第197話 春のはじまり
季節は春。気温も上がり、貿易都市周辺はすっかり陽気に包まれている。
出来たばかりの田んぼの周りでも、春らしく緑が起き上がっていた。
そして、そんな田んぼでは現在、人々が騒がしく行動している。
「こっちの水門も開けます!」
「分かった。ゆっくりなあ!」
「こっちはもう来たぞー!」
今は田んぼに水を張っている最中なのだ。これで、ようやく水田での稲作を始められる。
作業を行っているのは、レイモンドさんが連れてきた農家の方々だ。稲作を行ってもらう人達になる。その内訳は、畑を継げない農家の三男や四男などだ。若い人が多い。一番年上の人でもオレと同い年だ。
オレ1人では人材を集めることは出来なかっただろう。リューリック商会には感謝だ。この恩は、結果で示すとしよう。
そのためにも、ちゃんと仕事をしようか。
「コーサクさーん! そっち閉めてくださーい!」
「はーい! 閉めまーす!」
指示の通りに水門を閉めていく。まだ新しい水門は、なんの引っ掛かりもなく動いた。ドッ、と水路の底まで門が落ちる。これでよし、と。
顔を上げれば、見える範囲はほとんど水が張られていた。何も植えられていない水面が、空の青を綺麗に映している。
水張りが終わったら、次は田んぼを耕す工程だ。それが終われば、今日の作業は終了だな。後は数日おいて、田植えの開始である。
翌日。家で魔道具職人としての仕事を終えて休憩していると、リーゼと遊んでいたタローがピクリと反応した。来客らしい。
タローはしきりにロゼの方を注目している。もしかして……?
「タロー。もしかしてロザリーさん?」
「む……?」
オレの質問へ肯定するように、タローが尻尾を振った。リーゼがその尻尾をなんとか掴もうと手を伸ばしている。
ロザリーさんは、帝都でのパーティーのために帰宅して以来、まだ戻ってきていなかった。「春には帰ってくる」と言っていたので、ちょうど着いたのだろう。
「そうみたいだね。ロゼ、みんなでお出迎えしようか」
「うむ、そうだな。リーゼ、おいで。お婆様が帰ってきたぞ」
キョトンとした顔のリーゼを、ロゼが抱き上げる。タローが先導するように、スルリと歩き出した。
オレ達がタローの後を追って玄関へ着くのと、ノックの音が鳴ったのは同時だった。
「はーい! 今開けます!」
玄関の扉を開ける。そこにいたのは、予想通りの人物だった。
「久しぶりね。みんな元気だった?」
ロゼと良く似た顔のロザリーさんが、去年と変わらずに立っている。相変わらず孫がいる年齢の女性には見えないので、オレの目は節穴なんだと思う。
ロザリーさんの背後には、影のように気配を消したミザさんが立っていた。こちらも変わりはないようだ。
「何事もなく元気ですよ。どうぞ」
身を引いて、2人を中へ招き入れる。玄関へ入ると、リーゼの姿を見つけたロザリーさんが満面の笑みになった。
「リーゼちゃん、大きくなったわねえ! 元気だったかしら?」
「あ~」
ちゃんとロザリーさんの顔を覚えていたのか、リーゼは嬉しそうに手を伸ばす。
「ふふ、お母様、リーゼは元気ですよ。最近はつかまり立ちができるようになりました」
「まあ、そうなの? すごいわねえ、リーゼちゃん」
ロゼも久しぶりの貴族口調で、嬉しそうにロザリーさんと会話をしている。こちらも久しぶりに家族に会えて嬉しいようだ。その姿にオレも嬉しい。
ロザリーさんは目尻を下げて、去年よりも成長したリーゼを見つめている。その手がうずうずと動いているのは、リーゼを抱きしめたいからだろう。だが、旅をして来たばかりの自分の恰好を気にして手を出せないようだ。
先に、旅の汚れを落としてもらおうか。
「ロザリーさん、ミザさん、長旅お疲れ様でした。お風呂沸かしますね。どうぞ入ってください」
「ふふ、コーサクさん、ありがとう」
「ありがとうございます」
ロザリーさんが柔らかに礼を言う。その後ろでミザさんが静かに頭を下げた。
さて、さっさと風呂の準備をして来よう。
ロザリーさんとミザさんもお風呂に入り終わり、現在は居間で団欒中だ。ロザリーさんは、リーゼを膝の上に載せてご満悦である。
「うふふ、リーゼちゃんは本当に大きくなったわねえ。リーゼちゃん、ばあばよ。ばあば」
「あ~?」
ロザリーさんが自分のことを呼んで欲しそうに、リーゼに語りかける。その声に、リーゼは不思議そうな顔だ。
まあ、まだ話すには早いだろう。それに最初に話すときは、オレかロゼのことを呼んで欲しいな。
「お母様、帝国の様子はどうでしたか?」
母と娘のじゃれ合いを楽しそうに眺めながら、ロゼが質問をした。
「そうねえ。だいたい落ち着いて来たわよ。処罰された貴族たちの後任も馴染み始めて、国全体がちゃんと回り始めた、と言った感じかしら」
帝国の皇帝が変わってから1年と少し。かなりの数の貴族がクビになったようなので、けっこう早いのではないだろうか。
「それと、お父様もデリスも元気よ。2人とも頑張って働いているわ。ふふっ、2人ともロゼッタちゃんとリーゼちゃんに会いたがっていたわよ」
「……そうですか。お父様もお兄様も、お元気そうなら何よりです」
ロゼが微笑む。少し寂しそうに見えるのは、もう何年も2人に会っていないからだろう。
「リーゼが大きくなったら、みんなで会いに行かないとね」
そう言って、オレはロゼに笑い掛けた。
「ふふふ、そうだな。ありがとう、コウ」
ロゼが嬉しそうに笑う。どういたしまして。
「ああ、そうそう、コーサクさん。うちの旦那様から伝言よ」
「はい?」
デュークさんからの伝言?
