光の華 ONE 後編




 富良野美苗はとても綺麗な黒髪を背中まで伸ばした女の子で、見た目から推定される年齢は高く見積もっても十五歳くらい。長い睫毛は澱んだ瞳を美しく装飾していて、切れ長の瞼と相まってなんだかそれ自体がひとつのアートみたいに見えた。

 アーチスチックな双眸。

 けれど僕が彼女の目についてそうした感想を抱くのはもう少しあとの話だった。何故なら彼女は僕達が走って来る姿を目で捉えたそのときに、黒い革のポーチからサングラスを即座に取り出してかけてしまったからだ。

 クロムグリーン色で目の周りを覆うサングラスは彼女の顔の半径と比較すると明らかに大きくて、あつらえたように似合っていなかった。まるで何かのギャグみたいだった。

 でも僕達にはそれにウケている余裕はなかった。彼女の白い手には技術の授業で使うような小ぶりの鉄鎚が握り込まれていた。出窓のガラスをかち割ったのは恐らくそのT字の工具だろうということは容易に想像できた。

 彼女は僕達に顔を向けながら、「あー……」と気の抜ける声を発した。

 僕達は彼女の手の届かない距離で立ち止まる。香美は僕から手を離して、シャツの裾のほうを掴む。

 僕と香美と、僕達がまだ名前を知らない富良野美苗は、少しの間無言で対面していた。僕も香美も、走ってきたはいいものの、何を言えばいいのかまるで見当もつかなかった。当たり前だ。こんな状況に慣れている高校生なんている訳がない。

 果たして、最初に口を開いたのはサングラスの彼女だった。

 もっともその言葉は、僕達に向けてのものではなく、どころか自分に向けての言葉ですらなく、


「まあいっか」


 という、諦めの感情を言葉にしたものだった。

 まあいっか。

 何がいいのだろう。勝手に塔に忍び込んで、ガラスを破壊したら音を聞きつけた他人が二人もやってきた状況で……いったい、どこに『まあいい』要素があるのだろうか?

 固まっている僕達を尻目に、彼女は出窓のほうへと踵を返した。ガラスが割れて、開けなくても外の風が入ってくるようになった北東の窓。

 彼女は出窓のパネルに両手をついて、ゆっくりと身を乗り出して。

 そして。

「ちょっと待った」

 と、香美が言った。僕はびっくりした。何故なら香美はもう僕の裾からは手を離していて、僕からも離れていて、サングラスの彼女に早歩きで近寄っていたからだ。僕がサングラスの彼女に気を取られている間に。

「香美……危ないよ」

「違うよ友也。危ないのはうちじゃなくてこの子」

 いや確かに危険なのはその子だけど……と僕は思うが、違う。

 香美はなんとなく察していたのだ。鈍感な僕とは違って。

「香美、」あんまり刺激しないほうがいいよ、と僕が言う前に、それは起こった。

 サングラスの彼女は、身を乗り出した状態のまま、脚をくっ、と曲げて溜めてから、無言で跳んだ。

 自分でガラスを割った窓の外に向かって、迷いなく跳躍した。

 ここは四階で、その跳び方なら頭から落ちることになる。

 生き永らえるなんて絶対無理だ。そしてきっと彼女には、そんなつもりは更々ないのだろう……なんて、こんな状況で冷静に分析できる奴は冷静沈着を越えた狂人だ。

 でも香美は冷静だった。香美はサングラスの彼女の腰が塔の外に出てしまう前にしっかりとホールドした。そして香美の力強い唸り声と共に、サングラスの彼女はそのまま塔の中に引き戻された。

 勢いがあまったのか故意なのか、サングラスの彼女はそのまま床に投げ捨てられるように横たわった。

 受け身が取れていなかったので不安になったけれど、彼女は間をおかずに身を起こして、辺りを見渡した。状況を把握しようとしているのだろう。

「何考えてんの?」と香美は座っている彼女を見下ろしながら少し怒気を孕んだ声で詰め寄る。「うちの友達の塔で自殺しないでよ……ってか、自殺なんてしないでよ」

 サングラスの彼女は何も言わずに香美を見つめていた。

 香美は、友達の僕でもぞっとしないような舌打ちをしながらそのサングラスを奪い取った。まるで、というかきっとそうなのだろうけれど、そのサングラスの存在が香美の琴線に触れてしまっているかのようだった。

