光の華 TWO 前編

TWO 美しい物語



『もしもし』「あ、香美? 僕だけど、明後日は暇?」『取り敢えず今はちょっとあんまり暇じゃないから、用件は手短におねがい』「あ、ええっと……線香花火がどうとかって話、憶えてる?」『憶えてる。で? それが明後日って話?』「うん。そうなんだ。明日は月曜日で、僕も香美もバイト入ってなかったよね?」『入ってないよ』「じゃあ、花火見た塔に集合の約束だから……待ち合わせ場所は前と同じでいい?」『待った』「何?」『まだ行くとは言ってない』「あ、そうだね。ごめん。何か予定とかあった?」『ない。けど行かない』「なんで。美苗さんと仲悪そうなのは感じてるけど、だからこそこの機会にさ」『美苗さんって呼んでんだ』「え? まあ美苗さんの要望で」『そ。……二人でやってなよ。二人っきりで』「そんなこと言わないでよ。そんな気の遣い方されても困るって」『そっちこそ、ちょっとくらいうちに気ぃ遣ってよ』「どういうこと?」『……なんでもない。なんかこの会話続けてたら喧嘩になりそうだから切るわ。うちは不参加ってことでよろしく。それじゃ』

 香美は最後に捲し立てて、一方的に電話を切った。虫の居所でも悪かったのだろうか……で片付けるのはよくないのは解っているが、今はそう思っておく以外にはどうすることもできない。僕はベッドの上に倒れ込んで、溜め息をつく。

「なんか……あれから香美の様子が変なんだよなあ」

 あれから。

 美苗さんと出会った日から、香美からメッセージが来なくなった。僕から出せば応じてくれるけれど、それもどこか素っ気ない。いつもは寧ろ、向こうから相談やしょうもない話題を送ってくれるほうが多かったのに。

 何かあったのか、と訊きたいのは山々だが、どう訊けばいいのか、どんな訊き方が適切なのか判らない。僕に因があるような気もするから、その辺は注意したほうがいいだろう。

 どうしたものかと悩んでいるところに、メールを受信する。

 美苗さんから。美苗さんは絵文字とか使わない派。

『おはよう。明後日の花火の件で相談なんだけど、その前に一緒にランチしない? 花火は暗くなってからやるものだから、日中が暇になっちゃうから』

 一緒に昼食をとってから、塔で花火をする……ということらしい。別に暗さは塔の電気を消せば大丈夫だとは思うが、まあ外が青空だと風情がないだろうし。僕は返信を打ち始める。

『おはよう。いいねそれ。日が長いから、少し遅めのランチでもいい?』

 送信して、一分経たないうちに返信が来る。

『ありがとう。大丈夫だよ。百円のでいいからお寿司食べたい』

「食べたい、って……奢られる気満々だなあ。まあいいけど」

 返信作成。

『オッケー。ああそうだ、花火についてはこっちで買ってあるから。あと、香美は来れないみたい』

 送信、間もなく受信。

『り。待ち合わせ時間は五時半(午後だよ)に所以駅のベンチ……で大丈夫?』

 返信作成。

『わかった。それじゃあ、明後日を楽しみにしてるから』

 送信。受信。

『はーい!』

 会話終了。僕は携帯を充電器にセットして、ベッドに身体を預ける。目を瞑る。夢は見ない。午後三時にアラームに起こされた僕は顔を洗って歯を磨いて、頭を切り替えてバイトに行く。


 バイト先の、シフトが同じな武藤先輩が何だか暗い顔をしていたから、どうしたんですか、と僕は訊いた。武藤先輩は制服をハンガーにかけながら、彼女に振られちゃってさあ、と乾いた笑顔で言った。武藤先輩は歌醒大学の二回生で、頭はいいはずなのにそんなオーラは全然にじませない。

