第一章 二話 吸血刀

 青を濃く重ねたような深い夜が、あたりを静かに覆っている。その間を縫い、白い星々が水を流したように広がっていた。

 夕方は烏のざわめくような鳴き声が時折響いていたが、今は、ほう、ほうという眠りへといざなうような、ふわりとした梟の声が漂っていた。

 その澄んだ空を見つめながら、葉牙助は眠れず、大きな目を満天の星空へと向けていた。いやに冴えたそれは、澄んだ泉のように、瞳の水面へ夜をうつしていた。昼の日向の中では透明感のある琥珀色をしていたが、今は紺色である。

 組んだ腕を枕に、右のかたわらに黒い薬箱を置いて、ちいさな体を横たえている。

 左のかたわらには、幾重の羊歯の葉が重なり、赤く炎をはらんで燃えている。闇の中でひときわあかるく輝くともしびがそばにあるというのに、葉牙助の心は夜空よりも暗く落ちていた。

 焚き火のあかりに照らされ、やわらかな頬は金や赤にいろどりを変えて縁どられている。


(あ、あいつが、影虎……? どうしよう。もし本当にそうだとしたら、俺とんでもねえことしちまったんじゃねえか? 辻斬りに目ぇつけられたんじゃ……)


 葉牙助は体を横向きにした。解いていた髪が、肩先と彼の頬に触れて揺れた。

 暗い思いを封じ込めるようにまぶたを閉じ、金色に燃える火の方へ顔を向けると、まぶたの裏側にめらめらとしたほのかな熱と光を感じた。

 夜の色とひとしく溶けていく視界の中に、発光するような雪色がぼんやりと浮かび上がってくる。

 放つような光の名残に、黒髪の境と白肌の境がうっすらとさけて、やがて確かな輪郭を結んだ。

 夕方に出会った侍の横顔だった。

 葉牙助は、はっと目覚めると状態を勢いよく起こした。

 何かを掴むかのように、左手だけが伸びている。目の前には虚空しかないことを確認すると、そっと手を下ろした。

 先ほど夢で見た侍——影虎の顔を思い出し、ほのかに頬を薄紅に染めた。


「いや、待て。あいつけっこう綺麗な顔してたよな……。でもあの格好は男だよな……?」


 わずかに俯き、顎に片手を当てる。訝しむように眉を寄せると、数歩離れた黒い茂みの奥が、ざわざわと鳴った。

 葉牙助は、身を潜めていた狼が夜の闇にまぎれ、動いたのかと感じ、さっと血の気を引かし、背筋を伸ばした。茂みから体を引き離すように両手を地について尻をついたまま一、二歩と下がってゆく。

 ばさり。

 鴉が飛び立つような音がした。


「ひっ」


 葉牙助は歯を食いしばり、肩をびくりと震わせた。肩先で不揃いの茶色の髪が揺れる。

 音が静まると、一拍遅れて闇を塗り込めたような黒い影がぬらりと現れた。

 影がこちらを振り返る。

 金色のまなこが、森に潜む虎のように冴えた月のひかりをうつして、葉牙助の枯れ葉色のひとみとかち合う。

 鈴の音を溶かしたような冴えた香りがした。


「……てめえは昼間の」


 影から、低いが透き通った声が聞こえてきた。玲瓏なその声は、あきらかに嫌そうな色を滲ませている。ひとつため息をつくと、葉の影を抜けるように頭をわずかに下げてこちらへ向かってきた。

