第246話 日常への帰還

 朝から精神的に重かった仕事を終え、家の前まで戻って来た。オレの気分は浮かないが、見上げた空は見事な晴れ模様だ。屋外での食事にはぴったりだろう。


「……気分を切り替えよう」


 家への帰り道の中、ずっとスパイに対する選択が正しかったのかを考えていた。おかげで心が少し陰鬱だ。これは良くない。


「よしっ」


 頬を軽く叩き、深呼吸。夏の空気を吸い込み、暗い気分を吐き出す。美味しいマグロ料理のことを考えよう。リーゼに情けない顔を見せられない。


 過ぎたものは仕方ない。思考は未来に対して使うべきだ。


 気持ちを前向きに切り替え、玄関の扉を開ける。


 扉の向こうでは、リーゼを抱いたロゼが、オレを出迎えるように立っていた。タローがオレの帰宅を知らせたのだろう。

 当のタローはロゼの足元にいる。エルとルカの姉弟も、タローの反対側にいた。


「パパ、おかえり~!」


 リーゼの明るい声が胸に染みる。


「コウ、おかえり。料理の準備は出来ているぞ」


 ロゼが優しく微笑む。うちの奥さんはオレが仕事を失敗せず、遅れることもなく帰って来ると信じていてくれたらしい。その信頼を感じて、自然と頬が緩んだ。


「ただいま。ありがとう、ロゼ。助かったよ」


 料理の準備云々よりも、こうして待っていてくれることが何より嬉しい。


「お兄さん、おかえりなさい」


「おかえりなさい」


 エルとルカも、すっかり家に馴染んだ様子だ。


「うん、ただいま」


 するりと近づいて来たタローの頭も撫でておく。いつも通りの柔らかな毛の感触が指を通った。


 帰って来た、という実感に、心が緩むのが分かる。余計な力が抜けた感覚だ。心が軽くなり、ついでに少し空腹も感じ始めた。安心するとお腹が空くらしい。


 マグロ料理は、きっと美味しく感じることだろう。


 笑みのまま、目の前に立つロゼを見る。


「さて、それじゃあ、美味しいご飯を作りに行こうか」


 楽しい楽しい、マグロ尽くしのパーティーだ。





 マグロ入りの木箱と他の食材、調理器具を持って家を出て、道行く人に二度見されながら孤児院へ到着した。


 そのまま中庭へと向かうと、子供達がテーブルや椅子を運んでいる姿が見えた。向こうもこちらに気付く。


「あっ、リーゼちゃんだー!」

「ほんとだ!」

「タロー!」


 リーゼとタローが人気だ。子供達はぶんぶんと手を振って来る。いつも遊んでもらっているリーゼも、ロゼに抱かれたまま元気よく手を振り返した。


「えへへ~!」


 笑い声を上げながら、リーゼがロゼの腕から抜けようとする。


「こら、リーゼ。みんなお手伝いの最中だから、邪魔してはダメだぞ?」


「むう~」


 柔らかい頬がぷくりと膨れた。見事な不満顔だ。


「ふふふ。もう少し我慢していれば、パパが美味しい料理を作ってくれるからな」


 言いながら、ロゼがリーゼの頬を指先で軽く突く。ぽふっ、と、リーゼの唇から間抜けな音が鳴った。ちょっと楽しそう。


「お! コーサクさん、いらっしゃいっす!」


 中庭の入り口で止まっていたオレ達のところに、リックが手を挙げながら近づいてくる。


「ああ、リック。今日もお世話になるよ。よろしく」


「いえいえっす。海の魚が食べられるってことで、みんな期待した待ってたっすよ。自分も楽しみっす!」


 最近精悍になって来たとはいえ、まだ十代の若者であるリックは食欲が旺盛らしい。良いことだ。


「はは。頑張って美味しいものを作るよ。アリシアさんは?」


「中にいるっすよ。入ればすぐ分かると思うっす。それでコーサクさん。この子達が家に泊まってる姉弟っすか?」


 リックが人の良さそうな笑みを浮かべながら、エルとルカを見る。2人を連れて来ることは、事前に孤児院側に話を通している。


「うん。姉のエルと、弟のルカだよ」


「エルです! よろしくお願いします!」


「ルカ……お願いします」


「自分はリック。よろしく2人とも。ここのみんなと仲良くしてくれると嬉しいよ」


 屈んで2人と目線を合わせながら、リックが自己紹介をした。さすが、年下と話すのは慣れている感じだ。オレに向けるのとは違う話し方には違和感がすごいけど。


 まあともかく、優しそうなリックの様子に2人の緊張も少し和らいだらしい。後でお礼を言っておこう。


「さて、じゃあ先にアリシアさんに挨拶してくるよ。荷物はここに置いていい?」


「どうぞっす!」


 ありがたく荷物を置いて、孤児院の建物へと入る。リックが言っていた通り、アリシアさんはすぐに見つかった。


「アリシアさん、こんにちは」