「そうなんですか。一緒にコーヒーでも飲みます?」

「いや、いいよ。高校生に奢らせる訳にはいかない……吉津くんは優しいね。俺も優しさがあればよかったのかな」武藤先輩はネクタイを緩めながら、わざとらしく肩を竦めた。

 理由を訊いてほしいのだろうか。

「どうして別れちゃったんですか?」

「……元々、その子とは合コンで知り合ったんだけどさ」

 武藤先輩は饒舌に語り始めた。彼にとって元彼女の人はタイプの女性だったこと、付き合うために格好つけた振舞いをしてしまったこと、付き合ってからもなるべく『その子が好きになってくれた自分』を意識して振舞っていたこと、でも段々疲れてきてボロが出てきて、静かに幻滅されていったこと。

「でさ、その子、別れるときに何て言ったと思う?」

「さあ。何と言ったんですか?」

「『あんたはあたしの理想の人だと思ってたけど違った。騙された。時間を返せこの詐欺師』……おいおい詐欺師はねえだろ、って思うよなあ」

「それは……酷いですね」僕は苦笑しかできなかった。

「だよなあ。でも、まあ。詐欺では確かに、あったろうよ」と武藤先輩は俯いて言った。「俺は優しい振りをして、頼もしい振りをして、楽しい奴の振りをして、ちゃんとしてる奴の振りをした。実際は、全然そんなんじゃないのに。荷物を持つのもめんどくさくて、頼られるのも重くて、盛り上げ役みたいなのはストレスでしかなくて、提出期限はいつもギリギリで……。やっぱ、無理なんてすべきじゃねえよな。でもあの子に好きになってもらうには、自然体の恋愛じゃ不可能だったんだよ」

「……お疲れさまでした」僕は言った。何だか重苦しい感情が胸の中に渦巻いて、それしか言える言葉がなかった。

「ありがとう。……吉津くんには、彼女とかいるのかい」

「好きな子なら、います」

「そっか。青春だな。じゃあ先輩風吹かした忠告だ。誰かに愛されるためについた嘘だろうとなんだろうと、嘘はいずればれる。もしくはついた瞬間にばれているが気付いていない振りをしてもらっている。だからまあ、極力嘘をつかないほうがお互いのためだ。……なんて、人生経験なんてろくにない大学生の言葉だから、桃と一緒に流してくれてもいいけど」

「……肝に銘じます」

 武藤先輩は独りで帰っていった。僕も独りで帰った。

 道中で、僕の周りに武藤先輩のような嘘つきはいるだろうか、と考えた。少なくとも誰かに嘘をつかれている自覚はなかった。精々、香美の様子がやや不審というくらいで……でも僕は鈍感だから、きっと色々なことに気付けていないのだろう。嘘はいずればれるなら、僕はいずれ気付くのだろうか?

 何に?



 次の日、西八木高校という名前に聞き覚えがあったので検索してみると、どうやら歌醒県の中ではトップクラスの偏差値を誇る学校らしい。ツイッターで《西八木高校 いじめ》《西八木高校 生徒》でサーチしてみても悪い噂がヒットしない辺り、治安もよさそうだ。西八木高校の情報を探っているうちに、美苗さんの姿を見つける。吹奏楽部の生徒の集合写真の真ん中のほうで、髪を括った美苗さんが笑顔でピースをしている。とても楽しそうで、充実していますって感じで、とても自殺をするような雰囲気はない。

 これ以上深く探ったらストーカーみたいになるような気がして、僕はブラウザを閉じる。まだ美苗さんがどういう子なのか解らないが、少なくとも客観的に見れば満たされている人のように思える。情報が少なすぎてそうとしか取れないだけなのだろうけれど。彼女の抱える闇は浅くないだろうし、心の闇を抱えている人なんて大抵、第三者や知り合い程度の人間から見れば果報者にしか見えないものなのだ。