 月光が斜めからさす。

 現れたのは、漆黒の侍—自分こそが『影虎』と名乗った夕暮れに出会ったあの侍だった。

 わずかに夜の匂いをふくんだ冷たい風が吹き、彼の前髪を真横にそよ、と動かした。

 長い睫毛を持つ、閉じた丸いまぶたが、発光するように白く流れる。

 足を一歩進ませ、くっきりとした二重のまぶたをうっすらと開くと、夜空にかがやく月と同じ色をしたひとみが、黒い瞳孔を縦に細くさせ、葉牙助を静かに捉えていた。


「で、で~! 何でお前がここに!」


 葉牙助は地についていた片手を顔の前で開き、目と口を大きく開けておののいた。


「……それはこっちの台詞だ! せっかく寝やすそうな場所を見つけたってのによ。ったくめんどくせえやつに会っちまった……」


 侍—影虎は目を閉じ、溜息をついた。長いまつげを伏せた影が、すじをともなって透き通り、白い頬に落ちる。


「はー……、知るか。俺は疲れた。もう寝る」


 影虎は俯き、くらりと体を背後に巡らせると、そのまま腰を落とし、あぐらをかいて横になった。うなじでひとつにまとめた髪が地に流れ、白い首すじがあらわになっている。

 あざやかなその動きに、葉牙助は表情を停止させたままぽかんとしていた。

 やがて真横から風が吹き、彼の頬をひやりとしたものが撫でる。

 影虎は刀を腰から抜き、それを抱くと寝入ろうとするように、ひとつ深い息を吐いた。

 その吐息に合わせて、葉牙助は我を取り戻し、わなわなと肩を震わせ、立ち上がった。顔は焚き火に負けじと、秋の楓のように赤く染まる。


「ええ! ふざけんなよ、おい! 辻斬りの隣でなんざ寝れるわきゃねえじゃん!今から他の寝床探すなんざ、すげえ苦労だぜ!? どうすりゃいいんだよ!」


 大声を上げる葉牙助に、影虎は眉をかすかに寄せた。

 目を開け、ひとみだけを動かし、不機嫌に葉牙助を睨んだ。金色のひかりが、その時ひときわぎらついた。


「……うるせえ餓鬼がきだな」


 影虎は億劫そうにふたたび目を閉じた。


「確かに影虎ってのは俺の名だけどな。その辻斬りの影虎ってのは俺じゃねえぜ」


 静かにつぶやく。

 葉牙助は瞠目して身を乗り出した。


「えっ!? そうなのか!? じゃあお前の名を騙ってるやつがいるってことなのか!?」


 影虎はそっと目を開け、斜め上を見遣りながら黙したまま何か考えを巡らせていた。


「今の俺は人の血なんざ吸わせねえさ。俺が吸わせるのは……」


 言葉を言い終えないうちに、影虎の腕に抱かれていた刀のうちのひとふりが心臓音のように大きく一拍鳴った。きぃんと氷を鉄で鳴らしたような音が響く。冷えた高いその音色に、影虎のひとみは大きく見開かれた。

 影虎は葉牙助に背を向けたまま、静かに体を起こした。


「えっ、お前どうしたんだよ」


「……お前、どっか行け」


 ちいさな声だが、確かな怒りをはらんだ声だった。


「は!? 何でえ急に」


「うるせえどっか行け……! でないと……」


 影虎の体が、がくりと一度大きく震えた。前に倒れ、黒髪が揺れる。己の体を抱きしめるように、

 彼が腕に抱えていた刀が、先ほどよりも大きく一度、どくんと鳴ったのだ。


「ちィっ……!」


 影虎は白い八重歯を見せ、刀を鋭く睨んだ。


「もう時間がねえ」


 吐き捨てるようにそう言うと、上衣を勢いよく片手で開いて脱いだ。


「うげっ! 何だあ!?」


 左手の親指で鍔をおさえると、右手ですらりと刀の鞘を抜いた。

 柄や鞘とひとしい漆黒をしたなめらかな刀身が、月のひかりを受けて鈍い青のつぶを星屑のように浮かべ、しんと冴えて存在する。

 葉牙助は夜を体現したような、その刀のうつくしさに目を奪われ、虹彩を震わせていた。

 時が止まって見えていたその刀が、透きとおった紺色の残光を引いて動き出したかと思えば、その鋒は彼の白い鎖骨に当たった。沈んだ箇所に、水色の影を落とした鎖骨の肌がぷつりと裂け、すっと血が流れた。暗い夜の中、近くで燃える焚き火に照らされ、ゆらめく炎と同じ、鮮やかな血の色が目に入った。

 影虎はくちびるを軽く噛み、かすかに眉を寄せて傷つけた鎖骨を見下ろしていた。

 葉牙助は一拍遅れて何が起きたのか理解した。


(……こいつ……、自分を斬った……!?)


