ぼくときみのソーシャルディスタンス
ビルの三階にある、この真っ白な壁に囲まれた小さな部屋が、ぼくが生まれ育った場所だ。十二年間、建物の外には出たことがない。
鍵のかかった扉と、たった一つの小さな窓だけが外の世界へと繋がっている。ただし、扉はぼくには開けられないし、窓の外には、桜の木を一本挟んで、同じような白い建物が見えるだけだ。
昔、この世界を大変なウィルスが襲ったらしい。それ以来、人々は接触することを恐れ、お互いに距離をとって暮らしはじめた。子供は生まれてすぐに真っ白な無菌室へ入れられ、週に一度のペースで様々なワクチンを打ち、あらゆる抗体を作りながら、大人になるまでそこで暮らす。
ビデオ学習でそう教わってきたから、ぼくもそうやって大人になるんだと思っていた。
「303号、ワクチンの時間です」
その日、部屋に響いた放送で起こされて、ぼくはやっと寝坊したことに気が付いた。そうだ、今日はぼくの番だった。
この建物には、ぼくを含め大勢の子どもたちが、ひとり一部屋を与えられて暮らしている。けれど、他の子の姿を見たことは一度もない。会わないように、移動が制限されているからだ。もし誰かが病気にかかったとしても、誰とも会わなければ感染は広がらないのだ。
「早く着替えなくちゃ」
遅刻したら怒られる。あたふたと検査着に着替えていると……ふと、窓の外で何かが動いた。
「わっ……!」
向かいの建物……その廊下を歩く、ひとりの女の子。はじめて見る、自分以外の子供。長い金色の髪が、光に反射して綺麗に揺れる。真っ白な透き通るような肌に、思わず見とれてしまった。
「303号、早くしなさい。スケジュールに従いなさい」
放送に急かされて我に返ったぼくは、慌てて鍵の開いた扉を開いて廊下に出た。カツン、と静寂の中に足音だけが響いた。何も無い、誰もいない通路を歩いてワクチン室へと向かう。
部屋の中には、全身を防護服に包んだ大人の男性医師が一人だけ。椅子に座って向かい合う。
「右腕を出しなさい」
威圧的。そんなにぼくが……いや、感染するのが怖いのかな。言われるままに出した右手を、ゴツゴツとした大きな腕が掴んだ。硬くて、大きな大人の腕だ。消毒液を染み込ませた綿が肌に触れると、次に来る痛みを予想した体がこわばった。何回やっても、痛いものは痛い。だからワクチンの日は、嫌いだ。
「あの子、また会えるかな」
部屋に戻ったぼくの頭の中は、そのことでいっぱいだった。向かいの建物にも子供たちが住んでいて、あの子はぼくと同じタイムスケジュールで管理されているのかもしれない。
その仮説は次のワクチンの日に確信に変わった。わざと部屋を出るのを遅らせて窓の外を見ていると、再び彼女は姿を現した。ぼくは精一杯、外に向かって大きく手を振った。そんなことをしたって、彼女がこっちに気が付くはずはない。
けれど、彼女はぼくを見つけた。
もうすぐ咲きそうな桜の蕾に微笑んで、そのついでに、ぼくに気が付いたのだ。ぼくも驚いたけれど、彼女はもっと驚いていた。だって、ぼくは二回目だけれど、彼女は初めてだったから。
「また会いたいな。会えるかな」
次の一週間が、いつもよりずっと長く感じられた。あんなに嫌だったワクチンの日が、こんなに楽しみになるなんて信じられない。
「会って……会って、ぼくは何がしたいんだろう」
話がしたい。遊びたい。色々ある。でも、ぼくの脳裏に焼き付いて離れないのは……あの白くて小さな手だった。そして同時に、あのゴツゴツとした大人の腕の感触が蘇った。話すのも、遊ぶのも、大人になってからでもきっとできる。でも、でも……!
次のワクチンの日がやってきた。いつも通り遅れて用意をしたぼくは、窓の外の彼女に向かって一枚の画用紙を掲げた。そこに書いた言葉が、ぼくの気持ちだった。
「303号、早くしなさい。スケジュールに従いなさい」
ぼくは部屋を飛び出すと、逆方向に走った。見たことのない大人たちが見張っていたけれど、ぼくが両手を突き出して向かっていくと、みんな腰を抜かして倒れた。おかげで簡単に外に出ることができた。でも、少し悲しかった。
「はあ、はあ……」
息を整えるために、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。消毒液の匂いがしない、本当の空気の味がした。
満開の桜を見上げた。こんなに大きな木だったんだ。舞い落ちる花びらの動きに合わせて下ろした視線の先に……彼女がいた。
彼女は、ぼくが差し出した手をそっと握り返してくれた。
小さくて柔らかなその手は、ぼくよりも少し、温かかった。
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