 死にたい奴が全員死にたいオーラを惜しみなく出していたなら、五桁数も自殺に成功するはずがない。

「……というか美苗さん、吹奏楽部なのか」

 イメージ的には文芸部辺りの、暗くて意味不明なグループにいるかと思っていたけれど……まあでも、少なくとも歌醒高校の文芸部は案外まともというか、自称狂人の集まりとしか思えなかったから、美苗さんがそこに含まれているとは思えないんだよなあ。

 吹奏楽部の生態についてはよく知らないけれど。

「……ん」

 携帯が振動。メールが届いた。差出人は美苗さん。

『こんにちは。今何してる?』

「西八木高校のことググ検索してた……っていうのはよしたほうがいいかな」

 取り敢えず筋トレをしていたことにした。

 おつかれさま、と返ってきて少し胸が痛かった。

『友也くんは運動部なの?』

『帰宅部だよ。美苗さんは?』

『私は吹部……だったけど、先月末に辞めちゃった』

 ついさっき得た情報が即刻更新されて驚きつつも、

『どうして?』

 と返した。

 一分後に返信。

『自殺をするつもりだったから。急に辞めるって言ったら、部員も先生もびっくりしてた』

『自殺をするって言って辞めたの?』

『一身上の都合ってちゃんと言ったよ。自殺したいなんて理由で、部活が辞められる訳ないじゃん』

『まあ確かに。で、自殺できなかったけど、部活に復帰するの?』

『それは今後の流れによるかも』

 今後の流れ、という言い方が少し気になった。今後の流れ。まるで何か計画があるみたいな物言いだ。自殺が失敗に終わったから、これから人生設計をやり直すみたいなことだろうか? それなら前を向いた思考の切り換え方ということで好い兆候と言えるが、何だか無理矢理な気がしてならない。

『美苗さん、今何を考えてるの?』

 僕の指は無意識にそんな文章を打ち込んで、送信していた。

 返信は早かった。

『友也くんとの花火のことだよ。そのことだけ』

「…………」

 何ともはや。

 こういう言葉って無駄にハートマークとかないほうがいいよな、とか考えたりするのは美苗さんが使わないからであって、美苗さんが絵文字顔文字使う人だったら僕はまったく逆のことを考えていたのであろうと容易に予想がついたりして。

 とても巧みに、煙に巻かれた。




 昼間に駅のベンチに座っていると、何だか周囲に待ち合わせをしていることがバレバレな気がして少し気恥ずかしい。携帯に着信がないかしきりに確認していたりすると尚更で、ちょっと移動とかしてみたくなるけれど、僕がいない間に美苗さんが来たりしたら申し訳ないからそんなことはできない。僕は待ち合わせをしているのだ。午後の五時半に、所以駅のベンチで。

 ちなみに僕が駅に着いたのは四時半で、現在時刻は五時だった。

 張り切って一時間前に到着してしまうタイプの男子な僕だ。

 元々、待ち合わせ時間の十分前には絶対に間に合うのをポリシーとしている僕だけれど、流石に今日はちょっと早すぎたと自分でも思う。というか僕が美苗さんだったとして、待ち合わせをした男子が一時間前から待っていたら多分引く。何をやっているんだろう。でもどこかで時間を潰している間に美苗さんが来てしまったりしたら、だから、僕としては嫌な訳で。

 僕は人を待たせるのが嫌なのだ。本人が気にしていなくたって、僕が気にするのだ。きっと今の恥ずかしさと発生源は同じだと思う。自意識。自意識が過剰なのだろう。でもそういうのって、誰にだってあるものだろうから、僕はそのことについて自責をするつもりはない。

