エンチャント・エクスペリエンス 2

 アリーフは脱いだ背広を安楽椅子の背もたれにかけ、その上にワイシャツとネクタイを無造作に置いて、上の衣類を全部脱ぎ捨てた。生傷一つない、兵士とは思えぬほど清らかな体格にトルスタは、思わず生唾を飲む。


「じゃあ……しよっか?」


 真っ白な肌の中に乳首だけが淡い桃色で、腹筋さえ割れていなければ十分女性と言っても通用する甘い顔立ちを持つアリーフは、下のスラックスは履いたままトルスタのいるベッドに上がり、彼女が気恥ずかしさから胸を隠すため握り締めている毛布に手をかけた。


「いい…?」


「う、うん」


 アリーフは一応許可は願いつつもトルスタに顔を寄せ、自分の唇を舐めて湿らせてから彼女の唇を奪うと、背中に腕を回して優しくベッドに寝かせ、そっと彼女を包む毛布を徐々に下へ下ろした。


「ねぇ、アリーフも脱いでよ。私だけ生まれたままの姿なんて嫌だよ」


「え?ああ、ごめんね、そうだった」


 トルスタに言われるまま、アリーフはとっさに膝立ちになってベルトの金具を外し、ブリーフごとスラックスを脱ごうとした。

 ん?待てよ?僕全裸になっていいのか?彼女は下ちゃんと肌着つけてるけど、僕は何もつけてないからマジで全裸になるけどいいのか? 今のは前戯とかするパターンだったか?もし仮にそうなら今すぐ何か言って、胸に顔を埋めるなり、舌入れてキスなりなんかしないと……いや、それよりもおっぱい揉みしだくべきか? いや、いくら撮影にしても限度が。じゃあ僕は何をどうしたら、あああああああああああ!!!


「う、うーん……」


 気づいたら、僕はベッドから卒倒して後頭部を床に強かに打ち付けていた。


 ***


「大丈夫ですか?」


「う……ここは?」


 どうも頭がガンガンと痛いが、そのためか後頭部に何か柔らかいものが敷かれている。目を開けたが、視界の半分くらいが何故か黒ずんでいる。


「私の楽屋ですよ? 椿さん、私とのベッドシーンの撮影中に泡吹いて倒れて、頭を強打して気絶しちゃったんですよ」


「え?は!?」


 靄がかかっていたように記憶が混濁していた僕の頭に、数分前か数時間前か分からないが、美少女にヘタクソなキスをした記憶が呼び戻された。


「あのジェスタフ役の確か前垣さんって人、役とは打って変わって優しい人ですね。椿さんが倒れたって聞いたら、すぐ水分と糖分補給って自販機でカルピス買ってきましたよ。今飲ませますね」


「ありがごぼぼぼ」


 そう言って、声の主はクスクス笑って僕の口にペットボトルのキャップがつけると、間髪入れずに甘ったるいカルピスが流れてきた。仰向けで水を飲むことがあまりないので、噎せはしなかったが非常に飲みにくく、だいぶこぼれて喉を伝ってシャツに垂れた。何かこんな感じの拷問あったな。


「ブハッ! あーもういいです、ありがとう」


 僕は長い前髪を手で払い、真上を見据えた。視界の上半分が全く見えないのは何故なんだ。視神経がやられたにしては他は普通にくっきり見える。まだ夢から覚め切れていないような感じで頭が働かない。


「ところであなたは誰ですか?」


「嫌だぁ記憶喪失ですか? トルスタ役の菊元白奈です」


「あ……? えっ」


 そのおっとりした美声を聞き、やっと自分が演者に膝枕されてると分かるや否や、見られたらまずいと体が反射的に起き上がった。が、頭にふかふかと柔らかいものが当たると、一瞬で動きが止まった。なるほど、視界を遮っていたのはこの人の巨乳だったか。

 何気にこれすごい貴重な体験だな。グラドルに膝枕されて胸に頭が当たるって。と、性欲より後頭部の痛みの方が強くて、この時は僕は冷静だった。


「良かった元気そう、一応試しにこれ何本?」


 僕は転がって菊本さんの横で仰向けになり、港区にある瀟洒な高層ビルのテレビ局の楽屋にも天井にシミはあるんだなとそれを見つめていると、僕の顔の上に四つん這いになった菊本さんがピースサインを突き出してきた。彼女は僕や司くんと違ってウィッグなので、地毛の茶髪ままだ。顔を近づけられると、何かふわっと香水の甘い香りがした。


「2本。これ間違えたら楽屋で安静くらいじゃ済まないと思いますよ」


「は?3本見せましたけど」


「な、何だと……?」


「ぷっ、あははははは!!」


 僕が絶句して起き上がると、焦った僕の顔がよほどツボに入ったのか、菊本さんはほっぺたを膨らまして爆笑した。


「嘘ですよ。椿さんって意外と騙されやすいんですね」


「……まぁそんなことより、すいません。僕のせいで撮影が長引くことになっちゃって。僕が不甲斐ないせいで菊本さんにも迷惑をかけることになってしまって……」


 何かずっとからかわれそうだったから、僕は話題を無理矢理変えた。


「別にタメ口でいいですよ。私まだ20ですし。撮影は明日に延期らしいです。でも、監督もひどいですよね。私達の馴れ初めのシーンより先にベッドシーンから先なんて、第一椿さんは童貞なんだならもっと配慮してあげないと」


