光の華(2016年執筆)

名南奈美

光の華 ONE 前編

ONE 夏の匂い



 夏の匂いはこんなに濃いのに、どうして僕は秋になるとすっかり忘れてしまうのだろう? 暑さや汗のつたう感触や炎天下における陽射しの存在感はありありと思い出せるのに、夏の匂いだけはどうしても、秋になると記憶のライブラリからすこんと消え失せている。そして意識しなければ、僕はそれを忘れていることにすら気が付かない。これってとても寂しいことのような気がする。ひどく切なくて、はかなくて、残酷なことではないだろうか?

 夏の匂いは夏の終わりと共に僕の中からそっと連れ去られる。

 誰かは言う。


「忘れるということは失うということだよ。君の心の中から、夏の匂いは失われたんだ。大丈夫、また夏が来れば、君は君の心に夏の匂いを取り戻すだろう。ただし、一度自分から離れたものが同じ状態で戻って来るなんてことは、奇跡でも起こらない限り有り得ないのだけれど」


 それじゃあ駄目だ、と僕は呟く。それじゃあ駄目だ。僕は嫌なんだ。あの夏の想い出を、あの夏に生まれた想いを、匂いのひとかけらでさえ手放したくないんだ。僕は忘れたくない。忘れたくないんだよ。

 清流のような長い黒髪を。

 全然似合ってなんかない大きなサングラスの硬さを。

 あの夜に触れたふくらはぎの感触を。

 全てを許すようなあの笑顔を。

 全てを呪うようなあの寝言を。

 喜びも幸せも、苦しみも悲しみも。

 それが君に関わる感情で、君に関する感覚なら、僕は全て失くしも忘れもせずに抱きしめながら年老いていきたい。また僕の前に夏が何十回来ようとも決して手放さずに過ごしていきたい。たとえそれが誰かを傷付けたり幸福を逃したり命を落としたりしかねない荷物であると解っていようとも、僕のその気持ちはいつだって不変だ。

 富良野美苗。

 遠くに行ってしまった君へ。

 もう二度と逢うことの出来ない君へ。

 僕は君のことを、何があっても絶対に忘れたくない。

 たとえ何回夏が終わっても、僕は君のことだけは憶えていたい。

 夜空を見上げながら、そんなことを思った。

 十九歳の夏だった。




 僕の隣で、猫林香美が自分に向けて瀟洒な扇子をはためかせている。お裾分けされる風は何かがどうにかなるとは思えないくらい温暖で、今年の夏の暑さをいっそう実感させられてしまう。

 僕と香美は高校二年生で、仲の好い友達同士だ。去年の秋ごろに知り合ったから、今年の夏が終われは一周年になる。だからどうしたという訳ではないけれど、誰かとの縁が一年も保たれるというのは少しだけ嬉しい。

「ねえ友也」香美は少し疲れたような声音で言った。「まだ着かないの……?」

「もう少し、かな。花火には間に合うだろうから、急ぐ必要はないと思うよ」

「……なんで夏の夕方からこんな坂道登んなきゃいけないんだか。浴衣とか着てこなくてよかったよ、本当」

「あはは、まあ近所の花火大会なんてラフでいいと思うよ。どうせ一緒に見るのは僕なんだし」

「……うん」

 香美は"I detest you."と書かれたベイビーブルーの半袖シャツにホットパンツとスニーカーを履いていて、とても涼しげで動きやすそうだった。僕も似たようなファッションだけれど、ホットパンツではなく七分丈の薄手生地ズボンを履いていた。こういうとき、女の子が羨ましいと少しだけ思う。

 僕らは坂の上の塔に向かっていた。その昔、僕の祖父が道楽で買い取った土地に建てた、四階建ての塔。土地自体の位置が高いから、最上階からの景色は絶景だ。鍵は僕だけが持っているから、他の人が押し寄せてくるようなこともない。ゆっくりと花火を観覧するにはうってつけのスポットだった。なんだかズルをしているようにも思えるけれど、僕の家の土地なのだから勝手だろう。

