26.懐かしい香り
「この香り」
と俺は口を開いた。彼女の家は、いつもこの香りで満たされていた。オリーブと、森林のような緑の豊かな香りだった。
「また薬草を使ってるのか」
入るなり不躾だとは思った。そして何より、本当はもっと甘い会話をしたかったが、忠告はせざるを得なかった。
「だって、美味しいし体にも色々良い効能があるんだもん」
「だもん、じゃない」
俺が呆れたように言っても、彼女はただにこにこと笑みを浮かべるだけだ。そして鍋を火から下ろすと、部屋の端に座っていたうさぎのシーラが、ぴょんとリズの肩に跳び乗った。
「もう火は使わないから大丈夫だよ」
彼女が耳を撫でると、シーラは気持ち良さそうに目を閉じて甘えているように見えた。
ゆっくりとした空気。二人の睦まじい様子を暖かな気持ちで眺めていたが、はっと我に帰る。
危機意識が足りない。あまりにも彼女はのんびりとしすぎている。厳しいようだがはっきりと言ってやらなくては。
「君も、今の情勢を分かっていないことはないだろう」
俺が口を開くと、リズはシーラを撫でながらも目をこちらに向けた。夜空のような長いまつ毛がそっと揺れる。
「…城や町の奴らが、君の事を噂している。疫病や戦争に、何か人知を超えた力で加担しているんじゃないかって」
「そう…」
伏し目がちに、彼女は声を発した。誰かにそう思われていることを、薄々は察していたのだろうか。
もちろん、リズには人々が言うような力はない。彼女はただ野草や薬草に詳しく、そしてほんの「ちょっとした能力」を持ち合わせているだけだった。
また、万が一そんな力を持っていたとしても、彼女があの噂のようなことをする訳がないことは、俺が一番よく知っていた。
けれど。人々の不安は自分一人ではどうしようもない速さで膨らんで、広がっていくようだった。まるで、国全体が黒い靄で覆われていくように。
先ほど以上に低い声を作って、口を開く。
「これ以上、目立つようなことはしない方がいい。もし誰かがここに偵察にでも来たら」
「まあまあ、まずは食べましょう」
しかし彼女は話を逸らすようにそう促すと、料理を皿に盛ってテーブルに乗せた。
「なぁ、」
「今日はあなたが来ると思ってたから、これにしてみたの」
かけた声は途中で遮られ、代わりにほのかな湯気が二人の間の空気を温めていった。
「タンポポのジェノベーゼリゾット。ヨーゼフ、好きでしょ?」
目の前に出されたそれは、胸を締め付けるような懐かしい香りを放って、そこに存在していた。その料理は、彼女が、リズが得意とするものだった。
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