第35話 渇望
楽譜なんて必要なかった。あきれるほど何度も繰り返し奏でたその曲は、頭ではなく指が覚えていた。
窓を閉め切った部屋の中、奇妙に大きく反響するピアノの音色だけが満ちる。
迷うことなく鍵盤をすべる指先に、自分でも少し不思議な気分になる。
思えば、この数ヶ月は本当にこの曲ばかり弾いていた。他の曲なんてもうずいぶん長いこと弾いていないから、弾けなくなった曲も多いかもしれない。
だけどべつに、それでいいと思った。他の曲なんて、きっともう弾かない。倉田が、いい曲だと言ってくれた、目一杯に拍手を送ってくれた、この曲以外は、もう。
倉田はピアノから少し離れた位置に立って、じっと鍵盤に視線を落としている。そこまで真剣にならなくてもいいのに、というほど彼女が熱心に耳を傾けてくれているのは、隣から伝わる気配でわかる。
あの日もそうだった。呼吸すらひそめるようにして、彼女はじっとおれの演奏を聴いていた。十分近い曲の最初から最後まで、ずっと。身じろぎ一つせず、まっすぐに。
その真摯さは、これまでに演奏を聴いてくれた誰よりも心地良かった。このまま、いつまでも弾いていたいと思った。
畳みかけるようなテンポで続いていた旋律がふと途切れ、ゆったりとした穏やかな旋律へ変わるとき、彼女の呼吸も一緒に静まる。緊張したように硬くなっていた肩から、ふっと力が抜ける。
不思議なほどはっきりと、それがわかった。きっと今、彼女はなにも考え事なんてしていない。今はただ、おれの指先とそこから紡がれる音色だけに、すべての意識を向けてくれているのだろう。こんな聴き方をしてくれる人を、おれは他に知らなかった。
こんなふうに、彼女が耳を傾けてくれるのなら。きっとおれはこれからも、馬鹿の一つ覚えみたいにこの曲を弾き続けていく。他の曲なんて全部忘れてしまっても。飽きもせずに、ずっと。
なんだか途方に暮れたような気持ちで、ふとそんなことを思った。
なめらかな旋律もまた唐突に姿を消し、荒々しく主調が戻ってくる。そしてそのまま、最初と同じ畳みかけるような勢いで、終結へ向かう。
だいぶ重たくなってきた右手にあらためて力を込めたとき、彼女も一緒に全身に力を込めたのがわかった。呼吸のタイミングが重なる。
隣にいる彼女があまりに近くて、一瞬、彼女も一緒に演奏しているかのような不思議な感覚にとらわれる。その感覚は本当に心地が良くて、このまま曲が終わらなければいいのに、なんていたずらに願ってみたけれど、その次の瞬間にはゆっくりと鍵盤に沈めた指が、最後の低音を鳴らしていた。
ペダルに込めていた力を抜くと同時に、音が消える。家の中にふたたび静寂が戻ってくる。
おれはそっと鍵盤に置いていた手のひらを持ち上げると、手持ち無沙汰に膝へ移動させた。
途端、しんと静まりかえる空気がなんとなく気まずくて、なにか言ってくれないだろうかと思いながら倉田のほうを見れば、彼女はなぜかぽかんとした顔でこちらを見つめていた。まだ演奏が終わったことにも気づいていないような様子だった。
たっぷり数秒の間を置いて、ようやく我に返ったように、あっ、と口を開いた彼女は
「あの、あ、ありがとうっ」
早口に言ってから、思い出したように手を叩き始めた。そんなに力を込めたら痛いだろうにというほど全力で拍手をしながら、「やっぱり」と彼女は意気込んだ調子で重ねる。
「やっぱり、すごい。すっごい上手だね、永原くん」
あの日と同じように、目を輝かせてこちらを見据えたまま、倉田は弾んだ声で言う。そのあまりにまっすぐな視線にさすがに照れてしまって、おれは目を伏せた。
「ありがとう」と言えば、倉田はあいかわらず意気込んだ調子で
「これ、すっごく難しい曲なんでしょう。あんなに完璧に弾けちゃうなんて、すごいね」
「べつにすごくないよ。完璧でもないし、あれだけ練習すれば誰だって弾けるようになるよ」
素っ気ない調子で返すと、なぜか倉田の表情が軽く強張った。
少しだけ次の言葉を探すような間があってから、彼女は気を取り直すように笑みを浮かべ
「練習って、どのくらいしたの?」
「小学校の頃はほとんど毎日、学校から帰ったらピアノばっかり弾いてた。父親が帰ってきたらうるさいって言われるから、それまでしか弾けなかったけど。でもだいたい三時間くらいは、毎日」
言うと、倉田は感心したように、へえ、と長い相槌を打ってから
「そんなに好きだったんだね、ピアノ」
などと的外れなことを言い出したので、おれはちょっと苦笑した。
「違うよ」
「え?」