「うち、高い所は結構好きだからさ。そっちの意味でも楽しみだわ」

 香美は沈みゆく夕陽を見ながらうきうきとしている。僕も一年ぶりに塔から花火を見るのがとても楽しみだった。僕は花火が好きだ。実質、華やかに弾けているところを眺めて楽しむくらいの意味しかないはずなのに、それ以外の、それ以上の意味が花の中に潜んでいるような気がしてならないところが好きだ。

 誰にも共感されないけれど。

 でも、誰にも共感されないからこそ燃え上がる愛だってある。

 坂を上っていくうちに、塔のシルエットが見えてきた。まだ少し遠いから、それは巨大な長方形としか映らないが、僕にはあれが祖父の塔であることが判っていた。

 レンガ造りで、窓が規則的に配置された角柱の塔。エレベーターもエスカレーターもないが、登りきったあとの景色だけは保証できる。

 僕と香美はそこでお弁当でも食べながら花火を見物することになっている。香美に花火大会の同行を誘われて、僕が塔からの眺望を提案した。けれど塔までの道のりで長い坂を上らなければならないということについては言下にも伝えていなかったから、そこに関しては香美に不満顔をさせてしまった。

 次に誰かと行くときは気を付けよう。

「本当、浴衣もそうだし、ヒールとかも履いてなくてよかった……」

「え? 香美、ヒールなんて持ってんの?」

「持ってないキャラだと思った?」

 思った、と言うのは流石に失礼だろう。「ああいや、いつもスニーカーだから」

「お姉ちゃんが、もう中学生じゃないんだからひとつくらい持っとけって押し付けてきたパンプスがあんの。靴箱の奥にね」

「ふぅん。履いたことは?」

「貰った当時に履いて、ああこりゃ無理だわってなった。うちには向いてない」

 おしゃれの為に日常生活に我慢を増やすなんて馬鹿げてるよ、と香美は言った。概ね同感だったし、香美らしいな、とも思った。

「僕もそう思うよ」と言うと香美は「でも友也はもうちょっと気を使ったほうがいいっていうか、センス矯正すべきだと思うよ?」と返した。真面目な顔で言われると傷つく。

「センスって言ったって、どうすればいいの? 僕、一応メンズ誌立ち読みしたことくらいはあるけど、ちょっと人種が違い過ぎて何の参考にもならなかったよ。なんで日本に売られていて日本語で書かれている雑誌に日本人体型の人が殆どいないんだろう」

「あはは、言えてる。じゃあ、今度うちが仕立ててあげようか?」

「いいの? ごちになります」

「いや奢るとは一言も言ってねえよ」

 鳩尾に一発入れられた。

 本気は出してないのだろうけれど、中々苦しい。

「バイトしてんだから、自分で払いなよ。大丈夫、五万まではいかないと思うから」

「五万未満くらいはかかるの……?」

 おしゃれは足元からってそういう意味なのだろうか……やっぱり、服に拘るのって貧乏人の遊びじゃないよなあ。貴族とか華族とかが幅を利かせていた頃から、一貫して変わっていない真理だ。

「……ねえ、あれが塔?」

 不意に、香美は長方形を指差した。近付いてきたおかげで、先程よりは窓の位置やレンガの模様が見えてきていた。そうだよ、と僕は言った。

「電気点いてないね」

「入ったら点けるよ。それとも点けないほうがいい?」

「いや点けてよ。お弁当食べるんでしょ」

「そうでした」

 塔に辿り着くと、僕は門の前まで近寄り、ポケットから鍵を取り出して錠に差し込む。捻る。音を立てて錠は落ちる。扉の横にある上向きのレバーを両手で掴み、深呼吸してから体重をかける。レバーが下がり、扉が唸るような音と共に持ち上げられて収納される。ごう、と塔全体が揺れる。僕の身体も揺れる。扉がなくなって、長方形の塔の根元に正方形の黒い穴がぽっかりと空いた格好になる。

