第3話 フランスへ

 コックは半年間、銀座のお店で働きながら、御茶ノ水にある語学学校に通いました。中学卒業の学歴しかない彼でしたが、勉強は嫌いでなく、意外と楽しんでいることに気づきます。


 遊び半分で来ている受講生と、自分のお金で必死になって勉強しているコックとでは、言葉の習得度合いが大きく異なりました。最初の三ヶ月で初歩的な日常会話を習得し、残りの三ヶ月は料理に関する専門用語を覚えます。これは一般の進行と比べて、大変早い進み具合でした。


 お店に食事に来たフランス人に話しかけ、簡単な会話が成立した時には、店の皆から感心されたものです。

「どうやら君の先生は、南の地方出身のようだね」

 そのフランス人に言われ、後で確かめると、コックの先生はブロバンス地方の出身であることが分かりました。外国語にも方言があるのだと分かり、また一つ勉強になったコックでした。



 それなりに語学に自信をつけたコックでしたが、フランスの空港に降り立った瞬間から、その思いは打ち砕かれました。空港のアナウンスすら聞き取れないのです。なんとか用意された下宿に辿り着くと、彼はショックと疲れのため一晩寝込んでしまったのでした。


 二、三日するとコックは、様々なレストランで食事を始めます。片言のフランス語で、調理師であることを説明すると、どの店でも素晴らしい料理を紹介してもらう事ができました。

 そのお礼に、日本で学んだ料理方法を幾つか紹介します。料理の世界ではこのようなことが普通に行われているのでした。


 勉強のため訪れた店には、大統領が予約を入れるような、大変な名店も含まれました。素晴らしい料理をご馳走になった後、コックは現地の食材を使って、そのお店で幾つかの日本料理とスープを作ります。それを試食したオーナーシェフは、彼のパスポートを確認すると、直ちにコックの採用を決めました。


 日本の有名店で働いていたとはいえ、権威ある料理評論雑誌で星を取るようなお店での経験は、驚きの連続でした。野菜で出汁を取るにしても、日本では綺麗に形を整えた野菜を使っていましたが、このお店では人参の皮や、青菜の固くて使えないような部分を使っています。

 でも出来上がった料理は、コックが食べたことのないような素晴らしい料理に仕上がるのでした。その時に気が付いたのが、素材の大切さです。その土地にあった、無理をしない方法で栽培した野菜の美味しさに目を見張りました。少しくらい形が歪でも、食べる分には全く問題がないのです。


 肉料理に関しても、素材は捨てることがないことを学びました。各種内蔵の美味しい料理法や貯蔵法は、コックの一生の宝物になります。大きな骨の髄まで美味しく食べた時の感動は忘れられません。


 一番印象的だったのは、お店で働く人々の誇り高さでした。お客様は大事ですが、店員は対等の立場を保っています。お客さんの中で、呑みすぎて騒ぎすぎると食事の途中でも、お店を出されてしまうのでした。

 でも店員たちは厳しいだけでなく、一度来ただけのお客さんの名前を、何年も覚えていたり、この前来店した時に、何を食べたか全て覚えているのです。


 コックが一生忘れられない、接客がありました。


 ある日、老婦人が一人でお店に来ました。もう、お歳であまり量は食べられませんが、楽しそうに御食事されています。デザートの前にシェフが、リンゴのブランデーが入ったグラスを彼女に運んで行きました。

「あら嬉しい。あの人の好きな、お酒を覚えていてくれたのね」

 毎年、結婚記念日に二人で食事をされていたご夫婦ですが、残念ながら旦那様が亡くなってしまったのです。


 フロアの人だけでなく、調理場の人も全員手を止めて、彼女の前へ出て一礼します。まわりのお客さんは何のことだか分からずビックリしていましたが、老婦人はニッコリと微笑むのでした。

 コックも一礼しながら、料理は作るだけではなく、食べる人の気持ちに寄り添うことなのだと学びます。



 しばらくするとコックは、何度かシェフに試験を受けることになりました。実技は問題ないのですが、言葉の壁が厚く、繊細な感情を伝えることができません。そこで同じ下宿に住んでいた日本人の留学生を通訳にして、何とか及第点を取ることができました。

 通訳を頼まれた留学生は、その後、役得として何度もお店の賄いや、コックの手料理にありつくことができました。それまで勉強しかしてこなかった彼に、美味しいものを食べるという人生の楽しみが生まれたのです。


 留学生の協力もあり、コックはサード上から三番目の責任者に任命されました。そのお店で外国人がサードになったのは初めてです。毎日が楽しく、忙しく、驚きの連続でした。たまのお休みの日に、下宿で新しい料理を試作し、留学生に試食して貰うことも始めます。


「まるで仕事が調理師で、趣味が料理みたいですね」

 留学生が感心するほど、コックは仕事と勉強に打ち込みました。

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