「……香美。自殺を実行するような精神状態の人にそんな攻撃的になっちゃ駄目だと思う」

 と僕は言うけれど、香美にはまるで届いていないみたいだった。

「ねえ。何のつもり? 何で自殺なんてすんの? 馬鹿じゃないの? しかも勝手に他人の所有する物件でさ。わざわざガラスまで割って。住居不法侵入と器物損壊罪犯してから死ぬ必要あんの? あんたの死に他人を巻き込まないでよ」

 間違ったことは言ってないと思う。でも言い方が間違っている。そろそろ止めないとまずい気がする。鉄鎚は床に転がっているが、それでも香美が危険なことには変わりないのだ。

「香美!」

「なんか言いなよ!」と僕の叫びをスルーして香美は怒鳴る。何もレスポンスが帰ってこないことでさらに苛立っているみたいだ。

 どうして香美はこんなにも苛々しているんだろう?

 さっきまであんなに楽しかったのに。

 大体、自殺を考える人なんて精神的に不安定な人ばかりだろうに、そんな剣幕と間隔で怒鳴っていてはろくに返事も考えられないに決まっている。でもたぶんそれを言っても香美は聞かないだろう。寧ろ、自分が怒りの矛先を向けている人間を友達の僕が庇うことでさらに怒りを増幅させてしまうかもしれない……と僕が思ったところで、自殺者の彼女は口を開いた。

「うるせえよもう黙れよぶっ殺すぞ」

 おいおい、と僕は慌てる。なんだってこんな不適切な言葉ばっかりみんな言うんだ。

 香美は一拍置いて自殺者の彼女の頬をビンタした。

「香美! いい加減やめなよ! 気持ちは解るけど! 落ち着こうよ一回!」

 僕は香美を羽交い絞めにして自殺者の彼女から離す。香美は存外抵抗なく僕に引かれていて、それが逆に怖い。僕は嘘をついた。今の香美の気持ちなんて僕には全然解らない。

 そして自殺者の彼女の気持ちも理解できない。彼女は時限爆弾がリミットを迎えたみたいに、唐突にそして激しく泣き出した。


「なんだよおおおおお! なんなんだよもおおおおお! 最悪だ、最悪だよこんなの! うああああああ! もう嫌だ、もう嫌だ! こんな展開嫌だ! さっき死ぬのが一番だったのにいいいい! うえ、ぐえ、ぐふえええええええん。うええええええん。うええええええん。うええええええん。うええええええん。もう嫌だあ……もうこれ以上生きたくないよ、でもここでこんな風に死にたくもないよおおおお! 最悪だ最悪だ、どうしてこんなんなっちゃったのおおおおお! こんな、ひう、ひふぅっ、こんあのすっごい格好悪いじゃんかあああ! 格好悪い、格好悪い、格好悪いよおおお! ああああはあああああん! あは、あはあ、あうっ、ひうっ、うう、うええええええん。うええええええん。うええええええん」


 僕はどうすればいいのだろうか。

 この子にハンカチを差し出すべきだろうか?

 でも、香美を羽交い絞めしたあとこの子の涙を拭いたりしたら、僕は客観的に見て完全にこの子の味方で、つまり対する香美の敵になるんじゃないか? その場合は今も未来も面倒なことになるのではないか?

 ってどうして僕はこんなときにそんな細かいことを考えているんだ? そんなすぐに冷静になれる奴の振りをしているんだ? 違うだろ。違うだろ僕。僕が動けないのは、そんな理由じゃないだろう。僕が香美を封じ込めた状態のまま、号泣する女の子の涙をハンカチで拭ってあげないのは、彼女のアートのように美しく細い目が更に力強く細められて、そこからぼろぼろと涙があふれて止まらない様に見とれていたからだ。

 かくして僕は、生まれて初めて恋をしたのだった。




 僕によって強制的に動けなくされて、目の前で女の子が泣いて、ちょっと冷静になった香美が僕を振りほどく。

 そしてそのまま、居心地の悪そうな顔でため息をつく。やり過ぎたことを理解したのだろう。でもここで急に謝るのは文脈的に少し違和感があるし、それに香美は自分が悪いと思っていないことについてはあまり謝罪をしないタイプだから、どんな態度と対応をすればいいのか判らないのだ。