「開いたよ」僕は香美のほうを振り向いて告げた。

「ゲームで見たことあるやつだ」香美はそんな感想を漏らした。

 入ってすぐのところのスイッチを押すと、高い天井に等間隔に置かれている蛍光灯が仕事を始める。僕はそれを確認してから、内側にある上向きレバーを引き下げる。入ってきたときと真逆に、扉は降りて、錠も自動でかかる。

「で、ここからどうすんの?」

「次は階段を登って四階まで行きます」

「えー? また登んの?」

「うん。あ、四階まで直通の梯子がどこかにあったと思うけれど、そっちにする?」

「……階段にしとく」

「じゃあこっち」

 僕は階段のあるほうへ歩いていく。香美はぶつくさ言いながらもついてくる。腕時計で時間を確認すると、まだ結構余裕はある。休み休み登っていっても間に合うだろう。

「ヒールじゃなくてよかったね」と僕は言った。返事はなかった。




 三階に着いた辺りで、香美は休憩を求めた。あと一階だから、と僕は励まそうとしたが、十分だけでいいからと押し切られてしまった。三階の電気を点けて、階段のすぐ近くのソファーに座らせる。祖父の設計した塔の中には階ごとに休憩用のソファーが置かれていた。恐らくは自分の老化を見越してのことだろうけれど、僕は祖父に感謝した。

「……ごめんね。僕は慣れてるけれど、香美は初めてだもんね」

「本当だよ。どんどん登ってってさ……着いてくの大変だった」

 友也にそんなに体力があるとは思ってなかった、と香美は言った。自覚はないけれど、普通は香美みたいにばてるものなのだろうか。そうなると、もしも今後誰かを連れていくときにはその辺の気配りも考えないといけないなあ……まあ、今のところ予定はないが。

 ぼんやりと思索していると、香美は言う。

「ねえ。友也って、好きな子とかいんの?」

「え? なんで?」

 誰かのことが好きそうに見えたのだろうか?

「いやほら、夏じゃん。だから」

 だから、の先を香美は濁した。彼女がそんな風に、歯切れの悪い喋りかたをするのは珍しいことだった。僕はそこを追究したりせず、続きを待った。

 でも、香美は話題を変えた。

「そういえば、修学旅行って何月だっけ」

「十月じゃないかな。九月だっけ? とにかく、夏が終わったらだ」

「そっか……友也、受験の準備とかしてる?」

「取り敢えず、夏休み明けから復習とか始めておこうかなあとは」

「どこ受けるつもり?」

「恋川大学」

「恋川って」香美は驚いた顔をする。「思いっきり他県じゃん。え、友也、引っ越すの?」

「うん。親元を離れて独り暮らし、っていうのを人生に組み込みたいんだ」

「でも……そんなに遠くまで行かなくても」

「列車で数時間の距離だよ? 遠くない遠くない」僕は言う。「僕は、十代を地元で完結させたくないんだ。産まれた土地で成人を迎えるっていうのが、予定調和みたいで気に食わない」

 きっとそれは若さゆえの思考でしかなくて、浅くて薄っぺらな意思でしかなくて、大人達からすれば馬鹿げた感情でしかないのだろう。

 でも、僕は思う。

「このまま同じ土地で育ってしまったら、転勤だとか派遣だとか、そういう外的要因でもない限りずうっとここに留まっているようなつまらない人生になってしまう気がするんだ」

