第一章 三話 月光に照らされる血脈
夜風が通り過ぎ、影虎の前髪をそっと揺らした。月のひかりにも負けない白い額があらわになる。半分まぶたを伏せ、じっと葉牙助を見つめていたが、諦めたように軽くため息をつく
と、すっと息を吸い、くちびるを開いた。
「今さら気付いたのかよ」
葉牙助は顔を真っ赤にし、手をぶんぶんと前後に振ると、口を大きく開けたまま後ずさった。
「お、おう、おん、女の子っ、おんなのこ……っ」
動揺で、舌が途中から回らなくなる。
大粒の汗が、だらだらと額からこめかみを流れてゆく。
「……落ち着け」
影虎は落ち着いた表情で、なだめるように葉牙助に片手をそっと伸ばした。彼女の鎖骨から流れた血が、晒しに到達し、白に赤がにじむように染みている。
葉牙助はそれを見て、はっと瞠目した。
「って、斬り傷からまだ血が出てるじゃねえか! ……ちょっと待ってろ! 今手当してやっから!」
慌てる様子の彼に、影虎は何を言われているのかわからないというように呆然としていた。
葉牙助は急いで傍に置いていた薬箱の蓋を開けると、中の物をぽいぽいと取り出した。
「これじゃない、これじゃない……」
瓢箪型の陶器の瓶を見つけると、それを顔よりも高い位置にかかげた。
「あった!」
満面の笑顔で、くるりと影虎の方を向くと、近づいていった。
「何を……」
「動くなよ。血止め薬塗れねえだろ」
葉牙助は影虎に顔を向けず、刀傷だけを見つめると、瓶の蓋を開け、ひとさし指を入れて中に収められていた薬を取り出した。山葵色をしたそれを、ためらうことなく流れるような手つきで影虎の鎖骨の傷に添うように塗っていく。
「な……」
驚いて目を瞠る影虎に意識を向けず、集中を傷だけに集めていく。
葉牙助の顔は、先ほどまでの溌剌としてあかるい、間抜けな印象の少年とはうって変わっていた。仕事をする人間の顔になっている。
「うっ」
影虎は、葉牙助の半分伏せられたまぶたに灯る薄青い月のひかりを無意識に見下ろしていた。
薬のつんとした香りが一瞬し、塗られいくごとに消えてゆく。
彼の指先が骨の浮き出た箇所を、より強く撫でたことで、歯を食いしばった。
「染みるけどちょっと我慢してろ」
葉牙助は彼女の呻き声に気付き、かすかに顔を上げて小声でつぶやいた。
影虎は少しくちびるを震わせ、葉牙助を見下ろした。眉をわずかに寄せ、こめかみに汗の粒を浮かせている。
葉牙助は影虎の肌に目をやった。しろくなめらかな肌の腕や腹、わずかに袴から見える尻の上等、至るところに刀傷がある。
(こいつの体、傷だらけだ。こいつが自分の血だけ刀に吸わせてたのって本当だったんだ。……こいつ女なのに)
「終わった」
葉牙助は丁寧に最後の仕上げをほどこすと、達成感のある笑みを浮かべ、影虎から離れて立ち上がった。
影虎は己の鎖骨を見下ろした。
先ほど血が流れていた刀傷が、未だ生々しくもありながらも、丁寧に塗り薬で止められている。
うすく口を開け、金色の目を丸くして、傷口を見下ろす影虎は、先ほどと打って変わり、まだあどけなさの残る少女のおもかげをしていた。
葉牙助は、立ち上がって胸をそらした。まぶたを閉じ、腕を組んで鼻を鳴らす。
「へへっ。綺麗に止まっただろ。
影虎は片腕にそっと片手を添え、黙って彼を見ている。
「う~ん。あっそうだ! なあ」
葉牙助は腕を解き、握った右手の人差し指だけを上げて、笑顔で影虎に顔を近づけた。
「俺がお前の代わりに江戸までその刀に血を与えるってのはどうだ?」
「はぁ?」
「金の代わりに俺の血を代価にするんだよ。お前は江戸まで体を休められる。俺は江戸までの護衛を雇える。どうだ? 悪い話じゃねえだろ!」
影虎はしばらく真顔で葉牙助を見つめていたが、やがてかくりと首を落とした。うなじまとめた黒髪が上下にさらりと揺れ、前髪が紗となって彼女の顔を隠した。
「っ……」
「な、なんだよ」
葉牙助は影虎が具合が悪くなったのかと、かがみ込んで彼女の顔を覗き込もうとしたが、その前に音がした。
「ふっ」
「おい」
影虎は腕から手を離し、覆った。
「……ぷっ……、くっ……」
「お、おい大丈夫か?」
「あっはっはっはっはっはっは!!」
影虎は急に顔を上げると、大きく口を開けて大声で笑い出した。満天の星空へ向けたあかるい笑顔に、星々の薄青い影が灯る。やがてぷくりと現れた目尻の涙にも、彼女の目立つ猫のような八重歯にも、そのともしびは重なった。
「うぇっ、な、なにがおかしい!」
ひとしきり笑いの波がおさまると、影虎は腹を抑えて息をととのえ、目尻の涙を指先で拭いて葉牙助を見やった。
「お前みたいな馬鹿中の馬鹿に会ったのは初めてだ。いいぜ、その話乗ってやるよ。お前と契約してやる。江戸までお前を護ってやる」
「えっ……、ほんとか!」
葉牙助は両腕を握りしめ、笑顔で顔を近づけた。
「ただしお前に耐えられるかな。蚊や蛭に噛まれるのとは訳が違うんだからよ」
影虎は先ほどと違い、わずかにまぶたを伏せ、薄暗い笑みを浮かべた。
その凄絶さに、葉牙助はおそれを抱き、唾をごくりと飲み込んだ。だが、これを逃しては、江戸への護衛を確保できる機会を永遠に失うと本能的に感じ、首をふるりと振ると、こぶしを掲げて無理やり作った笑顔を見せた。
「お、おう! この葉牙助さまにかかればなんでもござれってんだ!」
影虎はくすりと笑うと、脱いでいた上衣をそっと着た。
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