第36話 恋をした日
一度ゆっくりと呼吸をする。
「……だから」
それから、改めて口を開いた。
「羽村は悪くないよ、何にも。ただの嫉妬。おれ、あいつに勝ってるようなところ、ひとつもないから。だから倉田から引き離したくて、それだけ」
放り出すように言っても、倉田の表情は変わらなかった。静かな目のまま、じっとこちらを見つめていた。
それでよけいに落ち着かない気分になって、「だから」とおれはいくらか投げやりな調子で言葉を継ぐ。
「今、倉田はおれのこと庇ってくれてるけど、べつにそんなことする必要ないよ。おれが全部悪いってことくらい、自分でちゃんとわかってるし」
言うと、倉田はちょっと眉を寄せ、「だけど」と口を開いた。
「佐々木さんが言ってたことは、嘘なんでしょう」
「佐々木?」
唐突に出てきた名前に一瞬きょとんとすれば
「永原くんが佐々木さんのこと殴ったって、あれは、嘘なんだよね」
今度は疑問ではなく断定の語尾で、倉田は重ねた。
それでようやく思い当たり、ああ、と小さく呟く。そういえばそんなこともあったな、となんだか他人事みたいに思い出しながら
「なんで、嘘だって思うの」
ふと浮かんだ疑問をそのまま尋ねてみれば、倉田は間を置かず、「だって」と返した。
「永原くんは、そんなことする人じゃないから」
なんの迷いもない口調に、またきょとんとする。それから一拍置いて、苦い笑いがこみ上げてきた。
「そんなことする人じゃないって」おれはあきれたように彼女の言葉を繰り返してから
「でも、倉田の机を塗料で汚したのも、倉田の鞄から集金袋を抜き取ったのも、それを羽村の鞄に入れたのも、全部おれだよ。おれは、そういうことするやつなんだよ。倉田だってもう知ってるんでしょ」
「うん」
返ってきたのは、やはり静かな相槌だった。こちらを見つめる視線も揺れない。優しい色すら見えるその瞳に、なんだかますます困惑してしまって、「なんで」とおれは乾いた声でもう一度繰り返す。
「羽村だって言ってたじゃん。最初になんかしたのはこっちだし、べつに羽村たちは間違ったことなんてしてない。今のおれがカワイソウだからって、倉田はおれのほう庇うことなんて」
「違うの」
まっすぐにおれの目を見据えたまま、倉田が静かにおれの言葉をさえぎる。
「私ね、たぶん永原くんを庇ってるわけじゃなくて、浩太くんたちがこういうことしてるのが、嫌なの」
そう言うと、彼女は軽く目を伏せ、悲しそうに微笑んだ。
「だって」と呟くような声で続ける。
「浩太くんも鈴ちゃんも、ほんとはすっごく優しいんだ。私、ちゃんと知ってるんだもん。二人とも、こういうふうに誰かを傷つけて、平気な人じゃないって。だから、今は冷静にいろんなこと考えられなくなってるだけで、絶対、あとで後悔すると思うから」
だから、きっと。言葉を手繰るようにして、倉田は訥々と続ける。
「いつか絶対、わかってくれるよ。浩太くんも鈴ちゃんも。こういうこと、よくないって」
おれは言葉を失ったまま、ただじっと彼女の顔を見つめていた。
窓の外ではいよいよ日が暮れ、夜が訪れようとしている。
月も星も見えない、ひどく平坦な夜だった。風の音だけが絶えず部屋に満ちる。合間にどこかで犬の鳴き声がした。
帰らなくても大丈夫なのだろうか、と目の前に立つ倉田を見ながらちらっと思ったけれど、彼女が言い出さないのならきっと大丈夫なのだろう、と無理矢理結論づけて、結局黙っていた。
倉田も一瞬だけ窓の外へ目をやり、それから壁に掛けられた時計を確認したのがわかった。けれど彼女もなにも言わなかった。
代わりに
「……あの、永原くん、私ね」
なんだか意を決したような声色で、ゆっくりと口を開いた。
「実は、CD、買っちゃったんだ、あのあと」
唐突な言葉にきょとんとして顔を上げれば、倉田はちょっと恥ずかしそうに表情を崩し
「ブラームスの、ラプソディの。音楽室で、永原くんがこの曲を弾いてくれた日のあとに」
やたら照れたような口調で、そう続けた。
これまでの会話の流れを思い切り無視したその言葉に、おれはどう反応すればいいのか迷って、ふうん、となんとも間の抜けた相槌を打ってしまったけれど