「……親はなんて言ってるの?」

「あまりいい顔はしなかったけれど、反対はしなかったよ。生活費も自分でバイトして稼ぐって言ったしね」

 それでも、思想を理解してもらうのには時間がかかったけれど。

「……友也」香美は、どうしてか項垂れながら僕の名前を呼んだ。そんなに疲れているのだろうか。

「なに?」

 香美は返事をしなかった。

「……香美?」

「ううん、なんでもない」香美は笑顔で顔を上げて、すっくと腰も上げて、「もう大丈夫。ありがとう。再開しよう」と言って、先に階段に足を掛けた。

「待ってよ、香美」

 香美は、きっと彼女からするとさっきの僕みたいに、早いペースで段を登っていった。僕は彼女の三段後ろを着いて行きながら、

「そういえば、香美はどうなの?」

 と投げかけた。

「どうって、何が?」

「香美は好きな子とかいるのかって話だよ」

 香美は一秒だけ停止して、それから何も言わずにまた登り始めた。

 四階に着いても、その問いに対しての返事はなかった。




 四階の電気を点けると、僕と香美は南西の出窓のほうまで歩いた。ちょうどその方向に、花火大会の行われる河川敷がある。

 外はもうすっかり暗くなっていて、夏の夜空に星屑が点々ときらめいていた。

 香美は頬杖をついて窓の外を眺めながら、なんの前置きもなしに、幼い頃に見た夢の話を始めた。

「小学四年生の頃、夢日記をつけていたから覚えているんだけど、……星空のドレスを着て踊る夢を見たんだ。真っ暗で、星とか惑星とかがすごく自然な柄としてデザインされていて、まるで宇宙を着ているみたいな……それで、そのドレスはとても広くて、十二単みたいに幾重にも層があって、それを着て踊ってるの。

 とても幸せな気分で、くるくる回って、歌ったりなんかして。何歌ったんだっけ……そうそう、きらきらぼし。あはは、あれって宇宙を着ながら歌う曲じゃないよね。

 で、くるくる踊るってことは視界もくるくる回る筈なんだけれど、そんなことはなくて、視界は一定だった。たぶん、身体だけがくるくる回ってたんだと思う。くるくる回る目的はドレスの裾をくるくる回す為だったんだからそれが最適なんだよね。うん。

 踊りまくってたらだんだん目の前の空間が両開きのドアみたいに開いて、入るまでもなくその先に暖かい世界があることがうちには判った。だから早く行こうと思ったんだけれど、くるくる回っているのも心地よくて、ずっと回っているのもありかなって感じで、開いた先の世界ってどんなんだろうなあって妄想しながら結局行かずにくるくるしてた。

 でもそうしたら、あるときその暖かい世界に一瞬砂嵐みたいなのが被さったんだよ。ほら、テレビをアナログ放送のほうに切り替えたときのザァってやつ。それ見て、ああ、いつまでもあの世界が開けっ放しで待っていてくれているって訳じゃないんだなって気付いた。そして同時に、くるくる回る速度も緩まってきていることにも気付いて、そこで目が覚めた」

 香美は言い終えると、景色に向けていた顔を僕のいるほうに振り、「お弁当食べよっか」と言った。僕は夢の話の感想を言おうと思っていたのだが、香美が手早く準備を始めてしまったので、そのタイミングを逃してしまった。

 香美はどうして夢の話を始めたんだろう? しかも、そんなに詳細に、脈絡もなく。

 まるで村上春樹の小説みたいだ。

 読んだことは無いけれど。

 お弁当は誰かの手作りという訳ではなくて、坂を登る前にコンビニエンスストアで買ってきたチャーハンとサラダとおにぎりとタピオカジュースとカフェオレと、ちょっと奮発してハーゲンダッツ。僕も香美も料理のスキルは大してないのである。

「まだ二十分もある。結構時間かけてきたつもりだったのに」

 香美は携帯で時間を確認しながら言った。

「食べながらのんびり待とう」

 レジャーシートを敷きながら僕は言った。昨日掃除をしたけれど、だからって直に座って食卓にできるほど衛生的な訳がない。

「そうだね」香美は靴を脱いでレジャーシートに座ると、手を合わせる。「いただきます」

 僕も香美に倣っていただきますをしてから、チャーハンのパックを開けた。それから思い出して、鞄から水筒を取り出した。

 食べているときは無言だった。僕達はお互い、食事中に話をする種類の人格を有していなかった。そういうところが合致していないと、一年間も仲好くしていられない。

 結局のところ、人と人との相性なんてものは、イベントのときや悲しみにくれているときよりも、並んで歩いているときとか食事を共にしているときやメールのやりとりをしているときのほうがよっぽど如実に出るものなのだ。