「魔境での縄張り争いが沈静化してきたから、依頼があった物の捜索を開始する、ですって」
「……お~、ありがとうございます」
あれだな。悪龍討伐の報酬、お米の捜索依頼の件だ。元々お米の目撃情報があった帝都北西の魔境だが、生息していた翼竜が激減したせいで、他の上級魔物による熾烈な縄張り争いが勃発していた。
そのせいで、オレの依頼であるお米の捜索は、ほとんど進展していなかったのだ。
まあ、翼竜が減ったのは、レックスが切ったからだけど。とはいえ、誰が悪いのかと言えば、盛大にマッチポンプを失敗した帝国の貴族たちだろう。
おかげで。オレも単身で悪龍に挑むなんて言う無茶をするはめになった。
帝国でもお米が見つかるなら、とても嬉しい。お米が2種類あれば、交配で品種改良もできるんじゃないだろうか。あとでエイドルと相談だな。
ああ、本当に、やりたいことがいっぱいだ。
「ふふっ。コウ、嬉しそうだな」
ロゼはオレを見て、楽しそうに笑っている。
「そうだね。すごく楽しみだよ」
デュークさんから良い知らせが来るといいな。
義母のロザリーさんが戻って来てから2日後。オレは再び田んぼに来ている。今日は記念すべき、第一回目の田植えだ。
少なくともこの大陸では、稲作はここから始まるのだ。その大きな一歩目となる。
天気も晴れ。絶好の田植え日和だ。空もオレ達を祝福してくれているな。
植える苗は、エイドルが温室で育ててくれた。それを、協力して荷車でここまで運んできたのである。
まだ幼い稲は、短い葉をピンと伸ばしている。今は、その苗をアルドがみんなに配っていた。
「苗は籠に入れとけよー! 籠は腰に結んどけー!」
一緒にお米作りを行う農家の人達は若い人が多い。ほとんどアルドと同年代だ。素直にアルドの指示に従って、底の深い小型の籠を腰に括り付けていく。
「よーし! 準備ができたら始めるぞー! 田んぼに入って並べー!」
「おう」
「あいよー」
「うおっ、足がハマった!」
少しバタバタしつつ、全員が田んぼの中で一列に並んだ。そこへ、アルドが一枚の長い木の板を持って入っていく。その板が、並んだ者達のすぐ前にバシャリと置かれた。
「苗の間隔は揃えるからなー! みんな板の手前に植えろよー!」
若者らしい元気な返事が田んぼに響いた。この木の板が苗を植える場所の目安になるのだ。
「それじゃあ行くぞー! いーち! にー! さーん!」
アルドの声を合図に田植えが開始される。全員が一列となって、少しずつ後退しながら苗を植えていく。何年かすれば、田植え用の歌でも出来るかもしれないな。その頃には、米食も新しい文化として根付いているだろうか。
そんなことを考えながら、オレはレイモンドさんと並んで田植えの様子を眺めていた。
「とうとう始まりましたねえ。何だか誇らしい気分ですよ。ええ、とても嬉しいです。とはいえ、ははは、コーサクさん程ではないとは思いますけどね」
ようやく開始された稲作に、レイモンドさんのテンションも高い。
「そうですね。実際、感動してますよ」
お米を見つけるだけでも、とても苦労した。大陸の主要な穀物ではなかった時点で、半ば諦めながら探したものだ。あてもなく旅をした時期もある。懐かしいな。
ようやく始まった田植えに、心は震えている。
だけど、これは始まりだ。大切なのはこれからだろう。きっと、色々な問題も出て来るはずだ。ちゃんと収穫まで持って行くのがオレの役目だろう。
みんなに助けてもらいながら、最後まで気を抜かずに進むとしよう。
さて、オレも行こうか。見ているだけなんてもったいない。
「レイモンドさん、オレも植えて来ますね」
「……一人で大丈夫ですか?」
レイモンドさんが不思議そうな顔をする。
「大丈夫ですよ」
その疑問に答えながら、胸を奥から魔力を汲み出す。身体強化を発動する。
「追加で『魔力腕:12』発動。じゃあ、行ってきます」
レイモンドさんに声を掛けて、空いている田んぼへと歩く。田植えの開始だ。
長靴を履いた足が、ずぶりと田んぼの土へ沈んでいく。土と水の圧力で長靴が凹んだ。少しの圧迫感と冷たさが足へと広がる。
ちゃんと耕した土は、水分を含んでとても柔らかだ。きっと、稲も伸び伸びと育つだろう。
「よーし、やるか!」
自分の手で籠から数本の苗を取り、柔らかな土へ植えていく。手に触れる水と土の冷たい感触が心地良い。そして、同じように魔力アームで左右にも苗を植える。
強化した脳のおかげで、目測を誤ることはない。苗は一定の間隔でズレなく植えられている。いい感じだ。
「ははっ」
緑が増えていく田んぼに、自然と笑い声が零れた。
さあ、ドンドン植えていこう。
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