 美苗さんが来たのは五時四十五分だった。浴衣姿ではなく白いノースリーブのワンピースで、初対面のときにつけていたサングラスをかけていた。

「ごめんね、バスが中々来なくって。どれくらい待ってた?」

「気にしないで、そんなに待ってないよ」と僕は言う。「それより……ワンピース似合うね」

 サングラスは似合っていないけれど。

「ありがと。ごめんね、浴衣じゃなくて。家になくてさ」

「大丈夫、僕そんなに浴衣好きじゃないから寧ろよかった。じゃあ行こうか、お寿司だっけ?」

「うん。百円のところでいいよ。というか、百円のところがいいよ」

「そう? お金なら大丈夫だけど」

「お金の問題じゃなくてさ。私、あんまり良いところは行きたくないの。メインイベントはそのあとだから」

 僕はそれで納得して、駅のショッピングモールの回転寿司に入る。

 ランチタイムも過ぎているので待たされることなくテーブル席に座れる。家族連れもいないみたいで、店内は皿の重なる音と板前の声くらいしか聞こえない。

 美苗さんはお品書きを読みながら、「友也くんってどのお寿司が好き?」と訊いてくる。

「僕は何でも。雲丹が得意じゃないってくらい」

「そうなんだ。私は甘海老とか好きだけど……、でも一番好きなのは揚げ物とかかな」

「へえ。これとか?」と僕はポテトフライを指差す。

「うん、あとお味噌汁とか」

「あ、サイドメニューに天丼あるよ。いっそこれにしちゃう?」

「それはいいね。そうしよう」

 僕達は天丼と豚丼の並を味噌汁付きで頼んだ。

 寿司屋に来た意味はない気がするけれど、まあレーンを流れている寿司って彩り豊かで楽しいし、見て楽しめばいいだろう。

「ところで美苗さん。そのサングラスって、どこで買ったの?」

「ああこれ? どこだっけ。ヴィレヴァン辺りだったと思うけど」

「ふぅん」

「何で?」

「ああいや、似合うなあと思って」

「いや似合わないでしょ。気を遣わなくていいんだよ、友也くん」

 どうやら自覚していたらしい。美苗さんが言うには、サングラスは変装の意味があるらしい。変装。誰に対しての変装かと言えば、同じ学校の人に向けての。特に、つい最近に別れた彼氏に対しての。自殺前の関係の清算をするつもりで、唐突かつ一方的に別れたものだから、もしもばったり遭遇したら面倒なことになるだろうから。そういうのは美しくないと思うから。美苗さんはそんな内容を、気怠げに話した。その彼氏のことはどう思っていたのか、と訊いてみたら、それは秘密で、と返された。

「……じゃあ、僕も名前で呼ばないほうがいいのかな。ばれるかも」

「うぅん……まあそうかな。でもいいや、気にしないで」

「でも……」

 と戸惑う僕に、美苗さんは笑いかける。

「いいから。私、友也くんに名前呼ばれるの好きだもん」

「…………わかったよ、美苗さん」

 どうしてこの女の子はそういう台詞をすらりと言えるのだろうか。

 そりゃあ元彼のひとりもいるだろうよ。

 丼が運ばれてきたので、食べ始めた。美苗さんも、食べているときは話さない人種のようだった。どうしよう、さっきから僕の中の好感度がどんどん上がってきている。騙されているのではないだろうか。いやさ、僕なんて騙して何になるという話ではあるのだが。何だかひどく翻弄されているような気がしてならない。人に裏があると思い込むのは僕の数ある悪い癖のひとつだ。

 丼も汁も平らげて、コップの中も飲み干してから、僕達は店を出る。寿司が安ければ丼も安く、二人分払っても大した出費にはならなかった。

 現在時刻は午後六時二十分。まだ少し早いけれど、塔に向かうことにする。コンビニエンスストアでバケツとミネラルウォーターを買う。塔の水道は止まっているから、水は外から持ってくるしかないのだ。僕は二リットルのペットボトルの入った袋を、美苗さんはバケツの入った袋を持って坂を登り始める。