 自殺者の彼女はひたすらに泣き続ける。色々、やや意味不明なことを喚きながら顔をぐしゃぐしゃにする。取り敢えず文脈とか無視して香美は謝るべきだとは思うけれど、それで何かがどうにかなるという保証はどこにもなかった。そして僕が香美の友人として謝ったとしても大して変わらないだろう。

 だから僕も香美も、一先ず自殺者の彼女が泣き止むまで待つ……ことは然しできなくて、僕は彼女の泣き顔の美にうっとりとしながらも、やっぱり同年代くらいの女の子が号泣している様をいつまでも見ているだけというのは男子として胸が痛くなる。

 僕はかがんで彼女と目を合わせて、「はいハンカチ。あんまり肌触りいいやつじゃないかもだけど、我慢してね」とポケットから取り出したハンカチを頬にぽんぽんと当てる。頬ポンって言うんだっけ、なんだか幼児扱いしているみたいな図になりそうだなあ、とかどうだっていいことを考えながら。

 彼女は僕の手からハンカチを奪い取って自分で拭きとり始める。

 僕も香美も黙って見守る。すると彼女は言う。

「ティッシュ、持ってる?」

「あ、うち持ってるよ」と香美が言うが「お前のならいらない」と自殺者の彼女は即座に断る。香美の顔が引きつる。

「ごめん、僕は持ってないや。でも鼻をかむんなら、別にそのハンカチでやっちゃっていいよ」

「ありがとう」

 と彼女は言って、僕のハンカチを鼻元に当てて、ぶすゅぅぅぅぅ、と思いっきりかむ。逆に爽快だ。

「ごめん。洗って返すから」

「貰っちゃってもいいよ」

「……ありがとう」

 まだ涙声ではあるものの、どうやら彼女の気分が落ち着いてきたみたいで安心した。そしてこれを好機と僕は訊く。

「君はどこの誰?」

「富良野美苗。西八木高校の二年生」

「富良野さんか。僕は吉津友也。さっき富良野さんを怒鳴ったのは猫林香美で、僕の友達。二人とも歌醒高校の二年生」

「そっか。……ここ、友也くんの塔なの?」

 ナチュラルに名前呼びをされて少しどきっとしながら、「僕のって言うか、吉津家のものかな。僕のおじいさんが建てた塔。だから、勝手に侵入されたり窓割られたりしたらいい気分ではないかな」と正直に言う。そこだけは言わせてもらう。

「……ごめんなさい」と富良野さんは謝る。それで僕の中でちょっと引っかかっていた怒りは全部オーケーになる。

「気にしないで。……で、どうやって入ってきたの? 鍵はかかっていたはずなんだけど」

「一階の窓ガラスを割って侵入しました」

「一階?」一階にも出窓は同じように配置されているから、確かにそうやって入ることは可能だろう。でもガラスの割れる音とか割れてる窓があったら目につきそうなものだが……。「いつ割ったの?」

「電気が点く前。割って入って、ガラスの破片は外に出して、窓は開けた。割れた窓って開けちゃえば意外とばれないことあるよね」

「なるほど。……電気が点く前って、電気が点いたところを見た人の使う言葉に聞こえるけど、僕達が一階に来たときは既に潜んでいたの?」

「いや。この階が点いてるから、どうせ友也達が一階に来たときは電気を点けたんだろうなあって思っただけ。きっとその頃には私、梯子上ってるときだったと思う」

 梯子でここまできたのか、と僕は思う。

 体力があるなあ。

「で、ここが正直言って僕的に一番謎なところなんだけど」僕は言う。「何で飛び降りようってときにわざわざガラスを割ったりしたの?」

「…………」

「内側からなら普通に窓開いたでしょ。そうっと音を立てないように開けるのなんて簡単じゃないか。富良野さんは自殺を邪魔されたくなかったんだよね? なら、どうしてそうしなかったの?」

