第270話 思い出語り1

 春の花々で鮮やかに色付く庭園。流れるそよ風が小さな花弁たちを楽しそうに揺らしていた。

 柔らかな日が降り注ぐ様子は平和そのものだ。


 その穏やかな庭園に小さな音が響く。


 音の出所は庭園に接する屋敷。花々を見下ろせるように設計された窓の一つが、ゆっくりと開いた。


 窓の向こう、部屋の中からそ~っと顔を出したのは、7つほどの年頃の少女だった。

 庭園が無人であることを確かめるように、眼下に慎重に視線を走らせている。そのたびに、赤みのある長い金髪がさらさらと揺れていた。


「……うん。大丈夫」


 誰もいないことに安心した様子の少女が、窓枠に小さな足をかけて立ち上がる。

 庭園からは少女の全身が見えるようになった。


 動きやすそうな、ただ高価であることが分かる装い。腰には子供用と思われる小さな木剣を差している。


 少女の部屋は2階。しかし少女は怖がる様子もなく、ぴょんと軽く窓から身を躍らせた。


 小さな体が落下する。


 落下の最中で、少女の体に不可視の魔力が巡った。貴族の証である膨大な魔力が、少女の肉体を強靭に変える。


 地面が近づく。


 とす、と膝で衝撃を和らげ、少女はほとんど音もなく着地した。


 それから背後を振り返り、屋敷の静寂が続いていることに満足そうに頷く。

 顔と体を前に戻し、少女は走り始める。少女の目的地には庭園を横断して行くのが一番の近道だった。


 季節の花が咲く花壇の横を通り抜け、綺麗に切り揃えられた葉を持つ木々の間を潜る――途中で、少女は落ち着いた少年の声に呼び止められた。


「――ロゼッタ。また習い事から抜け出して来たのかい?」


「……デリスお兄様?」


 少女は声がした場所を探して辺りを見渡し、近くにあった木の向こうを覗き込んだ。


「やあ」


 そこには10つほどの少年が、木に背を預けて座っていた。立てた両膝の上には読みかけの本が開かれている。


 少女――ロゼッタの兄である少年は、困ったような微笑みで妹を諭す。


「今日は確か歴史の勉強だっただろう? ちゃんと学ばなければいけないよ」


 兄の柔らかいお叱りに、ロゼッタは小さく口先を尖らせる。


「……ちゃんと終わらせてきたもん」


「“ちゃんと”終わらせてきたのかな?」


「むう……」


 痛いところを突かれたようにロゼッタは唸る。


 ロゼッタは出された課題を確かに終わらせてから抜けて来た。ただ、それは適当に解答を埋めてきただけに過ぎない。

 ただの言い訳作りの行動である。

 産まれたときから知っている兄には、すっかり見通されているようだ。


 不利を悟ったロゼッタは逃げるように話を変えた。


「お兄様こそ、どうしてここにいるの? お勉強は?」


「僕の今日の勉強は、この本を読んで感想を話すことだよ。だから今も勉強中なんだ。本を読むのはどこでもいいと許可ももらったからね」


「わたしは部屋の中から出られないのに、お兄様だけずるいわ」


 頬を膨らませる妹に、兄は微笑む。


「ははは、ずるくはないと思うよ。ロゼッタも大人しく習い事をしていれば、そううるさく言われないさ」


「……わたしはもっと剣の練習をしたいのに」


 ロゼッタは無意識に木剣の柄を撫でる。小さな白い手には、既に不釣り合いな剣ダコがいくつもあった。


「それで今日も抜け出して来たのかい。行き先はお爺様のところかな?」


「うん。兵のみんなと一緒に練習をさせてもらえるの!」


 一転して満面の笑みを浮かべるロゼッタに、兄のデリスは苦笑する。母や使用人のモリーはロゼッタが鍛えることに反対のようだったが、ロゼッタはやる気に満ちている。

