第4話 一皿に籠められたもの
約束の三年間が過ぎ、コックが帰国をする時期が近づきます。お店は年中無休でしたが、その日は夜の営業を取り止め、みんなでお別れ会をしました。もちろん、こんなことは初めてです。
いつものお店の雰囲気とは違い、皆は陽気に料理とお酒を楽しんでいました。
「どうしても帰国しなければならないのか? ここに居れば永住権なんてあっという間に取得できるんだぞ」
ちょっと怒ったようにシェフは、何度もコックに話しかけます。コックの意志が堅い事を知った彼は、皆を残して調理場に入ってしまいました。しばらくして牛肉の赤ワイン煮込みを持って、戻ってきます。
「餞別だ」
皆は少し意外そうな顔をしました。この地方では一番ポピュラーなお袋の味で、特別な時に出すような料理ではありません。
「いただきます」
コックは背筋を伸ばし、そのお皿に向き合いました。牛肉は赤身とスジ肉の混じったところ。野菜はいつもお店でつかっているもの。赤ワインも一本五百円位の酸っぱくて渋いもののようです。でも一口食べて、皆は驚きました。
「うまい!」
「俺のお袋が作ったものより、上等だ!」
「これを店で出せばいいのに!」
肉の柔らかさ。ソースの香り。どれを取っても一級品です。大体この国の人たちは、自分の家のお母さんの牛肉煮込みが、一番美味しいと思っているのでした。でも、この一皿は皆の考えを変えさせるのに、十分な仕上がりです。
コックは物も言わず、丁寧に煮込みを食べました。そして留学生に手伝って貰いながら、自分の言葉で皆に話し始めます。
「残念ですが、この料理はお店で出すことは難しいです」
「やっぱり特別な材料を使って居るの?」
「いいえ。使っている材料は丁寧に吟味されていますが、ありふれたものです」
「じゃあ、何でこんなに美味しいの?」
「まず肉の煮込み方です。きっと3日間以上、丁寧にアクをすくって煮込んだんだと思います。同じようなことは圧力鍋でも出来ますが、それではこんな風な仕上がりになりません。鍋につきっきりとは言いませんが、大変な労力がかかります。
ソースですが、高級な赤ワインよりも、この渋くて酸っぱい物の方が、長時間の煮込みに耐えられて、味わい深くなります。それから・・・」
コックは調理場に入って、一本の酒瓶を持ってきました。古い瓶のマデラ酒です。
「それ棚の飾りじゃないの?」
「隠し味に、これを使っています。このお酒は古過ぎて呑むのには適さないかもしれません。でもこの料理にはなくてはならないものです」
シェフは怒った顔でいいました。
「その酒は店ができた時、お祝いで貰ったものだ。大切な人にもらったから、今まで手をつけ兼ねていたんだ」
「このお酒は古過ぎてもう、どこにも売っていないと思います。ですから同じ物を、お店で出すことはできません」
コックは深々とお辞儀をしました。
「僕は、このお店で働いた今までのことを一生忘れません。そしてシェフの様に、大切な気持ちを料理で伝えられるような、料理人になりたいと思います」
「……人は生きて80年だ。しかし料理はずっと続く。お前には俺の料理を継いで欲しかったんだが。 ……日本で俺の料理をつないでくれ」
それだけ言うとオーナーシェフは、店を出てしまいます。彼の言葉を翻訳し終えた留学生も、店の皆も涙が止まりませんでした。
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