 影虎の鎖骨から流れる血が、漆黒の刃に伝う。なめるような青い刀身に、赤い血がひとすじの雨のように流れてゆく。

 血が柄にまで到達すると、細かなすじが刀身に浮き上がる。

 脈を打つそれを見ているうちに、葉牙助は己の全身を巡る脈が、どくん、どくんと大きくうなりを上げるのを感じた。


(刀に、血管が浮いてる……っ)


 葉牙助は顔中に汗を吹き出した。不自然に大きく開けた口は、歯がかたかたと鳴っている。震える指先を、くちもとに近づける。

 影虎は刀をそっと鎖骨から離すと、さっと血を払った。

 月光に照らされて青く光った刀身に生まれた血管が、白い月の影を宿し、やがて溶けるように消えていった。

 影虎はひとつ息を吐き、こめかみにひとすじの汗を流すと、顔を上げる。

 葉牙助と目が合った。

 葉牙助は震えて身をこわばらせる。

 影虎はそんな彼の様子をじっと見つめていると、静かにひとみを伏せた。


「……見られちまったもんは仕方ねえな」


 刀を鞘におさめ、右手で柄を握ると、葉牙助に刀身を見せるように両腕でおし抱いた。


「こいつはなあ餓鬼。人の生き血を吸って強度を増す『吸血刀』」


「人の……生き血を吸う……!?」


 葉牙助は、一連の様子を思い返していた。突然のことに目の前がくらりとする。顎に片手をあて、考えるように眉を寄せ、身を丸める。


「それは本当……だよな」


 葉牙助ははっと顔を上げて影虎を見た。恐ろしいものに対峙する子犬のように肩をいからせ、眉を吊り上げる。右脚を一歩前へ踏み出す。


「ならやっぱり辻斬りはお前で、刀の強度を上げるために人を斬ってるんじゃねえのか!?」


「だからそれは俺じゃねえよ。俺はこの刀を手にした餓鬼の時に一度暴走させて……」


 影虎は、葉牙助から目を逸らすと、瞳を揺らした。顔にうすい影を落とし、切ない表情になると、首を落として俯いた。短いため息を吐く。


「ふるさとを破滅させた。その日からもう二度と、他人の血は吸わせねえって決めてるのさ」


「破滅……」


 葉牙助は息を止めた。


「ただこいつは一日に一度血を吸わせねえとならねえ吸血衝動が起きる。鎖骨の血を吸わせたのを見ただろ。心臓に近い血ほど喜んで、ぐいぐい飲み干すのさ」


 影虎は鞘に目を落とした。ゆるく上向いた長い睫毛に、月の光をうつし、その存在を際立たせている。真横から見える白いまなこは、湖の水面のように潤んでゆるやかに震えていた。


「そうなのか……」


「こんな刀、この世にあっちゃならねえんだ。俺はこの刀をこの世から消す方法をひとりで探している」


 影虎は語尾を強めた。そして指先で鞘をたどると、刀の柄をぎゅっと力をこめて握った。


「お前……」


 葉牙助は青く発光する、真珠のように白い影虎の頬に目を落とし、視線を鎖骨に移した。

 彼の血の流れを追うと、切り傷だらけの白い体に晒しが巻かれている。端が裂けるようになっており、使われてからだいぶ時が経っていることが感じられる。

 そこに巻かれたものは、胸である。

 しかし、そこにある胸は、葉牙助が思い描いていたものとは違っていた。

 谷間があった。白い胸と胸の間に、しっかりとした影ができているほどの。


「……ん?」


 葉牙助はわずかに影虎に顔を寄せ、顔をしかめた。そしてふたたび「胸の谷間」の存在を確認すると、一拍置いて体をのけぞらせた。


「お前!! 女か!!」

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