 そして周囲が驚くような才能もあった。歳の差がありながら、剣の試合ではデリスは引き分けに持ち込むのが精一杯なほどだ。


「……僕は止めないけれど、お母様やモリーを心配させてはいけないよ?」


「大丈夫。ちゃんと手紙は残してきたから!」


 幼い娘、それも領地を治める当主の娘が、一人で出歩くこと自体が危険なことではある。

 ただ、それが問題にならない程に、辺境にあるこの土地は平和だった。


 領地の特徴といえば隣接する魔境くらいのものであり、屈強な兵士が多いおかげで盗賊や人攫いなども寄り付かない。


 加えてデリスは次期当主として魔境の動向も常に教えられていた。ここ数ヶ月は魔物たちも荒れておらず、ロゼッタの一人歩きに危険がないことを知っている。


「それなら、僕から言うことはないかな。あとはお爺様たちの判断に任せるよ。いってらっしゃい、ロゼッタ。頑張って」


「うん! いってきます! お兄様もお勉強がんばって!」


 豊かな髪と木剣を揺らし、ロゼッタは再び走り出す。

 跳ねるように進んでいく妹の後ろ姿を、デリスは今日も泥だらけで帰って来て叱られるだろうなあ、と思いながら見送った。




 ロゼッタが住む町の外れには兵士たちの宿舎がある。敷地内には広い訓練場も併設されていた。


 野太い声と剣同士のぶつかる音、地面を踏む足音で騒がしい訓練場へと、ロゼッタは飛ぶような勢いで足を踏み入れる。


 ロゼッタの姿に気が付いた兵士たちに手を振り、目当ての人物を探す。

 労することもなく見つかった。


 訓練場の中央で、1人の老人が兵士5人を相手に立ち回っている。

 巨木のように存在感のある老人だった。

 筋肉は衰えたのか細身だが、眼光の鋭さは健在だ。剣を握る腕には、皺よりも傷跡がよく目立つ。


 離れたロゼッタの耳まで、しわがれた大声が届いた。


「攻撃を止めるな! 動きを止めるな! 魔物は隙を見せた場所から食い破るぞ! ――背後から狙いたければ殺気を隠せ!」


 刃を潰しただけの大剣が、背後にいた兵士を振り向きざまに吹き飛ばす。

 飛ばされた兵士は地面を転がりながら受け身を取り、すぐに戦闘へと戻った。身を低く、老人の足を狙い始める。


「うむ、よいぞ! 正面から勝てぬのであれば足を削れ!」


 上段と下段の攻撃を軽々と躱しながら、老人は機嫌よく叫ぶ。


 余裕を見せる老人と必死な様子の兵士5人。両者の戦いは均衡していた。だが、老人と若い兵士では体力に差がある。


 魔物役の老人に、兵士たちが持久戦で粘り勝つのは不可能ではなかった。


 老人が、両手を握り締めて戦闘を見つめるロゼッタに気付くまでは。


「ふむ。ロゼッタが来ていたか」


 老人――ロゼッタの祖父で前当主であるデミクロスは、戦闘中にも関わらず好々爺のように穏やかに笑った。


 反対に、その表情を見た兵士たちは顔を引き攣らせる。


 直後。


「では、良いところを見せねばな――」


 暴風のようにデミクロスの剣が荒れ狂う。剣の軌道は全て兵士の武器を叩くもの。桁外れな膂力で剣を叩き込まれた兵士たちは、一人残らず地面を転がることになった。


「うむ。仕舞いだ。もう少し連携が課題だな。個人の練度と共に鍛えよ。以上だ」


 兵士たちは痛む体を引き摺りながら起き上がり、乱れることなく礼をした。そして休憩するのかと思いきや、訓練場の外周へ移動し走り始める。


 その様子を満足そうに見送って、デミクロスはロゼッタへと視線を向けた。手招きする。


「お爺様! 恰好よかったです!」


「うむ、そうかそうか」


 走って来たロゼッタの言葉を聞いて、デミクロスはだらしなく相貌を崩した。


 ディシールド領の前当主。数十年間に渡り最前線で領地を守るために戦ってきた英傑も、孫娘の前ではただの祖父だった。