「なんかね、どうしても欲しくなっちゃったんだ。クラシックのCDなんて今まで買ったことなかったんだけど、でも」
倉田は気にした様子もなく、なにか重大な秘密を打ち明けるようにしてさらに続ける。
「あの日永原くんが弾いてくれたこの曲が、どうしても忘れられなくて。本当は、またいつか聴かせてって頼みたかったんだけど、なかなか言えなくて、だからそのCDをずっと聴いてたんだけど、でもね、やっぱり」
そこで倉田は軽く言葉を切ると、恥ずかしそうにおれから視線を外した。
「永原くんの弾くラプソディが、もういっかい聴きたいなって、ずうっと思ってて」
妙に切実なトーンで告げられた言葉に、思わず苦笑が漏れる。
「そんなの、言ってくれればいつでも弾いたのに」
ぽつりと呟けば、うん、と倉田は小さく笑ってから
「でもなんだか、言えなかったんだ。本当にすっごく聴きたかったんだけどね、でも心のどこかでは、もう聴きたくないって思ってるような気もして」
「……なにそれ」
さらっと悲しいことを言われた気がして思わず真顔に戻ると、倉田はあわてたように
「自分でもよくわからないんだ。本当に、あの日の永原くんのピアノはすっごく素敵で、たぶん一生忘れられないだろうなってくらいで、だから絶対気に入らなかったわけじゃなくて、むしろその逆で、もしかしたら、あのとき感動しすぎちゃったから、その演奏を大事にしたくて、言えなかったのかもしれない。もういっかい弾いてって」
言いながら、自分の言葉に納得がいったように、倉田は一人で何度も頷くと
「それくらい、特別だったんだよ。あの日の永原くんの演奏は、私の中で」
はにかむような笑顔で、そう結んだ。
芯から無邪気なその笑顔になんとなく気恥ずかしくなって、おれはまた苦笑すると
「そんな言うほどたいした演奏じゃなかったよ。そこまで上手くもなかったし」
「上手だったよ」
おれの言葉が終わらないうちに、倉田はきっぱりとした口調で言い切る。それからちょっと困ったように視線を落とし
「その、今までそんなにたくさんピアノ聴いたわけじゃないから、どういう演奏が上手いのかはよくわからないんだけど……でも私、永原くんのピアノ、すっごく感動したし、心に残ってるし、本当に、忘れられないくらい素敵だったもん。あの、でも、それって」
そこで倉田はますます恥ずかしそうに顔をうつむかせ、指先で軽く頬を掻くと
「永原くんの演奏がっていうより、もしかしたら、永原くんが弾いてたから、なのかも、しれないけど」
おれは黙って彼女の顔を見た。
「ほんとう、はね」倉田はうつむいたまま、じっと床の木目を見つめている。
「――ちょっと、嫌だなって、思っちゃったんだ。私」
消え入りそうな声で続けた倉田の口元に、ふと悲しげな笑みが浮かぶ。
なにが、と聞き返せば、彼女は一度唇を噛んでから
「鈴ちゃんが私に、永原くんのことが好きなんだって言ったとき。応援してほしいって言われたとき、なんだか寂しくなって、鈴ちゃんは永原くんにピアノを聴かせてもらったことがあるんだって知ったときも、うらやましいなあって思って、だけど私、今までずっと鈴ちゃんと浩太くんと三人でいたから、二人がいなくなったら、どうすればいいのかわからないから」
訥々と話す倉田の顔を、おれはただ黙って見つめていた。
言葉をかけるタイミングなんてとっくに見失っていた。
「だから」合間に苦しげな息を挟んで、彼女は重ねる。
「私、たぶん鈴ちゃんのこと、心の底から応援できてなかったんだ。ただ鈴ちゃんと友達でいられなくなるのが嫌で、そうしたらきっと浩太くんも離れていっちゃうと思って、それも怖くて、でも永原くんを失うのも嫌で、だからあの日、永原くんの質問にもちゃんと答えられなくて。ずっと私、自分のことばっかりで」
その穏やかな声を聞いているうちに、もうどうしようもないほど途方に暮れた気分になってきて、おれは目を伏せた。
「なんで」喉から、ひとりでに声がこぼれる。
「言ったじゃん。おれ、倉田にもひどいことしたよ。集金袋のことも机の塗料のことも、倉田が傷つくってことわかってて」
「うん、でも」
倉田は穏やかな調子のまま頷いて、すぐに返した。相変わらず、なんの迷いもない口調だった。
