エンチャント・エクスペリエンス 5
やんわりお酢の香りを漂わせ、汗をかいたからと白奈さんは先にシャワーを借りたいと言ってきたのは幸いだった。この隙に野郎と同棲しているという証拠を隠滅できる。
二人分ある流しの食器をマッハで洗って、ベランダに干された前垣さんの衣類をクローゼットにハンガーごとしまい、あとは前垣さんが貸してと言ったくせに、結局寝心地悪くて返してきて放置したままの寝袋をベッドの下にやれば、前垣さんの痕跡は残らないだろう。
あとは漫画を本棚にしまい、軽く掃除機をかけて灰皿を片付けて、ダメ元で7月の今さらにコタツを片付ける。正直、クーラーガンガンに付けて電源入れずにコタツに入ってテレビ見ながら寝るの、幸せでやめられなかったんだけどな。前垣さんも片付けなかった辺り同意見だったに違いない。仕上げにリセッシュを部屋中に振りまく。
「あーちゅかれたー!」
ひと段落すると、僕は床に座ってベッドにもたれかかって一服したが、すぐに彼女が煙草の火を嫌がるかもと勘繰って火を消した。今まで女心なんて考えたこともなかったから色々と思考を巡らせて先読みするが、考えたことがないから正解がまるで分からない。考えるほど自室がまるで自室ではない別の異空間のように感じられるほどムラムラしてきた。違う、ソワソワしてきた。
こんな時はとりあえず一服……じゃない深呼吸!このヤニカスが!
「シャワーありがとうございましたー」
僕が慣れない貧乏ゆすりを意図してやっていると、しっとりと濡れた茶髪を首や頬に纏わせた白奈さんが、ペタペタと素足の音を立ててやってきた。黒い布地に虎柄の般若がプリントされてるという凄まじいデザインのTシャツを着て。
「これ、椿さんの服ですか?」
「うん、大阪にロケに行った時にお土産で買ったんだ。新品だから綺麗だよ」
半分嘘。大阪にロケに行った時に買ったのは事実だけど、買ったのは僕じゃなくて親父だ。バラエティで新世界を練り歩いた時に、服屋のおばちゃんが金村さんなら似合うからってタダでくれたらしい。それをいらないからって僕に押し付けてきた。センスに合わないし僕もいらなかったけど、それが今ようやく役に立った。白奈さんが帰ったら枕に詰めよう。
「じゃあ次椿さん入って、どうぞ」
白奈さんは買ってきたコーラを、結露にシャツを濡らしながら僕の用意したコップに入れて飲みつつそう言った。脱毛処理した白い太ももが眩しいが、下はちゃんと短パンとか下着とか履いてるんだろうか。ダボダボのTシャツのおかげで巨乳は隠れているが、素肌の露出は増えたので破壊力は増している。
化粧は落としているのだが、すっぴんでも違いは顔が肌色になったのと目尻がちょぴっと垂れて、ホクロがいくつか顔に浮かんでるくらいで、そんじょそこらの女性なら軽く無双できるくらいかわいい。
「う、うん。すぐ出るから」
脱衣所で服を脱いで、生まれたままの姿の自分の姿も、いつも通りの裸体ながら若い女子が数メートル先にいることを念頭に置いて見ていると、妙にくすぐったい気持ちになる。
風呂場に入ると、待たせたら悪いと思って冷水のまま烏の行水の如く数分で出た。あとになって、風呂場の匂いを嗅ぐとか床の水を舐めればよかったと後悔した。というかシャワーの音とかスモークガラス越しの輪郭とか見聞きしておきたかった。
うーん無念。後悔先に立たず。
一応ピーチの香水を塗ってリビングに戻ると、白奈さんはピザを開けて僕の分のコーラを注いでいた。
「冷めない内に食べましょー」
***
「……」
「次のニュースです。埼玉県大宮市で70代の女性から現金7400万円を騙し盗ろうとしたとして、詐欺の疑いで20代職業公務員の……」
「……」
「……」
「調べによりますと藤岡容疑者は「タワーマンションに引っ越したくてやってしまった」と容疑を認めているとの……」
「……」
アカン、ピザ食ってばっかじゃねーか!!
不覚、家に着く前に会話のレパートリーが枯れ果てるとはな。それはそうとしてあっちは僕に話すことはないのか? なんかあるでしょ。何?すっごい甘々な展開を考えてたのに、やってることは黙々とピザにパクつくだけなんだが。
仕方ない、こちらから攻めてやるか。だが何て言おう。例えば……。
[白奈さんは整形するならどこがいい?]