「…………それは」

 富良野さんはしばらくの間、その美麗な睫毛に包まれた長い目の中で黒い瞳を泳がせた。その様を眺めているのは、僕にとって幸せなひとときだった。

 結局、僕は質問の答えを知ることは出来なかった。富良野さんは口を噤んだままだったし、香美は僕の肩を叩いてこう言った。

「もういいじゃん。……話したくないんでしょ。それより、途中からだけど花火見ようよ。……もう半分くらい終わってるけど」

 僕は香美に促されるまま、富良野さんが割った窓の外を見遣る。富良野さんも僕の隣にくる。香美/僕/富良野さんで横一列に並ぶ格好になる。

 夜空に花火が次々に打ち上げられては拡散されて消える。綺麗だ、と僕は思う。さっきまで富良野さんの暗い瞳ばかり見ていたせいか、いつもよりも眩しく見える。

 色彩豊かな花火の光は、色選りしない救いの光を喩えているのだ……とか、勝手に考えてしまう。

 でもそれは、僕にとっては仕方ないことでしかない。

 だって、さっきまで会ったばかりの女の子にでれでれとしていた僕も、さっきまで会ったばかりの女の子を泣かせるくらいにおかんむりだった香美も、さっきまで会ったばかりの僕達の前で自殺を試みて失敗して怒られて泣いていた富良野さんだって、今はただ夏の夜の光を前に吸い込まれそうなくらい引き込まれているのだから。

「救いの光は、何かを基準に選んだりはしないんだ……」

「いきなり何言ってんの? 友也ん家って宗教入ってたっけ?」

 口に出ていたらしく、香美は首を傾げてそう言った。最近読んだ漫画の台詞だよ、と僕は誤魔化した。香美にも言えば解ってくれるだろうけれど、今が個人的な思想を長々と連ねるときではないことくらい僕だって知っている。

 富良野さんは腫れた目元を指で擦りながら、真っすぐ花火を眺めていた。

「……友也さあ」

 香美の声で、僕は視線を反対側に移した。香美は僕のほうを見ていた。視界の端に花火が映りそうな角度ではあるけれど、どうしてもっとちゃんと見ないんだろう。

「何、香美。どうしたの」

「……さっきの質問だけどさ」

「さっきのって……えっと」

 何か訊いたっけ。色々ありすぎてよく覚えていない。

 僕が返事に詰まっていると香美は、やっぱいいや、と首を振った。もどかしそうな表情をしている、気がした。気のせいかもしれない。ただすっきりさっぱりって感じの顔や声ではなかった。

 まあいいや。明日になっても気になったら、どうにか聞きだせばいいだけの話だろう。

「そういえば」と富良野さん。「私、線香花火とかやったことあまりないかも。中一以来かな……好きなんだけどなあ」

「そっか。線香花火、僕も好きだよ」

 ささやかな希望って感じがして。

「打ち上げのほうが好きかなあ、うち。線香花火はなんか怖いんだ」

 香美は花火のほうを見ながら言った。

「確かに、香美って打ち上げ花火のほうが似合ってるかも」

「え、それは褒めてるのか馬鹿にしてんのかどっち?」

「どっちでも」ないよ、と言う前に香美に背中を叩かれた。強めに。

「ねえ友也くん」富良野さんは、少し明るい声で提案する。「もし、よかったら……今度一緒に花火しない? 線香花火メインで」

「いいけど、どうして?」

「だって、話してたらやりたくなって。でも独りでやるものではないし、折角ならついでに親睦とか深めたいなあと」

「ねえ、それってうちも混ざっていい?」

「いいんじゃない」と僕は言う。富良野さんは何も言わずに笑う。




 そのとき、アナウンスが聞こえた。どうやらあと五発打ち上げたら花火大会は終了らしい。大きなものをひとつずつ打つので、最後までいてほしいとかなんとか。

 それを聞いて、香美も僕も富良野さんも話を中断して空を見る。

 河川敷の人もみんな、静かな空に顔を上げている。

 少しだけ間を開けて、一発目の花火が打ち上げられた。


 きゅるるるるる――。

 ――ばぁんとぼぼん。


 音も花びらも大きな花火は、言葉もないほど神々しい。


 きゅるるるるる――。

 ――ばぁんとぼぼん。


 香美も富良野さんも、勿論僕も、無言で魅入っていた。


 きゅるるるるる――。

 ――ばぁんとぼぼん。


 三発目が終わると、香美が僕の右手を握った。予想だにしない手の感触に、僕は半ば反射的に香美のほうへ顔を向けた。

 香美も僕を見ていた。


 きゅるるるるる――。


 打ち上げられる音が聞こえる。でも僕は香美を見ている。香美は僕の腰に手を当てて自分のほうに身体ごと向けさせる。香美の瞳は射抜くように鋭く僕だけを見ていて、何だか怖い。


