第180話 新たな命
リックがオレの重さなんてないように空を駆ける。その速さは凄まじい。周囲の光景が引き延ばされたように流れていく。
素のオレの動体視力では、一瞬で通り過ぎていく色が何なのか判別がつかない。
高速で移動するリックの動きは荒いが、それは船の揺れよりマシだった。だけど、今の方が体は酔っているようだ。
荒れた海にも耐えた内臓が、ひっくり返りそうな不快感を訴えてくる。胃の中身が逆流しそうだ。
ただ運ばれるこの瞬間が辛い。嫌な予想ばかりが頭をよぎる。貿易都市には頼れる人がたくさんいる。そう言い聞かせても、心臓の鼓動が収まらない。
どうしようもない不安感が体を支配する。指先が凍えるほどに冷たかった。
「コーサクさん、もう少しっすよ!!」
全力で魔術を行使するリックが、汗を滲ませながら声を掛けてくれた。
「ありがとう。もう少し、お願い」
「はいっす!!」
何とかリックに応える。口から内臓が出て来そうだった。
少しでも早くロゼの元へと行きたい。ただひたすらに願いながら、オレは余計なものが溢れないように唇を噛み締めた。
見覚えのある都市が見えた。リックは都市手前の農場を一息に飛び越え、そのままの勢いで都市の中へと飛び込む。
家々の屋根が高速で視界の下を流れていく。
そして、都市の外れに建てられたオレの家が見えた。空から見る自宅は、庭の一角を占拠する梅の木が特徴的だった。
「ふっ……!」
リックが短く息を吐き、風を操って減速する。急激に落ちていく速度に、内臓と血が体の前へと移動した感覚があった。
流れる景色が緩やかになるのと同時に、高度が下がる。近づいてくる地面に、今度は内臓が浮き上がった。
地面が急接近する。リックの体に力が入ったのが分かった。魔力で強化した足が地面へと触れる。
ズザザザッ、と、家の前の石畳を削り、リックが着地した。ピンポイントで家の玄関前だ。
「到、着っす、ふう」
「あり、がと……」
息の荒いリックになんとかお礼を言う。空の旅のせいか、極度の緊張のせいか、体の中が気持ち悪くて仕方ない。
リックに地面に降ろしてもらうと、足が震えているが分かった。深呼吸をしつつ、役に立たない足を拳で叩く。
そのまま、ヨタヨタと玄関の扉へと向かう。家に入る前から、中の騒々しさが聞こえて来た。
震える腕で扉を開けと、聞こえる騒めきが大きくなった。何人もの人間が家の中にいるようだ。
全く状況が分からないので、音が聞こえる方へ向かって足を進める。その途中で、部屋の一室から勢い良く人が飛び出して来た。
まだ若い女性だ。青い髪を揺らし、腕いっぱいに布を抱えている。
「イルシア……?」
孤児院をまとめるアリシアさんの娘、イルシアだ。オレを見て、目を大きく見開いた。
「コーサクさん! リックは間に合ったんですね! 私、伝えて来ます!」
そのままバタバタと走って行ってしまった。状況を聞く暇もない。誰かオレにどんな状況なのか教えて欲しい。
「……行くか」
イルシアの走りっぷりに呆気に取られてしまったが、我に返って歩き出す。人の気配は2階からする。たぶん、オレ達の寝室だ。
廊下を歩き、階段に足を掛ける。そこで、別な人物が姿を現した。
老婆だ。何回か顔を見たことがある。この都市で産婆をしている人物だ。その産婆さんが、年季の入った鋭い目でオレを睨み、これでもかと顔を顰めて口を開いた。
「アンタ、そんな汚れた恰好で妊婦に会うつもりなのかい!! さっさと風呂にでも入って来な!!」
開口一発怒られた。自分の恰好に目を落とせば、確かに綺麗とは言えない状態だ。魔物に襲われ続けた船の上では、洗濯をするのも大変だった。
だから、産婆さんが言うことはもっともだ。こんな状態で、ロゼに会う訳にはいかなかった。
だけど、風呂に行く前に、今の状況が知りたい。どうしてもだ。
「あの、風呂には行きます。ロゼは――」
「さっさと行きな!! アンタがどれだけ長風呂でも、風呂から出てくる前に子供が産まれることはないよ!!」
あまりの迫力に退散する。とりあえず、まだ子供が産まれていないことは分かった。そして、少なくとも危険な状態ではないのだろう。
産婆さんの声にはオレに対する苛立ちが見えるが、それ以外の不安と緊張感は窺えなかった。
少し軽くなった胸を押さえて息を吐く。ここで突っ立っていても何もできない。風呂に行こう。
