。どちらも。

 僕達は遠くで鳴く何かの虫の声を聞いている。並んで、ソファーに座って。寄り添って、腕を組んで手を握って。

 彼女の頬はまだ紅い。僕の頬もきっと紅い。

 欲求は落ち着いて、今はただ隣の彼女を愛おしく想う気持ちだけが胸中にある。

 不意に僕のほうに顔を向けた美苗さんは、私と付き合って、と言った。もう付き合っているんじゃないの、と僕は思うけれど、まあ別に付き合っていなくても好きだと言ったりキスをしたり一線を越えたりはできるものだし、どうせなら関係性は明確にしておきたいという気持ちは解る。僕は、喜んで、と頭を下げる。

 液晶を確認するともうすっかりいい時間で、僕達はソファーの側に畳んでおいた服を着る。階段を下りて塔の外に出て、大きな音と共に扉を閉める。そのときにまた美苗さんが割った窓の話題になる。色々冗談とか交えながら話し合って、最終的にあのままで残しておくことになる。ガラス割りがなければ僕達は出逢わなかったから、ひとつの記念碑として。どうせ盗まれて困るものなどもないのだし、荒らされていたら掃除をすればいいのだ。

 美苗さんと手を繋いで、夜道を歩く。月明かりの下で、僕は自分が恋川県の大学に行きたいことを彼女に言う。そのために引っ越して独り暮らしをするつもりだと言うことも。彼女はそれを聞いて、二人暮らしに考え直す気はないの、と訊いてきた。勿論あるよ、と僕は言った。約束とか祈りとか願いとかのつもりはなくて、ただそう言われたらそう返したいっていう気持ちだけが僕にその返答をさせた。でも別に現実になってもよかった。寧ろ二人のほうが色々と捗るだろうし……とくに若いうちは。

 彼女は僕と香美の関係について問いかけた。高校が同じで、一年の頃から友達として一番仲好くしてくれた人だよ、と僕は言った。付き合っていたことはない、という注釈も添えて。

 最近はメッセージとかもあまり来なくなったし、今日の件もなんだかよく判らない感じでキャンセルされたんだよね、何かあったのかな、と僕は言った。

 さあ、女の子は複雑だからねえ。美苗さんは意味深な笑みを浮かべた。一瞬、何かを知っているのかと思ったけれど、美苗さんと香美がアドレスを交換しているシーンはなかったはずだから、恐らくそういうことではないのだろう。

 さっきの物語は美苗さんが創ったの、と僕は訊いた。事実を元にして創った、と美苗さんは答えた。どうしてあそこで語ったのかを聞きだす前に、僕達は街灯の下で別れた。彼女曰く、家族に紹介するのはもう少し後にしたい、とのことだった。

 美苗さんの後ろ姿を見送って、僕はリュックの中の水筒の中身を飲み干す。それから、全力疾走で坂を駆け下りていった。脇目も振らずに、ただ帰路を辿ることだけを意識して。誰かが狙っていたとか、急ぐ理由があるとか、そういう訳ではなく――ただひたすらに、今夜はそうしていたかったのだ。

 僕は今、すごく幸せで、すごく嬉しくて、だからゆっくり歩いて帰ったりしたら色々なことを思い出してしまって、全身が爆発してしまいそうだったのだ。

 言葉も感情も雰囲気も、匂いも感触も温度も。

 焼き付くすべてが、その幸福感を以てして僕を殺してしまいそうだったから。

 だから、僕は、夏とか夜道とか下り坂とか、そういうものも無視して疾駆しなければならなかった。

 文章にするとよく解らないけれど、こういうときの感覚って大概支離滅裂なものだからしょうがない。

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