 ――ばぁんとぼぼん。


 四発目が、空に爆ぜた。次が最後の一発になる。一番大きくて、完成度の高い、最高の花火。

「……香美? どうしたの?」

 返事はなかった。その代わり、香美は僕の手を握る力を強めた。左手で握っているはずなのに、結構強い。

 香美は僕を見ている。僕の顔を、じっと見つめている。

 僕も香美を見ている。次が最後の花火だっていうのに。

「友也」

 香美は僕の名前を呼ぶ。

 なんだか泣きそうな顔をしている。

 眉間に皺が寄っていて、顔中が真っ赤で、でも怒っている感じはしなくて。

 僕の視界を香美がじわじわと占領していく。

 僕の唇に、香美の息が触れた。手は冷たいのに、息は熱かった。

 香美は少しだけ、僕から引いた。


 きゅるるるるる――。


 最後の花火が打ち上げられた音。

 空に向けようとした顔は、冷たい右手で元の向きに戻される。

「友也」

 一度離れた僕と香美の顔が、また近付けられる。

 今度は、さっきよりも速度を上げて。

 また、息のかかる距離に――。

「……ごめん」


 ――ばぁんとぼぼん。




 香美の頭が僕の胸に押しつけられている。きっと汗で湿っていると思うのに、香美はそこから自分の頭頂部をどけようとしない。

 僕は夜に溶けていく光を見届けながら、何かを逃してしまったようなもやもやとした気持ちを抱えていた。何か。何を逃したのか、逃してはいけないものだったのか、そんなことは僕には判らないが、少なくとも決定的な何かだったことだけは理解していた。

 双肩から伸びる僕の二の腕は香美に強く握りしめられている。

 まるで何かを噛み殺し、消し去ろうとしているみたいに。

 僕は何も言えなかった。香美も何も言わなかった。

 富良野さんは言った。

「綺麗だったね、花火」

「え? あ、うん……」

「まるでナッパの散り様みたいだった」

「……きたねえ花火じゃんか」

 この空気でギャグ、しかも漫画ネタを入れられても反応に困る。

 誰でも思いつきそうなやつだし。

「友也くん、ドラゴンボール読んでるんだね」

「途中で飽きちゃったけどね……」

「へえ。私もそうなんだよね。『きたねえ花火だ』もネットで見ただけで漫画自体は『もうちょっとだけ続くんじゃぞ』のところで私の中で完結してるの。その先にどんな展開があろうと、あそこで終わっておくのが一番お話として綺麗じゃない?」

「ああ、まあ……」

「ちなみに友也くんは、ラヴコメ作品とかで好きなのある?」

「読んだことがないかなあ……」

 と僕が富良野さんに返したとき、香美が僕の二の腕を握る力がさらに増した。まあ確かにこの状態で別の人と関係ない話題の雑談を始められたほうの立場に立ったら、何とも虚しいものがあるが。

「ご、ごめん香美。その……」

「うるさい」香美はそう言うと僕から手と頭を離して、乾いた笑みを浮かべる。「花火、終わったね。これからどうする?」

「えっと」僕は携帯を開いて、香美とのトークを遡る。前夜のやり取りを読み返して、「当初の予定ではこのまま帰宅だけど」と言いながら富良野さんに視線を移した。「富良野さんって、何て言って家を出たの?」

「今まで有難う御座いました」富良野さんは澱みない口調でそう言った。「って書いた紙を居間の机の上に置いて出ていったよ」

 簡潔な遺書だなあ、と思う。簡潔で綺麗だ。少なくとも、追って引き止めてほしいとか誰のせいでこんなことになったとか、自殺と言う超個人的な行為に不必要な要素が根こそぎ削がれている。今まで有難う御座いました。今まで有難う御座いました。でもそんな、綺麗な遺書を書けるような人間が自殺なんてするものだろうか? というのはまあ、自殺は精神がおかしくなった人間のするものだ、なんて固定観念に縛られているだけなのかもしれないが。