「坂は長いから、疲れたらいつでも言ってね。自販機とか間隔狭く配置してあるから」

「うん、わかった。ありがとね。あ、ねえ友也くん」

「何?」

「花火、ちゃんとリュックの中に入ってる?」

「え」僕は自分の背負っているリュックを後ろ手に撫でながら、「持ってるよ。ちゃんと入れたはずだけど」

「一応、確認してみたら? 塔に着いてから入ってなかったことに気付いたら面倒っていうか台無しじゃない?」

 確かにそれはそうで、僕は中身を確認する。きちんと入っている。塔で美苗さんと出会った次の日に買った花火セット。胸を撫で下ろしてチャックを閉める。そしてまた歩き出す。日が暮れても夏は蒸す。五個目の自販機で休憩を挟む。あくまで丁度いい区切りとしての自販機であり、そこで何か飲み物を買う訳ではない。僕も美苗さんも鞄の中に水筒を入れてきている。五分休憩して、再開。歩きながら僕達は、とくに他愛のない話をしていた。最近の流行物についてのあれこれ。好きな芸能人が先月死んだ話。猫と犬のどちらが好きかという話から、どちらも合成したキマイラはいったいどれだけのパターンがあるのかとか。美苗さんと香美のどちらと話しているほうが楽しいのかと言えば、それはまあ香美だけど、どちらが面白いかと言えば美苗さんだった。富良野美苗という人間は、僕が今まで出会ったことのない性質を孕んでいた。だから彼女の話を通して垣間見える彼女の内面は至極興味深かった。きっと、僕が美苗さんに恋をしているから、その補正が大半だったりもするのだろうけれど……でも僕は、美苗さんがたとえ魅力的な瞳をしていなかったとしても惹かれていたと思う。事実、今は大きなクロムグリーンのサングラスによってその瞳も睫毛もまるまる隠されている訳なのだし。要約すると、富良野美苗はとても魅力的な女の子なのだった。相対性理論のたとえに『ストーブの上に手を置く一分は一時間のように感じられるが、可愛い女の子と並んで座って喋っているときの一時間は一分のように感じられる』というのがあるがまさにそれで、美苗さんと話しながら登る坂はまるで学校のグラウンドを一周したくらいの時間しか経っていないように思えた。

 塔の前に着いて一先ず水分補給をして、それから僕は扉を開ける。一連の動作が終わると、美苗さんは訊く。

「ねえ、私が割ったガラスって直したの?」

「ああ、そう言えばまだだね。別に費用は大丈夫だろうけれど……ちょっと電話するのが億劫で」

「そういうのあるよねー。でもなんか、自分が割ったやつが残ってるっていうのは恥ずかしいかも」

「へえ。じゃあずっと残しておくよ」

「やめてよー」

「あはは。冗談冗談」

 僕達は塔の中に入って、電気を点けた。

 一階の階段……の前を美苗さんは右に曲がって、そのまま少し走ってから僕を手招きする。不思議に思いながらついて行くと、どうやら彼女は自分が割った窓に案内したかったらしい。

 開けっ放しの出窓。閉めても窓枠しか残されていない。外の繁みを見つめると、一瞬だけ、ガラスの破片が光る。

「へえ。こんなに綺麗に割ったんだ。凄いね」と僕は言う。

「うん、頑張った……ってそうじゃなくて。その、本当に今更だと思うけど、ごめんなさい」と美苗さんは頭を下げる。

 僕は別に気にしていないのに。

 でも僕は気付く。

 謝罪は必ずしも被害者のためにあるものではない。というか、加害者自身のための謝罪というものは案外ありふれている。加害者の、精神面あるいは立場上の安寧のための謝罪。罪を詫びて許してもらうのが目的ではなく、詫びる行為そのものが目的である低頭。それは潔癖性のひとつの形で、そうしなければ本人の自尊心がずっと苛まれてしまうことになるのだ。

 僕にだって身に覚えがある。

「うん。ちゃんと見せてくれてありがとう。許すよ」と僕は笑ってみせる。

 美苗さんはそれを聞いて、「よかった」と口の端を上げる。

 よかった、と僕も思う。よかった。美苗さんは窓ガラスなんかに囚われるべきではないのだ。だってまだ高校生なのだから。

 僕達は階段を登る。僕は前回の反省を生かして、なるべく美苗さんに歩幅を合わせて登ることを心掛ける。三階に着いたところで、「大丈夫? 疲れてない?」と美苗さんに声を掛けてみる。平気だよ、と返って来るけれどちょっとだけソファーで休む。ほんの三分くらい。