「べつに好きってほどじゃなかった。始めたきっかけも、母親から無理矢理習わされただけだし。ただ、他にやることなかったから。暇なときに遊ぶような友達もいなかったし、あの頃」
言うと、途端に倉田の表情がわかりやすく強張った。
変なことを訊いてしまったという顔つきで、落ち着きなく視線を彷徨わせる。それから、「あ、で、でも」とあわてた様子で口を開いた。
「私も、小学校の頃はあんまり友達いなくて……ほとんどいつも、浩太くんと鈴ちゃんとしか遊んでなかったよ」
なんだかよくわからないフォローに小さく笑ってから、おれは「知ってる」と静かに返した。
「だから、うらやましかったんだ、多分」
――似ている気がしたのだ。最初に、彼女と顔を合わせたとき。
けれどそれはほんの一瞬で、すぐに、彼女はおれとは決定的に違うことに気づいた。
人と目を合わすことすら苦手で、どこか他人と接することに怯えていて、そんなところはたしかに似ているはずなのに、根本的なところで、彼女はおれとまったく違った。
彼女は当たり前みたいに、人に優しくできた。なにも迷うことなく、臆することもなく。
そもそも、彼女はひとりではなかった。心から信頼できる、そして本当に自分のことを想ってくれる、そんな存在がすぐ傍にあった。
だからきっと、彼女は人を信じていた。心の底では、人に怯えてもいなかった。
似ていると思った次の瞬間に突きつけられたのは、どうしようもない落差だった。彼女は全部持っていた。おれのいちばん欲しかったものを、何もかも。当たり前みたいに手にしていた。
――だからあの日の彼女の優しさは、本当に、泣きたくなるほど眩しくて、妬ましかった。
欲しいと焦がれた気持ちと同じくらい、憎しみを覚えた。あの二人も何もかも、全部奪ってしまいたくなった。何の疑問もなくたくさんのものを手に入れている彼女から。すべてを奪って、捨てさせて、そうしておれと同じところまで堕ちてきてくれればいいと、真っ暗な心の片隅で、そう思ったのだ。
長い沈黙のあとだった。
じっと黙ったままおれの顔を見ていた倉田が、やがて、少し緊張した様子で息を吸い
「……永原くんは」
慎重に言葉を選ぶようにして、おずおずと口を開いた。
「浩太くんのことが、嫌いだって、言ってたけど」
唐突な言葉に、おれはゆっくりと倉田のほうを見た。
彼女はなにかに耐えるような表情で、じっと自分の足下を見つめている。
「だから、浩太くんに、あんなことしたの?」
訊いておきながら、こちらの返事は聞かなくてもわかっているような調子だった。
それでも一応、うん、と短く頷けば、彼女はあいかわらず足下に視線を落としたまま
「浩太くんが永原くんに、なにか嫌なこと、したの?」
「べつに、羽村はなにもしてないよ」
今度は素っ気なく首を横に振れば、倉田は困惑した様子で眉を寄せる。
「じゃあなんで」と心の底から戸惑った声で呟く彼女に、おれはため息をつくように小さく笑うと
「ただ嫌いなだけ。ああいう、根っから明るくて、人付き合いが上手くて、人間関係で苦労することとか全然なさそうな、そういうやつ。なんか自分と比べるとたまらなくなるし、それに」
言いながら、自分が相当みっともないことを言っているのはわかっていた。だけどもういいや、と半ば自棄のような気持ちで思う。みっともないだとか格好悪いだとか、もう全部今更だ。
自分の口にした言葉に、重たい自嘲の笑みがこみ上げてくる。「それに」とおれは放り出すような気分で繰り返すと
「倉田との付き合いだってあっちのほうが断然長くて、それだけでもう絶望的な感じなのに、そのうえ羽村はそういうおれがいちばん嫌いな部類の人間で、だからあいつが倉田の前にいるだけですっごい嫌で、いなくなってくれればいいと思って、そうすればおれも不安になったりしないし、たぶん倉田にもずっと優しくしていられるし、だから」
そこで軽く言葉を切り、倉田のほうを見る。すると思いがけず彼女と目が合い、口にしかけた言葉が喉でかき消えた。
倉田は、まっすぐにこちらを見つめていた。少しも揺るがない、芯から静かな目で。
穏やかにすら見えるその眼差しに、なんだかまた途方に暮れたような気分になる。
彼女の表情には軽蔑なんてみじんも混じらない。おれを突き放したりもしない。今までだってずっと、そうだった。一度も、彼女からそんな感情を向けられたことはなかった。
だったらおれは、ずっとなにを恐れていたのだろう。今はもうわからなかった。今だって、彼女はおれから目を逸らさないのに。
絶対に、ここから逃げないのに。
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