「永原くん、傘、貸してくれたもん」
顔を上げると、彼女は静かな目でまっすぐにこちらを見つめていた。
「私に傘貸したら、自分が濡れちゃうのに。プリント整理も、けっこう時間かかったのに全然嫌な顔しないで手伝ってくれたし、自分の制服が汚れるのも気にしないで私のスニーカーの汚れ払ってくれたり、こんな寒い日に私の鞄拾うために川に入ってくれたり、永原くんは、そういうことしてくれる人だから。私は」
そこで一つ息を吸った彼女の表情が、はにかむようにふわっとほころぶ。
「それも、ちゃんと知ってるから。そういうの、全部、すっごく嬉しかったから。ずっと忘れられないくらい」
風の音に重なり、遠くで電車の通過音が響いた。
部屋に満ちる空気は冷たく、かすかに湿っている。明日は雨になるのかもしれない。窓の外に視線を飛ばせば、もう完全に日は落ちて、深い夜の闇だけが際限なく広がっていた。
倉田が言い出さないならいいやと思っていたけれど、さすがにこれ以上彼女を引き止めておくわけにもいかない気がして、小さくため息をつく。
すると、つられるように窓のほうを見た倉田も、おれと同じことを考えたらしいのがわかった。すぐにこちらへ視線を戻した彼女と目が合う。それから
「――あ、あの、ラプソディって」
口を開きかけたおれをさえぎるように、あわてた様子で口を開いた。
「さっき弾いてくれた、ブラームスのラプソディって、本当は2曲あるんだね」
だいぶ出し抜けな言葉にちょっと戸惑いながら、うん、と相槌を打てば
「CD買ったときに知ったの。1番はね、永原くんに聴かせてもらったときからすごく好きになったんだけど、CD聴いてたら、2番も素敵だなあって思って……あの、永原くん、2番も弾けるの?」
「まあ一応」
頷くと、倉田はぱっと表情を輝かせた。「ほんと?」と弾んだ声で聞き返す。
しかしすぐに恥ずかしそうに下を向いたとか思うと、なにやら迷うように口ごもり始めた。細い指先がまた落ち着きなく頬を掻く。
そのままたっぷり十秒ほど黙り込んだ彼女は、やがて、意を決したように短く息を吸い
「……聴きたい、な」
精一杯勇気を振り絞ったような声で、ぽつんと言った。
え、と聞き返せば、彼女はかすかに頬を赤らめ
「ラプソディの、2番も」
おれはしばし黙って彼女の顔を見つめた。
それから、ちょっと苦笑して目を伏せると
「でもおれ、CDみたいに上手くは弾けないよ」
「いいよ」
呟けば、倉田は間を置かずに勢い込んだ調子で返す。
「永原くんの弾くラプソディが、聴きたい」
妙にはっきりとした口調で言ってから、彼女はまた軽く顔をうつむかせた。
「あの、私……」よりいっそう頬を染め、聞き慣れた小さな子どもみたいな声で、呟く。
「好き、なんだ。永原くんのピアノの音」
静かに告げてから、倉田はふっと視線を上げ、おれを見た。少し恥ずかしそうに、けれどとても穏やかに微笑み、重ねる。
「すっごく、すっごく好きなんだよ」
おれはただ黙ったまま彼女の顔を見ていた。
なにか言わなければいけないところのような気もしたけれど、結局なんの言葉も浮かばなくて、代わりに横の棚から楽譜を一冊抜き取り、ページを捲る。
それを譜面台に置くと、今度は部屋の奥から椅子を持ってきて、ピアノの傍に突っ立っている倉田の前に置いた。
倉田は一瞬きょとんとした表情で目を瞬かせていたけれど、すぐに思い当たったように、嬉しそうな笑みを浮かべた。
いそいそと椅子に座り、軽くピアノのほうに身を乗り出す。そんな彼女におれも小さく笑みを返してから、そっと手のひらを鍵盤に載せた。
一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。譜面を見上げ、指先に力を込める。
こぼれた音色はすぐに部屋中を包んだ。
外を行き交う車のエンジン音も、強い風の音も、平坦な夜の闇も、全部があっという間に遠ざかる。ただ隣にいる彼女の呼吸だけが寄り添うように傍にあって、それ以外はもうなにも、わからなくなった。
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