 それから四階まで登る。登りきって、出窓の近くに行って、空を見る。曇りのない星空。曇りのない満月。僕はその薄い光にも救いを感じる。綺麗だね、と隣の美苗さんが言う。そうだね、と言おうとして僕は固まる。話すために空に遣っていた視線を美苗さんの顔に移したところで、止まってしまう。美苗さんはいつの間にかサングラスを外していて、その美しい目が露わになっていて、さっきまで隠されていたぶん余計に綺麗に見えて、動悸が早まってしまう。

 やばい。目を見ただけで死にそうになるとか、美苗さんはどんな九十九十九だよ。

 そんな感想が当たり前みたいに浮かんでしまうのは、きっと恋のせいだ。初めてだからよくわからないけれど。




 バケツにミネラルウォーターをどくどくと注ぐ。美苗さんはバケツを支えながら、増していく嵩をじいっと見ている。もう大丈夫だと思うよ、と美苗さんが言うので僕はペットボトルを上向きにしてキャップを閉める。半分くらい余っているが、まあ途中でバケツが引っくり返ってしまったりするかもしれないので問題ない。

 暗闇の中のバケツに、綺麗な水が六分ほど注がれている。

 暗闇の中。

 僕達は、四階の電気は点けないことにした。線香花火をするのだから当たり前のことではあるのだが、やっぱり好きな子と暗闇の中で二人きりっていうのは、どうしても意識してしまう……。たぶん、そんな風にどきどきしているのは僕だけなのだろうけれど。

 四階の出窓を全て開けてから、花火セットに含まれている点火用蝋燭に、ライターで火を灯す。

「じゃあ、始めよっか」

「うん」

 長手牡丹の先端を、そっと燭台に近づける。縒り紙に小さな火が燃え移る。小さな緋色のオーブから、綿毛のような火花が散り出した。

「点いたね。見てるだけで、心がぽかぽかする」

「そうだね。……でもね美苗さん、線香花火はここからなんだよ」

「ここから?」

 きょとんとする美苗さんの視線を意識しながら、僕は花火をバケツの水面に近付ける。鏡のように澄み渡った水面が、光を映し出してもうひとつの線香花火を作り出す。

「わ……反射してる。美しいね」

「うん。花火を消費していくにつれてバケツも汚れてくるから、今のうちしかできない」

 やがて火花が表情を変える。牡丹から松葉へと。激しく四散する火花はバケツの周囲を明るく照らす。美苗さんはその様子に引き込まれたみたいで、線香花火を持つ僕により近づく。

 肩と肩が、殆ど触れあっている。

 艶のある黒髪が閃光に照らされて、僕は夜の川を連想する。

 長い髪に火が燃え移ったりしないだろうか?

「あ、また変わった。見てるだけで楽しいね、友也くん!」

「う、うん……」

 正直、さらに身を変えた火花よりも美苗さんの顔が間近に来ていることのほうに意識が行ってしまうのだけれど……。でもそういうのを勘付かれるのはなるべく避けたいので、僕は花火に関する話題を捻り出す。

「今のこの状態、柳って名前なんだけどさ……。小さい頃、心の中で稲穂って呼んでたんだよね。で、花火は夏なのになんで稲穂なんだろうとか、勝手に疑問に思ってた。自分で名付けた癖に」

「へえ。子供の頃って、自分の空想と真実が混ざっちゃうことあったりするよね」

「美苗さんも、そういうのあった?」

「私は……」と美苗さんは花火を見つめながら考える。水面に注がれる光のシャワー。中学生くらいになって本当の名前を知って、柳の木の写真と見比べて頷いた覚えがあるけれど、でもやっぱり秋を暗示しているようにしか見えない。まあ秋の豊作は夏のうちに祈っておくべきだろうから、それでもいいのだろう。