「あら、もう来てたのね。いらっしゃい。今日はよろしくね」


「こちらこそ。よろしくお願いします」


「お世話になります」


 夫婦揃って頭を下げる。今日に限らず、アリシアさんにはお世話になりっぱなしだ。


「うふふ。2人には色々と助けてもらっているから、あまり気にしなくてもいいのよ。あまり固いと、リーゼちゃんも困っちゃうわ。ねえ? リーゼちゃんも、こんにちは」


「? こんにちは~」


 良く分かっていなそうな顔で、リーゼはオウム返しに挨拶をする。


「うふふ、いい子ね。それから、エルちゃんとルカくんで良かったかしら」


 アリシアさんが膝を折って2人に目線を合わせる。リックと同じ行動だ。血の繋がりはなくとも親子である。


「あ、あの、エルです。よろしくお願いします」


「ルカ、です……お願い……します」


 アリシアさんの溢れ出る母性に、エルとルカが少し恥ずかしそうに挨拶をした。


「私はこの家の管理をしているアリシアよ。気軽にお姉さんと呼んでね? 2人とも、今日はゆっくりして行きなさい」


「は、はい!」


「はい……」


 お姉さんは無理があるんじゃないかなー、というツッコミは、もとろん口にはしなかった。実際、アリシアさんはかなり若く見えるし。うん。余裕余裕。


「……お母さん。お姉さんなんて歳じゃないでしょう……」


 いや、ツッコミを入れる人間はいたようだ。アリシアさんの実の娘であるイルシアが、呆れた顔をしながら近づいてくる。


「コーサクさん、ロゼッタさんこんにちは」


「やあ。こんにちは」


「うむ。こんにちは、イルシア」


 オレ達2人に挨拶してから、イルシアはリーゼへと視線を向けて微笑む。


「リーゼちゃんもこんにちは。今日も可愛いね」


「こんにちは~!」


 リーゼも褒められてご機嫌だ。


「エルちゃんとルカくんははじめまして。イルシアです。よろしくね。お母さんのことは、無理にお姉さんって呼ばなくていいからね?」


「えと、あの、エルです。よろしくお願いします」


「ルカ……」


 エルは目を泳がせながら応え、ルカは困ったように自分の名前だけを言った。ルカの方は挨拶だらけで疲れて来てるな。リーゼと違って人見知りだ。


「まったくシアったら、酷いことを言うわね」


 自分の頬に手を当て、アリシアさんはとても心外だ。という風に娘を見る。


「子供ができたら、お祖母ちゃんって呼ばれることになるんだから、それまでは若い気分を味わいたいじゃない」


「な……っ!?」


 アリシアさんの返しに、イルシアが一瞬で顔を赤くした。


 そういえば、イルシアはリックと結婚を前提に付き合っている。リックは最速の運び屋としてけっこう稼いでいるはずなので、残る壁は父親のギルバートさんを説得するのみだ。


 うむ。ウェディングケーキの開発に手を付けるべきかもしれない。重量を分散させる方法を考えないとな。


「それは今いいから! コーサクさん! ロゼッタさん! 調理台の準備は終わったので、そっちに行きましょう! 早く!」


 体全体で恥ずかしさを表現しながら、イルシアがオレ達の背中を押す。その表情には微かに嬉しさというか、幸福感が混じっているように見えるのだが……リーゼも、いつかはこんな表情をオレ達に見せるようになるのだろうか。


 ……いや、まずはオレと戦ってもらわないと、リーゼは渡さないし。


「ふふふっ」


「ん、ロゼ。どうかした?」


 隣を見れば、ロゼはおかしそうに笑っていた。


「いや、なんでもない。ふふ」


「そう……?」


 何でも無くはなさそうだけど。笑われているのはオレか、それとも赤い顔をしたイルシアか。ロゼはこの間の女子会でアリシアさんと一緒だったはずだし、何かイルシアの話を聞いていたのかもしれない。


「コウ」


「ん?」


 中庭へと歩きながら、ロゼがオレの名前を呼ぶ。こちらを向いた顔は、なんだか機嫌が良さそうだ。


「美味しい料理を楽しみにしている」


 これからオレが料理をする間、ロゼはリーゼと一緒に待機だ。火とか使って危ないからな。さすがに好奇心旺盛なリーゼから目を離す訳にはいかない。

 オレとしては、食材の下拵えを手伝ってくれただけで十分助かっている。


 そして、奥さんから楽しみにしていると言われたら、気合を入れるしかないだろう。


「もちろん。食べ過ぎちゃうくらいに美味しく作るよ」


「ふふ。それは少し困るな」


 2人で笑い合う。さて、ちょっと頑張るか。

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