 けれど本当に、富良野さんは自殺なんてしそうなパーソナリティの持ち主には見えないのに、どうして。

 会って一時間も立っていないうちにそう判断するのは早計を通り越して何も考えていないのと同じだが、それでも。

「……でもそれ、帰り辛くない? 明らかに遺書だから、見つけられてたら滅茶苦茶に心配されてるだろうし」

「うぅん……どうだろ。私のおばさん、今日は家にいるはずだけど……放任気味で察し悪いタイプなんだよね。だからひょっとしたら誤魔化せるかもしれない」

「そっか。まあ、頑張って」

「で、友也。結局、塔を出たら解散?」と香美は大きめの声で言う。

「そうなると思う。暗いし、家まで送っていこうか?」

「……ん、うちは、大丈夫」

「そっか、わかった。気を付けてね。富良野さんは?」

「私は送ってもらえたほうが嬉しいな。友也くんのこともっと知りたいし」

 富良野さんは屈託のない笑顔でそう言ってくれた。この人の言動にはなんだかどきどきとさせられる。恋って本当に胸が高鳴るものなんだな、と僕は思う。僕が一番どきりとしたのは表情筋が笑顔を形成するために下げた目尻の歪みかたなのだが。

 話がまとまったところで、僕達は塔の階段を下り始める。何故か香美が先頭で、僕は真ん中に置かれた。さっきから女子に挟まれてばかりだ。まあ、香美と富良野さんは第一印象がお互いに良くないせいで空気はいいとは言えないから、間に僕が挟まったほうがいいのだろうけれど。

「というか、階段あるんだね。あの長い梯子を今度は下っていくのか、って私さっきまで憂鬱だったんだけど、杞憂でよかった」

 と富良野さんは胸を撫で下ろした。僕は昔、小学四年生くらいのときに梯子で下りようとして手を滑らせて落ちてしまって死ぬかと思ったけれど、落ちる時間が長いお蔭で途中で梯子にもう一度掴まることができて一命をとりとめたんだ。というエピソードを語ってみようかと思ったけれど、さっき窓から落ちて死にたくても死ねなかった人にその話をするのもどうかと思ってやめた。香美はずっと無言だった。僕もなんとなく香美には話しかけなかった。少しだけ放っておいてほしい、と背中で語っている気がしたから。

 ……さっきから気がする気がしたばかりで、鈍感な僕は逆に何も気付けていないのではないかと不安になるが、さもありなん。

 僕は前後を歩く女の子達の、涙の痕の理由すら、はっきりと理解できていないのである。




 レバーを力任せに引き上げる。物々しい扉がシャッターのように下りてきて、正方形の穴が潰される。地面が揺れる。僕は錠を締めて、ポケットに鍵を入れる。それから二人に向き直る。

「施錠完了。また来ようね」

「うん。色々あったけど、楽しかったよ」香美は塔に手を振って、明るい声で言った。「じゃ、うちはこれで……と、その前に」

 友也、ちょっとこっちきて。

 香美は富良野さんから少し離れながら、僕を手招きした。花火を見ていたときのことがあったから少しはらはらしながら、僕は香美に近づく。

「耳貸して」

「あ、うん」

 言われるがまま耳を差し出す。香美は僕の耳に口を寄せ、二秒も置いてから、

「友也、富良野さんのこと好きでしょ」

 と、囁いた。

 咄嗟に「そんなこと、ないけど」と否定した僕に、香美は同じ声量で言う。

「アホ。瞳孔の開きかたとか話してるときの顔とかでバレバレだよ。良かったね一緒に帰れて、メアドくらい聞きだしなね」

 香美はそれだけ告げると僕から離れて、足早に坂を下っていった。富良野さんの家とは逆方向。

「何て言われたの?」と富良野さんは興味津々な調子で訊いて来た。

「今の? 借りてた漫画いい加減返せってさ」

「絶対嘘だよね……まあいっか」

 僕達は並んで歩きだした。富良野さんの家はここから十分くらい歩く距離にあるのだとか。そこそこ離れているのに、どうしてこの塔を選んだのだろう。なるべく近くのほうが、道中で決意が揺らぐ可能性も低くなるだろうに。そう言うと、富良野さんはおかしそうに、

「友也くん、さっきから自殺すること自体にはまるで反対じゃないみたいなこと言ってるけど大丈夫?」

 と言った。

「そんなことない。自殺はいけないことだ。命はかけがえのないもので、辛いことや悲しいことがあったくらいで投げうってはいけない。そこまで自分を育てて導いてくれた色々なものに対して、失礼極まりない。更に言えば、自殺は場所によっては全く無関係な人に迷惑をかけることになる。たとえば、他人の所有物である高い塔に勝手に入って四階から飛び降りて死ぬ、とかね」

 言いながら、まるで言い訳だな、と思う。そんなことはないのだけれど。少なくとも、今言っていることは本心からの言葉なのだけれど……タイミングや言葉の接ぎ方のせいでどうしても言い訳染みて聞こえてしまうことって、ままあることだが、不幸なことだ。

