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 飛市のことですが、彼は中一で出会った同級生です。クラスは別でしたが、保健体育の合同授業で知り合いました。

 飛市は端的にいって変わった男です。わたしと同じで友達はいませんでしたが、クラスで空気なわたしとは違って、存在を認知された上で明らかに同級生から避けられていました。

 飛市は社会性に欠けていました。それも、いわゆるコミュ障とかぼっちとか言われている類のあれではなく、躁鬱の躁の方向で社会不適合者なのです。これもまたコミュ障と言えるでしょうが。

 飛市はいつでも言いたいことを言って、やりたいことをやります。

 わたしが初めて飛市の存在を認識したときのことです。保健体育で、視聴覚室で喫煙の危険性を訴える映像を見て、感想文を提出するという授業でした。

 わたしはその頃夜な夜な父の母への暴力を聞いて、父を殺す妄想に明け暮れていましたから、慢性的な寝不足でした。明るい教室では耐えられても、映像視聴のため暗くした視聴覚室では限界を迎えました。冒頭の数分を見て、小学生のときにも同じようなものを見たなと思い出し、さっさとそれらしい感想文をでっち上げ、わたしは早々に机に突っ伏しました。

 視聴覚室は広く、二クラス合同で人数も多いのでばれないと思っていましたが、いつの間にか保健体育の教師がわたしの前に立っていて、肩を揺さぶっていました。

 わたしが起きると教師はまだ映像は終わっていないというのに、その場でそこそこの声量で説教を始めました。わたしの周りの生徒たちは迷惑そうにちらちらわたしを見やりました。騒がしくしているのは俺ではなく教師の方だろうとわたしは不満に思いましたが、もちろんそんなこと口に出して言いません。

 教師の説教、とりわけ教室内の全員を巻き込んでいる場合、怒られている者はうつむき反省している素振りを見せ、嵐をやり過ごすのが定石です。反抗や反論は説教を長引かせるだけだからです。

 しかし飛市は声を上げました。

 「ちょっと先生、うるさいんですけどー」

 と、辛うじて敬語ではありましたが、同級生をからかうような軽い調子で、しかもわたしは後ろの方の席、飛市は一番前の席に座っていたので飛市の声は教師の声よりずっと大きく視聴覚室内に響き渡りました。

 スクリーンにはタバコを吸いすぎて口腔が使い物にならなくなったにも関わらず、ニコチン中毒から逃れられず、喉に直接穴を開けて喫煙を続ける女性のグロテスクな映像が流れていました。飛市はそのシーンが気に入っていたのでした。それなのに教師が説教を初めて邪魔されたように感じた、と飛市は後にわたしに語ります。

 そういう経緯でわたしは飛市を知りました。


 飛市がわたしを知ったのは、それから数日後のことです。

 わたしや飛市を含めた大勢の帰宅部の生徒が正門をくぐって下校しようとしたとき、目の前の道路で犬が轢かれました。

 犬は小型犬サイズで、バンパーに衝突してふっとばされるということはなく、ただタイヤの下敷きになって潰れました。轢いた車はそのまま過ぎ去って行きました。何かを踏んだことは分かっても、生物を踏んで命を奪ったことまではおそらく自覚していなかったのでしょう。

 生徒たちの反応はまちまちでした。

 そもそも気付いていない者、気付いても気にしていない者、あえて無視している者、友達同士と「ぐろい」「どうしよう」「先生呼ぶ?」とその場に留まり話し合っている者。

 スマホを掲げて写真を撮る者がいなかったのは、中学がスマホ持ち込み禁止だったからでしょうか。それとも事故現場を撮影したがる野次馬とはフィクションで植え付けられたイメージで、現実にはそんなにいないのでしょうか。

 飛市は生徒たちの中から躊躇なく車道へ飛び出しました。そして首を手で掴んで持ち上げました。

 するとぷらんと犬の下半身が背骨その他神経や内臓に引きずられるようにして持ち上がりました。犬は真っ二つ寸前まで負傷していたのでした。

 流石に周囲から悲鳴が上がりました。飛市は呑気に「おおっと」というような感じで、犬の内臓がこぼれ落ちないように犬の体…上半身を平行に支えました。

 「あのー誰か、手伝ってくれませんかー」

 と飛市はやはり軽い調子で声を上げました。誰も動きませんでした。見て見ぬ振りして去ろうとしていた連中も足を止めました。

 「あのー、誰かビニール袋とか…」

 と飛市が言った時、ビニール袋は持っていませんでしたが、わたしも車道へ飛び出しました。

 「ビニール袋は?」

 「ない」

 「ないの?」

 「運ぶぞ、お前、そっち持てよ」

 「うん」

 飛市は自分で手助けを求めたにも関わらず、わたしの登場にやや面食らった様子でした。飛市は頭を、わたしは尻の方を持って運ぼうとしましたが、そもそも小型犬一匹など二人で運ばねばならない重さではありませんでした。二人で運ぼうとするとかえって、内臓をこぼしてしまう態勢になってしまいました。「この人何しに来たんだろう?」と言わんばかりの視線を飛市は寄越しました。

 わたしは人助けを趣味ともしておらず、視聴覚室での一件で飛市に恩を感じていたわけでもありませんでした。

 わたしを惹きつけたのは、小さな肉塊と化した命と、無限に湧き出ると錯覚するほどコンクリートに広がる血でした。なんと言っても、その頃わたしは父を殺そうとしていたのです。頭の中のバイオレンスの一部が現実となり、手を伸ばそうとするのは無理もない話です。

 死にたての犬はまだ温かく、毛は野良犬にしてはさらさらしているなと思っていると、犬が首輪をしていることに気付きました。犬は野良犬ではなく飼い犬でした。あたりを見回しましたが、飼い主らしき人物は見当たりませんでした。

 結局わたしたちは二人でうまく持ち運ぶことができず、車にクラクションを鳴らされてしまい、飛市は内臓が溢れるのも背骨が折れるのも構わず犬を抱き上げ、歩道へ走って戻りました。わたしはその後をただついていきました。

 それからわたしたちは校舎裏の花壇のそばに、犬を埋葬しました。騒動を聞きつけた教師がやってきた時には犬はすでに土の中で、飛市の制服は犬の血と内臓で酷い有様になっていて、教師はあんぐりと口を開けていました。

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