ロゼのいる寝室の前で、ウロウロと歩き続ける。
風呂には入った。だけど記憶が飛び飛びだ。気が付いたら体が綺麗になっていた。心ここにあらずとはこのことだ。
今のオレよりは、初めて魔物の討伐に出た冒険者の方が、まだ考える頭があるだろう
ふわふわと足元が覚束ない体で、さっきから部屋の前を行ったり来たりしている。
綺麗な恰好にはなったが、部屋の中には入れてもらえなかった。産婆さんに邪魔だからと拒否されてしまったのだ。
そのため、オレに出来るのはロゼと子供の無事を祈って、部屋の前を彷徨うことだけである。
役立たずにも程がある。
「あ~、う~」
無意味な呻き声が口から出る。
あっちの世界では、父親たちが出産のときに意味もなく歩き回るのを見て不思議だったものだが、今はその気持ちが分かる。
じっとしていられないのだ。
どうせ何の役にも立たないのだから、座って待っていればいいと思う。だけど、その簡単なことができない。
頭の中はグルグルと空回りで、気を逸らすこともできそうにない。集中力なんてものは、遥か彼方へと消え失せてしまった。
ただ、落ち着けない心と身体を持て余して、うろつくことしかできない。
両手を握り締めながら、オレは部屋の前を歩き続けた。
夕方。傾いていく陽が屋内を照らす。
ロゼのいる部屋の中からは慌ただしい音と声が聞こえて来る。
「……!! ……!!」
漏れ聞こえて来るロゼの辛そうな声に、心臓がバクバクと音を立てている。不安と期待が入り混じって吐きそうだった。
そして、途轍もなく長いような時間が過ぎた後、部屋の中が一瞬静まった。だけど、それは本当に一瞬だった。
すぐに騒がしさを取り戻した室内からは、甲高い産声が響いてきた。
あ~~~~! あ~~~~!
その声がオレ達の子供のものだと理解した瞬間に、足の力が抜けてしまったようだ。気が付けば、廊下に膝を付いていた。
自分が呆然としていたと気が付いたのは、部屋の中から義母であるロザリーさんが顔を出したときだった。
ロザリーさんは、床に膝立ちのオレを少し驚いたように見た後、笑顔を浮かべて近寄ってきた。
「無事に産まれたわよ。顔を見てあげて」
「は、はい!」
足をもつれさせながら立ち上がる。体がふわふわして、自分のものではないようだった。
ロザリーさんに案内されて部屋に入る。ベッドの上には、疲れた顔をしたロゼが横たわっていた。
そして、その隣には、白い布に包まれた小さな存在が、ロゼにくっつくように寝かせられている。
近づいてくるオレに、ロゼが気付く。いつもより白い顔に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「おかえり、コウ」
「ただいま……」
ロゼに伝えたいことがたくさんあるのに、相変わらず、肝心なときには言葉が出てこない。
「コウ」
ロゼがオレの名前を呼び、自分の傍らを示した。
「女の子だ。髪の色はコウと同じだな」
ロゼが白い布を少し開く。その中で、小さな赤ん坊が眠っていた。ロゼの言う通り、まだ湿っている髪の毛は、オレと同じ黒色だ。
その色が、確かにオレの血を継いでいることを確信させる。
すとん、と、オレが親になったという実感が心に落ちてきた。胸の奥が熱い。どうしようもない歓喜が体を駆け回る。旅をして来た海よりも心は大荒れだ。
その中で、何とかロゼに伝える言葉を探す。
「……きっと、ロゼに似て美人になるよ」
「ふふっ」
いや、違う。本心だけど。ロゼが笑ってくれたけど。もっと先に言うことがある。
言葉が見つかるより先に体が動いた。2人を包み込むように、だけど傷付けてしまわないように、柔らかく抱きしめる。
「……ありがとう」
何よりも君にお礼を言いたい。
「君のおかげで家族ができた。この世界に居場所ができた。この子を産んでくれて、オレと出会ってくれてありがとう」
ロゼの空色の瞳と目が合う。
「愛してるよ、ロゼ」
オレの言葉に、ロゼは笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「私も愛しているよ、コウ」
ロゼと微笑み合いながら、オレは2人分の熱を抱きしめ続けた。
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