「そうだね。全くその通りだと思うよ。でもそんな全くその通りな思想を、自殺に対する反対意見を持っている割には……さっきの、質問タイムのとき、『どうしてこういう風に自殺をしようとしたのか』ばかりで『どうして自殺をしたのか』なんて訊こうとすらしなかった」富良野さんは腰を折って、隣の僕の顔を下から覗き込む。「どうして? 普通まずそこを訊いて、事情とか吐き出させたあとで、でもやっぱり自殺は駄目だよって言うものじゃない?」

「だって富良野さん、一度実行したじゃん」僕は嘆息する。「未遂には終わったけど、それは僕達が強制的にキャンセルさせただけでさ。富良野さんは僕達の介入さえなければ踏みとどまるつもりとか欠片もなかったでしょ?」

「うん」

「で……、これはまあ、泣き止んだすぐ後に花火の約束だとか僕をもっと知りたいだとかこれからも生き続ける気満々なこと言ってたことからの推測だけど……生きる希望がないとか、もう生きられないとか、そういう後ろ向きな理由で死にたかった訳じゃあないんだよね?」

「まあそうだね。私は逃げるためじゃなくて、死ぬために死ぬつもりだった。あそこで、あの時点で自殺して死ぬために」

「その考え方は流石に共感も理解もできないけど。何言ってんのかすら解んないけど」とにかく。「そんな、心の弱さとは無関係の理由で自殺を選ぶような人に反対意見なんてぶつけたって、何の意味もないように思えたんだ」

 弱い心なら、まだ外から変えることはできるけれど。

 強い心だと、本人が変わらぬ限りどうしようもない。

「へえ。そうだったんだ」

 と、富良野さんは納得して、それでこの話題は終わった。それでいい。どんな理由だろうと、自殺の話なんてこれ以上広げるべきではない。折角めでたい花火を沢山見たばかりだというのに、縁起でもない。自殺が本当に間違っていることかどうかは風土とか宗教とかによって違うだろうから断定はできないが、少なくとも自殺の話ばかりをしながら夜道を歩くのは健全とは言えないだろう。

 僕はさっきの香美の言葉を思い出しながら、ポケットから携帯を取り出す。

「富良野さん、携帯持ってる?」

「携帯? あるけど」富良野さんはポーチからローズダストのガラパゴスケータイを取り出して見せた。ストラップやプリクラの類はどこにもなかった。

「番号、交換しない? 後日集まって線香花火やるんだったら、連絡とれるようにしたほうが都合良いし」

「あ、そうだね。いいよ」

 赤外線通信でアドレスを交換して、お互いによろしくメールを送りあって、メルアドの由来について話したりする。僕のはとくには意味がある訳じゃなかったけれど、適当にそれっぽくでっちあげた。それから、花火をするとしてどこでやるのか、という話になって、

「私は、あの塔が良いかな。ってなんか図々しいけど」

 と富良野さんは言った。そんなことないよ、と僕は笑う。

「塔は木造じゃないから燃えないし、窓辺でやれば換気も十分だ。それに雨でもできるしね」

「うん。欲張れば、屋上とか出られたらそっちがいいかな」

「屋上かあ……うぅん、難しいかな。おじいさんから、危ないから屋上には出るなって言われてたから」

「ふぅん」

「重たいこと言うようだけど、亡くなった人の忠告には従っておきたいんだ」

「亡くなっちゃったんだ。……ごめんね、遺産の塔のガラスを割ったりして……」富良野さんは目を伏して謝る。睫毛が少し下を向いて、その毛並みの美しさが強調される。

「ううん、大丈夫。気にしないで」僕は言う。「女好きのおじいさんだったから、富良野さんみたいな子に壊されたのなら怒ってないと思うよ」

「なにそれ。あはは」

「だから気にしないで」

「わかった。ありがとね」

 と富良野さんは笑顔で、多分僕も笑顔だ。だって好きな子が笑ってくれているのに真顔でいられるほど、僕は色々なことに慣れてはいないのだから。

「ねえ、友也くん」と富良野さんは言う。

「何、富良野さん」と僕は返した。

「何かさ、アンバランスだと思うんだよね。友也くんが私のことを名字で呼ぶの。私ばっかり近づいてるつもりになってるみたい」

「そんなことないよ。何なら、今から名前で呼ぼうか?」

「うん。そうしてほしい」

「……美苗さん?」

「んー……まあ、それでいいや」

 何だか、一気に距離が縮まってきている気がする。富良野さん……美苗さんはどういうつもりでいるのだろうか? 別にどういうつもりでもないのだろうか? どういうつもりでもなくても不思議なことはないよな、と僕は思う。その場のノリとか、気紛れだとか。そういうので発言したり行動を起こしたりして、あらぬ誤解を招く人ってそう少なくない。