 柳も段々と勢いを消沈させ、最後の散り菊に緩やかに移行したとき、美苗さんは言う。

「私は小さい頃、自分は何もしなくても幸せになれると思ってたな」

「……白馬に乗った王子様が、迎えに来てくれるとか?」

「そう。そんな感じ」美苗さんは苦笑する。「シンデレラが大好きな、乙女ちゃんだったんだよ。いつか誰かが人生を豊かにしてくれる、お姫様になって幸せに暮らしてめでたしめでたしって風に」

「そうなんだ。今はもう抜け出したの?」

「当たり前だよ。小学校も高学年になった頃にはそういう奇跡頼りみたいなのは終わったもの。でもシンデレラのストーリーは今でも好きだよ」

「そっか。……あ、もう落ちる」

 火花が収まって、オーブが水際で揺らいでいる。落ちていくのを見守ろうかと思っていたが、

「てい」

 美苗さんの手が横から伸びて僕の手首を掴み、そのまま水に押し込んで花火を鎮火してしまった。

「何をするんだ……」

「人生は花火って言うけどさ、本当にその通りだよね。こういう風に横から鎮火されたり、誰かに火傷を負わせたり、前半のほうが後半よりも激しく輝けることもあれば、火が点かないまま駄目になっちゃうこともあって。いやあ、素晴らしいね」

「嘘だ、今のはそんな深いメッセージのための行動じゃなかった。絶対なんとなくやったでしょ美苗さん」

「あはは、ごめんごめん。やってみたくて」

「……まあいいけど」

 美苗さんの手は少し冷たかった。水よりも存在感のある冷たさ。

 今度は各々で好きな長手牡丹を持って点火し、勢いの強くならないうちに窓の外に出す。塔の外は繁みだから、落とさないようにしっかりと抓まんでぶら提げる。

 空中で牡丹、松葉、柳、散り菊への変遷を見届け、火が落ちそうになったらバケツまで走って、鎮火。その往復がちょっとした競技みたいで楽しい。でも持ちながら走ったり空中で揺らしたりしているせいで風に煽られてしまい、大半は早々と火が落ちてしまう。花火はどんどんなくなっていって、残り六本になったとき、美苗さんが言う。

「往復飽きてきたから普通にやろう?」

 それは僕も思ってた。

 二人で燭台を囲んで向かい合って、せーので火を点ける。

 牡丹から松葉になったあたりで、花火の先端をお互いに触れ合わせる。爆ぜる光が混ざり合う。僕達は同じ光を見ている。暗い部屋の中、ふたりきりで、何も言わずに。

 こういう時間を幸せと呼ばずに何と呼ぼう?

 最後の二本が点いて、激しくなって、シャワーみたいになって、静かになって、落ちる。

 それで花火は終わる。

 美苗さんが蝋燭の火を消している間、僕はバケツの水を、ゴミがこぼれないように手で押さえながら出窓の外に捨てる。花火セットの包装はバケツの中に突っ込んで、手に持って帰ればいいだろう。

 作業を終えて、美苗さんは僕に言う。

「友也くん、今日はありがとう」

「どういたしまして。楽しかった?」

「うん。とても楽しかったよ」

「ならよかった。僕も楽しかった」

「これからどうする? 帰っちゃう?」

「うぅん……なんだかそれだと、あっさりし過ぎてて物足りないかな。美苗さんはどうしたい?」

「もうちょっとだけ遊びたい。この塔広いし、鬼ごっことかする?」

「いいけど、使えるのは四階だけでいい?」

「いいよ。でもその代わり、照明は暗いままで。鬼は私でいい?」

「わかった。体力はそこそこあるから頑張るよ」

「頑張ってね。捕まえられたらキスしていいから」

「え」

「じゃ、スタート!」



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