 ん?聞き捨てならない言葉が。


「待って誰が僕が童貞っつたの?」


「前垣さんですけど。昨日、アダルトビデオとか官能小説見て勉強してたんですよね?」


 口軽いなーあの人。証券マンとかだったら誰からも信用されなさそう。これからあの人にプライベートな相談はしないでおこう。


「まぁそうだけど……出会いに恵まれなくて」


「へー意外、椿さんってかわいい顔してるから、大昔にもう経験してるのかなとばかり。あ、イメチェンしたら化けたタイプですか?」


 そういうわけでもなかったので僕は愛想笑いで誤魔化した。しかし、菊本さんって案外普通に会話してくれるんだな。てっきりチヤホヤされ慣れてお高くとまってるタイプだと思ってた。まぁそういう人は一つ不祥事が露わになると、土石流みたいに他のも次々暴露されてすぐ淘汰されるからな。

 すると、菊本さん。いや白奈さんが僕の方に妙にニヤニヤと笑みを浮かべながら擦り寄り、今更ながらソーシャルディスタンスを保つために僕が後ずさろうすると、白奈さんはぎゅっと手首を掴んで、そのまま覆い被さって唇を重ねてきた。


「ん!?」


 そして、何か自分の舌が勝手にうねうね暴れるなと目を瞬かせたら、彼女の舌が僕の口内にねじ込まれていると分かってうなじから両腕に鳥肌が立った。この鳥肌は嫌悪感からじゃない。彼女は衣装で架空の制服を着ていたので、女子高生とキスしてるみたいで背徳感がスパイスになってすごい興奮した。


「さっきキスだけはやってくれましたけど、本当のキスはこうやるんですよ。まぁ私個人としては椿さんの慣れてないのが可愛かったんですけど……あ、返すので口開けてもらえます?」


「え?うむっ!?」


 言われるがままに僕は口を開けると、白奈さんは僕から搾り取った唾液を自分のと混ぜて、舌から僕の舌へとどろりと垂らした。舌ピアスを開けていたのか、彼女の舌は先が割れていた。正直これは温くて生臭い味で気持ち悪かったが、こんなに至近距離でも彼女から口臭が全くしないことに驚き、あまり気にならなかった。


「こういうの慣れてるの?」


「女の子には色々とあるんです」


 唾液を一思いに飲み下して尋ねると、白奈さんそう言って僕に抱きついてきた。シャツ越しに彼女の胸が当たり、何となくそちらに目を向けるとボタンの隙間から黒い下着が見えて、気恥ずかしさから僕も彼女を抱き締めた。

 そういえば僕、たまに年配の女優さんとかに甥っ子感覚で抱きつかれたことならあったけど、こういう歳が下の人に抱き締められたのは初めてだ。まさかこんな美人が、僕みたいなちょっと顔がいいだけの七光りの無名俳優に惚れているなんてことがあるのか? いや、でも僕もこれからの人間だしなぁ……。

 僕が色々と彼女との今後に思いを馳せていると、白奈さんは頬を擦り付けながら僕の耳元で小さく囁いた。


「今日、打ち合わせとか終わったら椿さんの家にお邪魔していいですか? 私が色々と細かいことをレクチャーしてあげますから。ベッドシーンについて……あ、じゃあLINE交換しましょうか」


「え? あ、はい。よろしくお願いします」


 親父、僕は自分で思っていた以上に綺麗な女性に弱くて流されやすいようだ。そういえばあなたも僕が9歳の頃に家に知らない女を連れてきて、怯えて大泣きする僕に正直に愛人とも言えず、慌てて家事代行の人とか言い訳してましたっけ。血は受け継がれるものですね。

 スマホを渡すと、白奈さんは大して他にアプリをインストールしてないはずなのに、何故かアプリを見つけるのに苦労していたようだが、ささっとコードを互いに交信した。


「あ、アイコン画のショートケーキかわいい」


 スマホを返してもらった瞬間、ノックして前垣さんが汗だくでやってきた。手には酒用のアイスブロックを持っている。アルコール類は社内社食横のコンビニには当然置いてないから、わざわざ外に出たのだろうか。焦ったのか上はTシャツで下はステテコというラフな格好なのに革靴を履いている。


「あ、ちゃんと生きてたか。三途の川はあったか?」


「ありましたけど川で溺れ死んだら帰ってこれました」


「そりゃ良かった。まぁ帰るまで安静にしてなよな。ほら氷枕」


 そうして、前垣さんは恐らく借り物の中日ドラゴンズのタオルで氷が入ったビニールを包み、僕に投げ渡した。


「やだ前垣さんお父さんみたい」


 白奈さんがそれを見てクスクス笑う。実際は居候なんだけどな。


「菊本さんもご飯食べてくるとかしてきたら?彼は俺が見てるから」


「じゃあお言葉に甘えて。それじゃ椿さん、だいたい19時くらいには済むと思うので」


 余計な邪魔が入ったからか、白奈さんはさっさとカバンを持って僕にそう言うと、投げキッスをして出て行ってしまった。投げキッス久しぶりに見たな。スカートのプリーツを直す時に見えた膝裏の筋がやたら生々しく見えた。


「あの子思ったより献身的なんだな。ところでなんか約束したのか? って痛ったぁ!!」


 胸に残る白奈さんの体温が消えていくことに寂寥感を覚えつつ、僕を童貞とバラした前垣さんへの報復としてふくらはぎを思いっきり引っ叩いた。

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