「今日も訓練に参加しに来たのだな?」


「はい! よろしくお願いします!」


「うむ。分かった。ロザリーとモリーには儂から言っておこう」


 ついでに孫には甘々だった。


「それではロゼッタ。まずは走るところからだ」


「はい」


 尊敬する祖父の言葉を、ロゼッタは背筋を正して聞く。


「戦う者は走らねばならない。戦い赴くために走り、戦いの中で走り、伝令のために走り、撤退のために走る。剣がいくら上手くとも、走れぬ者は生き残れぬ。だから何はともあれ走るところからだ。儂が良いと言うまで走れ。剣を振るのはそれからだ。よいな、ロゼッタ」


「はい!」


 実感の籠った祖父の指示を素直に聞き、ロゼッタは他の兵士たちに混じって走り始める。


 純粋な筋肉量は兵士たちに敵いようがないが、恵まれた魔力のおかげで走る速度はそう変わらない。


 兵士たちは全員がロゼッタの顔見知りであり、時折互いに励ましながら走り続けた。


 訓練場を何周したかも分からない頃に、ようやくデミクロスから声がかかり、実際に剣を使う訓練に入る。

 他の兵士たちと同様の厳しい訓練だ。


「苦しいときこそ型を崩すな! 振り抜け! 生きるか死ぬかの分かれ目で手を抜く余裕などないぞ!」


 叱責の声を浴びながら、ロゼッタは必死に剣を振る。


 領民を守る祖父への憧れは、辛い訓練よりも強く眩いものだった。




 訓練を終え、ロゼッタはデミクロスと共に帰宅した。全身は激しく汚れ、美しい金髪も土と埃で見る影もない。


 デミクロスの一声のおかげで習い事から逃げた件のお叱りは減ったが、それでも使用人のモリーにはたくさん小言をもらうことになった。


「まったくお嬢様は! お顔も御髪もこんなに泥だらけにしてどうするのですか!」


「だって、剣のお稽古だもの……」


 風呂場でモリーに髪を洗われながら、ロゼッタは小言に反論する。

 モリーに口で勝てないことは経験上理解していたが、逃げられない状態でひたすら小言をもらうのは辛いのだ。


「だって、ではありませんよ。お嬢様には剣よりも大切な習い事があるのですからね」


「たとえば?」


「立派な奥様になるための習い事です。今日の歴史のお勉強も、お嬢様が苦手な刺繍も料理も、将来お嬢様がお嫁に行くために必要なものなのですよ?」


 お嫁。結婚。今のロゼッタには全く想像のつかない言葉だった。


「……わたしはお爺様みたいに、自分でみんなを守りたいのに」


 頭の上から流されるお湯に目を瞑り、ロゼッタは小さく呟いた。


「戦って守るのが兵士の役目。兵士が戦えるように整えるのが領主の方々のお役目です。自分の役目を見誤ってはなりませんよ」


 髪を洗い終えたモリーがロゼッタの手を取る。声が少し沈んだ。


「私はお嬢様が剣の稽古をするのは反対です。せっかくの綺麗な手を、こんなに硬くしてしまって……」


「わたしはお爺様みたいな手は好きだよ。安心する」


「先代様は殿方だから良いのです。お嬢様は女性なのですよ。世の中には『君の手は頑張り屋の手だね』なんて、甘いことを言ってくれる殿方ばかりではないのですからね!」


 モリーの迫力にロゼッタは少し仰け反った。

 過去に何かあったのかもしれない。触れない方が良いと、短い人生での経験が告げている。


 黙ってモリーの小言を聞き流しながら、ロゼッタは自分の両手に視線を落とした。


 兄のデリスよりも硬い手。血豆だらけの手。モリーはああ言ったが、頑張った証のようで自分では気に入っていた。


 だからもし結婚なんてものをするのであれば、戦うことを受け入れてくれ人がいいなあと、そう思った。

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