 十二分くらいで二人とも食べ終えて口元を拭いて、ごちそうさまをして片付けを終えて、それから僕は訊く。

「ねえ香美、どうしてさっき、突然夢の話なんてしたの?」

「話したくなったからだよ。夜景に酔ったの」

「ふぅん。なんか、大人っぽい理由だね」

「あはは、まだまだガキだよ。友也とおんなじでね」

 出窓から河川敷のほうを見遣ると、見物客でごった返していた。きっとこれから背と腰の低い人が来ても、人の壁に阻まれて満足に花火を見ることすら叶わないだろう。でも優越感はとくに感じない。

 だって、あの人ごみの中に混じって花火を見上げることも、花火大会の醍醐味のひとつなのだろうから。

 まあ、それをあの人ごみの中の人達に言っても嫌味にしか聞こえないのだろうけれど。

 別にその醍醐味を味わいたい訳ではないのだし。

「あ、放送で何か言ってる」香美は声を弾ませながら身を乗り出した。「始まるんだ」

 夜の空の闇に、河川敷の人達は一斉に顔を向けた。そこに人生の救いがあるかのように。あるいは花火とはひとつの救いなのかもしれないな、と僕は思った。暗い空に閃光が瞬く。その瞬間を多くの人が顔を上げて見つめている。感嘆の声や、喝采を上げる人もいる。皆、花火にはそれだけの価値があると信じている。いや、事実そこに価値があるのは確かなのだ。日本の技術の粋であり、職人芸であり、儚くも美しい瞬間であり……花火という文化を肯定する要素は枚挙に暇がない。

 でも僕は思う。本当は皆、恐らく殆ど無意識的に、もしかしたら意識的に、そういう文化とか伝統とか格式とか芸術とかは無関係に、ただ闇の中に打ち上げられて爆発する一輪の華に、神様を見ているのではないかと。花火の神様とかではなくて、原初から遺伝子の中に脈々と刻み込まれている神様の煌めきの記憶、救いの光の記憶が、花火を見ることで、花火でなくても大胆に光り輝く何かを見ることで想起されているのではないかと。イルミネーションや炎や宝石の輝きが人々を魅了することにはそうした理由があるのではないかと。そしてだからこそ、僕達は対極である暗闇に恐怖とか不安とかの、ネガティヴなイメージを抱いてしまうのではないかと。

 花火は光だけでは成立しない。光と闇のコントラストこそが花火の本質であり、同時に救いの本質なのだ。

 別に僕はどこかの宗教を信じている訳ではないし、どころか八百万の神様すらも素直に信用したことは一度だってない。だけれど、原初、生きとし生ける全ての生物の中にそうした救いの光の記憶があって、今の僕達の抱く感動はある種のデジャヴ的感覚によるものだったりするというストーリーのことは信じている。信じてもいいと思っている。信じさせてほしいと願っている。本当は違くたって構わないが、それでもそう信じることを誰にも邪魔されませんようにと祈っている。

 だって、たとえ原初だろうとなんだろうと、僕達は遠い遠い昔に一度救われたのだという物語は、この闇の中みたいに見通しの悪い現実世界におけるひとつの光明になると思うから。

 なんて現実逃避みたいなことを考えている僕と、そんな面倒臭いことは考えていないように見える香美の目の前で花火大会が始まり、それと同時に窓が割られる。




 ばぁんとぼぼん――と花火が弾ける音にガラスの割れる喧しい音を被せられて、僕も香美も音の鋭く短いほうに気を取られる。僕達のいる方向とちょうど真逆の位置から奏でられたぞっとしない音は、僕に北東の出窓の存在を強く意識させた。