 そんなつもりじゃなかった。

 どんなときも、その後悔ほど空虚なものはない。僕は美苗さんにそんな気持ちになってほしくない。だから調子に乗らないように、気を引き締めていこう。

「この辺でいいよ」美苗さんは街灯の下で立ち止まって、言った。「今日はありがとう」

「そっちこそ、ありがとう。一緒に帰れて楽しかった」

「うん、私も楽しかった。……友也くん」

「何、美苗さん」

「本当にありがとう」

「何が?」

「私を救ってくれて。私の人生を救ってくれて」

「君の命を救ったのは香美だよ。君にとって彼女は、確かに心象はよくないかもだけど……」

「確かに、私の命を救ってくれたのは猫林さんだね。だけど、私の人生を救ってくれたのは友也くんだよ。友也くんがいなかったら、私はもうどうしようもなかった」

「……美苗さん」

 僕はこのとき、何かが言いたかったんだと思う。

 何か、彼女の言葉を否定するような言葉を。

 だって、僕が富良野美苗を気に掛ける理由なんてそんなの、下心しかないのだから。

 僕は彼女の目が美しすぎるから構っているだけなのだから。

 だから、そんな風にまっすぐに感謝されると後ろめたい。自分が恥ずかしくなる。違うんだ、美苗さん。僕はただ君に魅力を感じているだけなんだ。人生を救ってくれたとか言わないでくれ。救った後の人生を背負う気なんて、今の僕にはないんだ。

 でも僕は言わなかった。僕は何も言えなかった。そんなことは、美苗さんが許してくれなかった。

 口が塞がれた。一瞬だけ、息もできないくらい熱烈に。

 そしてその一瞬で、僕は言葉を奪われた。

 心も、完全に奪われてしまった。

「これはまあ、お礼ってことで。ファーストじゃなくてごめんね。じゃ、よい夜を」

 美苗さんははにかみながら手を振って、足早に立ち去っていった。僕には富良野美苗という少女のことが何ひとつとして理解できない。何を考えているのかも、何を考えていないのかも。きっと本人にとっては、全部何かしらの意味があるのだろう。ガラスの破壊も自殺も号泣も、香美との雰囲気の悪さも僕への歩み寄り方も、線香花火の約束も、行き過ぎた感謝とお礼も。全部、美苗さんなりの理由や目的があっての行動なのだ。でも僕にはそれが理解できない。性別の違いとかそういう次元じゃなく、彼女は異次元だ。そして僕は気付く。僕は彼女の睫毛や瞼や瞳だけじゃなくて、その彼女の異次元にもすっかり惹かれてしまっている。もう駄目だ。後戻りはできない。僕は富良野美苗が大好きだ。

「……でも、それでも」

 それでも、僕はきっと否定するべきだった。美苗さんの人生を救ったのは僕である、なんて勘違いを抱かせたまま去らせてしまうべきではなかった。僕がいなかったら、なんて美苗さんは言っていたけれど、香美がいなかったら、そもそも美苗さんに命の危機が迫っていたことには寸前まで気付けなかっただろう。香美が救ったから、僕は美苗さんを落ち着かせることができたのだ。だから美苗さんの人生を救ったのはやはり香美なのだ。仮に香美が救ったのが命だけだったとしても、それでもきっと、本当の意味で彼女の人生を救ったのは僕みたいなちっぽけなやつじゃなくて、彼女が少し落ち着いたあとにみんなで見たあの花火だろう。

 花火。

 光。

 色選りしない、救いの光。

「僕なんか比べ物にならないほど、それは救いになるんだ」

 僕は自嘲気味に呟いて、バス停まで歩く。二十分後のバスを待ちながら、さっきの柔らかさを思い出す。それから、鼻だけで深呼吸をする。

 夏の匂いが胸いっぱいに広がる。

 それが室外機の匂いだということくらいは、ちゃんと解っている。

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