第289話 交わす酒杯
よく分からない状況になった。
与えられた客室の中で、ザークショットとデリスさんが向かい合って座っている。
領主の2人の他は、部屋にいるのはオレだけ。
デリスさんと一対一で話がしたい、というザークショットの言葉をデリスさんが受け入れ、部下の人たちは部屋から退室させている。
オレは当事者であり護衛ということで無理やり残った。
デリスさんに何かあっては、戻ってからみんなに顔向けできない。
静かに気合を入れ、オレはデリスさんの後ろでいつでも動けるように立つ。
目の前で、ザークショットは布張りの椅子に身を沈めてふてぶてしく笑った。
「交渉の時刻を前倒しにさせてもらってすまんな」
「予定では、交渉は明日の朝であったはずだが?」
デリスさんも澄ました顔で返した。
「くく、時間通りに始めたら
「ジュリア殿か……」
デリスさんが小さく呻いた。思い出している内容はオレと同じだろう。
屋内での大洪水。あの光景を見るのは人生で一度あればいい。
「そういう訳だ。邪魔が入らないうちに腹を割って話そうじゃねえか」
そう言ってザークショットは両膝に両手をついて姿勢を正し――
「まずは、我が領の愚行を謝罪する。すまなかった」
――深々と頭を下げた。デリスさんは無言でそれを見ている。
ザークショットが顔を上げた。心から申し訳ないと思っているような、そんな記号を張り付けた表情だ。
「もちろん謝罪の言葉だけで済ませるつもりはない。謝罪の証として、我が領は貴殿の下につこう」
実質的に属領となることを認める発言だ。領地が増えるとなれば普通の貴族なら大喜びしそうだが……。
デリスさんは感情のない言葉で切り捨てる。
「いや、ザークショット殿、確かに当家で管理する魔境でいくらか魔物の混乱はあった。しかし、被害と呼べるものは一切出ていない。此度はその謝罪の言葉だけで十分だとも」
「ありがたい言葉だ。だが、対応を誤っていれば領地が壊滅してもおかしくなかったはず。特級の魔物というのはそういう災害だ。謝罪の言葉だけで済ませてよいはずがない」
「出ていない被害で罪を問うては、いかなる者でも仮定で罪人にできてしまう。そのような無法を許してはならぬだろうさ」
白々しい2人のやり取りが続く。
起死回生の一手を狙うザークショットと、関わりを断ちたいデリスさん。
オレなら「知らん」と一言で席を外したくなるところだが……デリスさんは歴史ある貴族の末席に並ぶ人物だ。
外聞というものがある。貴族として恥じることなく、民を守る存在でなければならない。
反対に、同じ貴族でもザークショットに失うものはない。いや……このままで何もかも失われるからこそ、なりふり構わない姿勢だ。
デリスさんのディシールド領は初代皇帝の時代から国に仕えている家であり、皇室との関係も深い。
ディシールド領に頼ることができれば、周囲の貴族たちに食い散らかさせるよりはマシな未来を得ることは可能だろう。
……まあ、それはザークショット側の理屈。受け入れた場合、デリスさんが背負い込むのは苦労ばかり。
2人の交渉は当然のように平行線で進む。膠着した雰囲気を変えるように、ザークショットが持って来た酒杯をテーブルに並べた。
そのまま手ずから酒を注ぐ。
謝罪の演技は辞めたのか、ザークショットの表情は最初のふてぶてしいものに戻った。
「堅物だな、貴様は。崖っぷちの領地とはいえ、手に入れれば稼ぐ手段はいくらでも思い付くだろうに」
唇を歪ませるように笑いながら、ザークショットは酒杯をデリスさんに押し出す。
「その手段を取れる当家ではないと、貴殿も分かっているだろう」
「くくく、歴史ある貴族様はご苦労なことだ。――ああ、毒見はするか?」
ザークショットがオレを見る。こちらを試すような目付きだ。
「もちろんです」
デリスさんの背後から動き、テーブルに寄る。ザークショットから見えないように『毒見』の魔道具を起動。
デリスさんに渡された酒杯を調べる。……異常なし。酒そのものにも酒杯にも毒はない。
「大丈夫ですよ」
デリスさんは小さく頷いた。オレは再びデリスさんの背後へと戻る。
オレが定位置に戻ったことを確認し、ザークショットは自らの酒杯を掲げた。
――微かな違和感が悪寒のように背中を撫でる。
「互いの領地の未来に」
ザークショットがうたう。
違和感の正体は不明。だけど勘に従って全身の魔力を回した。身体強化を全開に。オレは何に疑問を覚えた?