 誰かが割ったのだ。

「え、なに今の。え? 窓が割れた感じだったよね。ちょっと見に行こうよ」

「ちょっと見てくるのは危ないと、僕は思うけど……でも確認しないまま花火見てる訳にもいかないし……どうしよう」

「誰だよ本当さあ……すごい怖い」

 確かに怖い。窓を割る人間にろくな奴はいない。

 でも誰が割ったのかは問題ではない。

 内側と外側、どちらから割ったのか。

 ここは四階で、四階の窓を外から割るだなんて普通に悪戯半分で投石したくらいじゃあ叶わない。同じくらいの高さから狙撃するか、塔の屋上からハンマーでぶん殴るかしないといけない。取り壊しの工事で見るような黒くて大きなボールで破壊されたか? いやさ、それならもう少し衝撃も振動も音もあるはずだ。『え、なに今の。え?』なんてリアクションでは終わらない。

 ならば内側か。何らかの方法を使ってこの塔に侵入した何者かが内側から窓を割った。可能だ。でもそれは外側から破壊されるよりも恐ろしいパターンだ。何故なら、それが本当だとしたら破壊した犯人は塔の中の同じ階にいるということになるからだ。一刻も早く逃げなければならない。外側から窓を割るならまだ中の人間を傷付けるだとか内側に侵入するためだとか色々理由はつけられるけれども、内側から窓を割るなんてそんなのは何の意味もない。ここまで僕達にばれずに入り込めたのだから帰りも同じようにすればいい。わざわざ窓から出る道理はどこにもないはずだ。

 つまり、破壊そのものが目的。

「それは頭いっちゃってんなー。でもさ友也、もしもうちらがここに入ったのを知っての犯行だったら、もしかしたら強盗目的かもね。立てこもり犯がいかにも狙いそうな建物ではあるし」

 と香美は言う。確かに在り得る。僕達がのうのうと途中休憩を挟んだり弁当を食べたりしている間に四階まで上がってしまったのかもしれない。けれどその場合、僕達とは真逆の位置の窓を破壊した理由はなんだ? 威嚇なんてしたら逃げるに決まっている……いや、でも僕達の思考は確認しにいく方向も検討している。そこも含めて計画したのだろうか?

 どのみち、窓を確認しに行くのは危険であるという事実は不変だ。でも確認しないことだって危ない。もしも外から壊されていたら、外に出た僕達を待ち構えているかもしれないのだ。

 嫌な想像は膨らむ。畜生、どうして僕が、僕達が、こんな窮地に追いやられなければいけないんだ。何をしたと言うんだ。僕はまだ夏休みの宿題すらやってないのに。

「で、どうすんの? 見に行くの? 行くんなら残されるの怖いしうちも一緒に行くけど……早めに決めたほうが良くない?」

「……見に行く。取り敢えず今がどういう状況なのかを明確にしないといけない」

 明確化なんて求めずに逃げて通報して警察に捜査してもらえば、あるいはそれでも何が起こっていたのかは判ったかもしれない。

 でもどうせ何を選んでも危険なら、僕は塔の窓を割った犯人の顔を一目見ておきたかった。僕の祖父の塔。大好きな祖父が残した、巨大で無機質な遺産。我が家の財産である物見の塔。想い出も思い入れもたくさんある。小学生の頃から。それを無断で破壊するような不届き者に何も言わずに逃げるなんて、それしか選択肢がない訳ではないのにそっちを選ぶなんて、まだ若い僕にはできなかった。

 僕はなるべく離れないほうが安全だと考え、香美の手を取って駆けだした。香美は少し戸惑ったあと、そんな場合じゃないと切り換えて、僕に合わせて走る。

 角を二回曲がると、そこは北東の窓。

 そして僕達は、富良野美苗に出会った。


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