違う!殴られるわ!僕は唇!もっとこう……。何か無いのか? あ、そうだ。
「白奈さんは尊敬してる役者さんっている?」
「多部未華子さんです」
「そう、僕は森山未來さん」
「お父さんじゃないんですね」
「親父は実生活の姿を見てるからね。小学生の時に宿題をやってないのを怒られた時、どっかからかかってきた電話に出た瞬間、物凄い猫撫で声に変わったのを見た時、こんな大人になるもんかって思った。他にも」
「椿さん」
「うん?」
「無理して話さなくてもいいんですよ?」
気を遣われた。あるいは遠回しに黙れと言われた。なら一体どうすればいいのか……。ふと横を見ると、白奈さんは胸の下に腕をやり、Tシャツの上から胸部を扇情的に浮かび上がらせている。さっきから無警戒もいいとこだ。年頃の女ならもっと身構えそうなものだが……。
「……!」
あ、分かった。僕の家に来てベッドシーンを練習しようとか言うから僕に惚れてるのかなと思ってたが、実際は違う。白奈さんは僕を脅威となるような男として見てないだけだ。だからこんなにも無防備なのか。と、納得はしたけど情けなさが込み上げてくる。昔から自他共に少女風の顔立ちとは思っていたが、まさか異性に男扱いされないレベルだとは思わなんだ。
「椿さん、悪いんですがコーラの他に何かあります?飲み切ってしまいまして」
僕の葛藤など気にもせず、白奈さんは飲み物を所望してきた。何かあったかな。立ち上がって冷蔵庫を開ける。
「レモンティーあるよ。開けてるけどコップに注いでるから口はつけてない」
嘘です。がぶ飲みしてます。
「他には?」
「あとは栄養ドリンクと前……じゃないビールとカップ酒かな」
前垣さんのワンカップ小結と缶ビールが合わせて4本冷えてる。僕は下戸じゃないけど酔うと少し感情的になるから飲まない。男はクールでなければならないからね。
「じゃあビールいただけますか?」
「飲めるんだ」
成人したての20歳なのに。さては高校生の頃から隠れて飲んでたクチか。
「まぁ色々とストレスの多い業界ですから」
「ふーん」
僕はビールを手に取って白奈さんに渡した。前垣さんには後で言って新しく買えばいいか。開けた瞬間に泡が飛び出すビールを、白奈さんは音を立てて飲んだ。口の端からこぼれたビールが喉を伝ってシャツを湿らせる。見てる分にはビールうまそうだな。
「椿さんもどうぞ」
「え?」
すると、白奈さんは僕に缶の飲み口を向けてきた。あまり無下にするのも悪いので、僕がビールを注ぐためにコップに残ったコーラを飲み干そうとすると、その手を掴んだ。
「別に口つけてもいいですよ。椿さんなら」
「あ、そう……」
いよいよ弟か甥っ子って思われてるな。なんだかさっきまで自分が過ちを犯さないかテメーに怯えてたのが馬鹿みたいだ。僕が嘆息して受け取ったビールは、喉を鳴らして飲んでた割には半分以上は残っているようだった。
「……あれ?何かぬるいなぁ」
口をつけると、缶自体はキンキンに冷えてるのに、肝心のビールは妙に生温くてそんなに冷えてなかった。変だな、前垣さんは数日前から入れていたはずだが。でも、僕は特に気にせず、ニコニコ微笑む白奈さんにビールを返した。
***
お互い腹が苦しくなりながらもピザを食べ尽くした頃、白奈さんは2本目のビールを飲みながら僕にこう言った。
「言いそびれたんですが、今日泊まってもいいですよね? 終電は間に合いますが、私の家国分寺にあるので、帰ると1時過ぎちゃうので」
まぁ若い女の子を真夜中一人で帰らせるのも気が引けるし別に構わないけども。僕は寝袋で白奈さんはベッドで寝ればいいし。でも、何か釈然としない。
「まぁ全然大丈夫だけど。君ももっと僕を警戒した方がいいんじゃないかな。そりゃ共演者を襲う俳優なんていないだろうけど、僕も一応22歳の男なんだし……」
ほろ酔いのせいか、シラフの時は嫌われないか不安で言えなかったことがつるりと言えてしまった。しまったな。僕が危険人物という誤ったイメージがグラドル間で共有されたら、今後の仕事に支障を来す。
しかし、そんな僕の不安に反して、白奈さんは目をパチパチと瞬かせて僕の頬を両の掌で包んでこね回した。
「それって私に欲情してるということ?」
ビールを握ったせいで死体のように冷たく濡れた手の中で僕は返事に窮したが、彼女の口から匂うニンニクの刺激臭が頭を痺れさせる。美人なら口臭ですら甘く魅惑的なものに変わるかのと一種の羨望すら覚えた。
「そ、そうで、す」
僕が答えを返した途端、白奈さんは花開くように破顔して頬から手を離し、数十センチ斜め下の両肩を掴むと、僕を床に押し倒して鼻が密着するほど顔を近寄せた。
「やーっと本心を言ってくれたね」
そう言って、あの先の割れた舌を出して僕の唇をなぞるように舐めた。
「大丈夫、椿君はじっとしてるだけでいいから。わかった?」
「は、はい……」
男のくせに女に押し倒されて子ども扱いされているというのに、僕は唇を柔らかくくすぐる舌の感触に抗うことができず、その時に女絡みで破滅した同業者や政治家の気持ちを理解できた。
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