酒杯が口元に運ばれる。
――オレの、酒を口にしない毒見、という一見して奇妙な行為に、一切言及がなかったのは何故? ザークショットはどうして会話を厭った?
まるで、もう話すことはないかのように……ッ。
思い付いたと同時に床を蹴った。横へ一歩ステップ。前へ跳ぶ。
そして、酒杯を傾けようとした腕を掴んで止めた。腕を掴まれたザークショットが苦笑する。
「おい、なんで分かった」
無視。ザークショットの酒杯に対して『毒見』の魔道具を起動。――反応あり。致死の毒が酒杯に塗られていた。
「っち、シェルブルス家の当主は“魔寄せの香”を使った罪を償うために自害。領地は被害を被ったディシールド家が引き受ける、ってのが脚本だったんだがな」
ザークショットが酒杯を手放した。落下するそれを掴み、『防壁』の結界の中に叩き込む。
……無性に腹が立った。へらへらと笑うザークショットを殴り飛ばしたくなる。
領地と領民のために命を捧げる。それは貴族として正しいのかもしれない。
誤った手段で巨大化した歪みを正すために当主が命を絶ち、領民たちの生活が守られるなら、その判断には正当性があるのかもしれない。
だけど、その正しさが心の底から気に入らない!
ザークショットは海賊領と呼ばれる領地の当主で、決して善人ではない。
それでも! 娘のジュリアは、ザークショットに死んで欲しくないと願っている。あの大洪水は死を選ぶ父親への反抗だった。
娘に生きていて欲しいと思われながら、父親が死のうとするんじゃねえよ!!
ああ、気に入らない。気に入らねえ。
「デリスさん」
「何かな?」
「護衛、ちょっと辞めます」
社会人としてあり得ないオレの言葉を聞いて、デリスさんは微かに笑みを浮かべた。酒杯を傾け、細い喉が動く。
「――うん、いいよ。やっぱり君の器は、私の手には余る」
「ありがとうございます。この借りは後で返します」
義兄に頭を下げ、オレは2人の顔が見える席に腰を下ろした。
口を出すのは後にするつもりだったが、予定変更だ。今からオレも参戦する。
色々と吹っ切れたのか、ザークショットは喜色と狂暴性を隠すことなくオレを睨む。
「領主同士の交渉に首を挟もうなんて、大したことを考えるじゃねえか。よう、俺の計画を台無しにしてくれたテメエは何者だ?」
分かっている答えを聞くような、楽しそうな笑みだ。
確かにそういえば、ここでは護衛として振る舞っていたのでザークショットに名乗ってはいない。
オレは何者か。
「――コーサク。自由貿易都市の魔道具職人で農場経営者。それとアンタが暴れさせた特級の魔物を追い返した元冒険者で……可愛い娘がいる父親ですよ」
オレの自己紹介にザークショットは盛大に声を上げて笑う。そして、そのままの勢いで酒瓶を持ち上げ、直接口につけて行儀悪く喉に流し込んだ。
酒瓶を下ろし、ザークショットは乱暴に口元を拭う。
「それで、テメエがこの領地の何に口を出せるって?」
殺気混じりの視線を受け止め、笑みをつけて睨み返す。
目の前の男は、オレの一番大事な娘を奪おうとした敵だ。その敵を助けるために、オレは今から厄介事に首を突っ込もうとしている。
自分のおかしな行動と、明らかな面倒な交渉を前に、自然と頬が吊り上がった。まあ、いい。
今日出会った領民たちと、父親を想うジュリア、ついでに美味しかった海の幸に免じて、気に入らない男だけど手を貸してやる。
誰かが泣いているんじゃ、明日のご飯は美味しくない。
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