第34話 目眩

「え、そんなやついたっけ? うちのクラス?」

 ふいに耳を打った声に、心臓が一度大きく音を立てた。

 ぼうっと手元のプリントに落としていた視線を上げる。そうして後ろを振り返れば、数メートル先を二人の男子生徒が歩いていた。


 どちらも見覚えのない顔だったことに、とりあえずほっとする。

 同じ小学校だったやつではない。まだ全員の顔を覚えている自信はないけれど、おそらく同じクラスの生徒でもないだろう。

 それを確認してから視線を戻したとき、「なに、覚えてねえの?」と後ろではもう一人のほうがあきれたような声を上げた。

「お前の後ろの席のやつだぞ。覚えてんだろ、普通」

「マジで? いやほら、まだ入学して一週間しか経ってねえからさあ」

「にしたって、近くの席のやつくらいは覚えるもんだろ、一週間もあれば。俺は覚えてるし」

「いやあ、だってそいつ、すっげえ存在感薄いんだもん。いるのかいねえのかわかんねえくらい」

「うっわ、お前ひっど」


 奇妙によく通る笑い混じりの声に、手のひらにはうっすらと汗が滲む。

 自分のことを話してるのではない、と心の中で言い聞かせてみても、いやに聞き覚えのあるその言葉に、じわじわと鼓動が高まり腹の底に冷たいものが沈み込んでいくのはどうしようもなかった。

 ぐっと唇を噛みしめ、振り払うように足を進める。そのとき、ふいに頭の奥で低い声が響いた。

 ――永原? うそ、あいつ、俺らと同じクラスだったっけ?

 それは、はっきりと嘲弄の色をした、冷たい声だった。

 指先からすうっと熱が引いていくのを感じ、思わず下駄箱へ伸ばしかけた手を止める。耳元で、せせら笑う声が響いた。

 ――俺、マジで全然覚えてねえんだけど。影うっすいからさあ、いてもいなくても変わんないっていうか。つーかあいつ、明日急に死んだりしても気づかない気がする。


 記憶は、頭を押さえつけるような重たさとともに容赦なくよみがえってくる。すぐに喉を締め上げるような息苦しさもおそってきて、閉め出すよう、ぎゅっと目を閉じた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

 もうなにも考えないようにしようと思うのに、いつもうまくいかない。

 喉奥から這い上がってきた苦みに奥歯を噛みながら、改めて下駄箱に手を伸ばす。そうして中に入っていた靴を取りだそうとしたとき、ふと、左手に握っていたプリントが指先をすべった。

 あ、と小さく声をあげたときには、とっくにそのプリントはおれの手を離れ、しかもタイミング悪く吹きつけた風に吹き飛ばされ、昇降口の外に落ちていた。


 ため息がこぼれる。仕方なくスリッパのまま外に出ると、のろのろとプリントを拾いに行く。

 しかしおれが拾うより先に、そこを通りかかった一人の女子生徒がプリントに気づき、それを拾い上げた。

 プリントの中身をちらっと確認した彼女は、すぐに、持ち主を探すように辺りを見渡す。そしておれの姿を認めると、あ、と小さく呟いてから、早足にこちらへ歩いてきた。

「あの、これ……」

 おどおどとプリントを差し出してきたのは、肩に触れるくらいの髪を低い位置で二つに束ねた女子生徒だった。

 どこか緊張した面持ちでこちらを見つめるその表情は、セーラー服がぎこちなく感じられるほどあどけない。見覚えのない顔だったため、同じクラスの生徒ではないようだ。

「……ありがとう」

 そう言って差し出されたプリントに手を伸ばしかけたとき、ふと彼女がなにかに気づいたように、そのプリントをぱっと引っ込めた。そして代わりに、左手に持っていた自分の分のプリントをこちらへ差し出してきた。

「はい」

 直前の行動をちょっと怪訝に思いながらも、どちらのプリントだろうと中身は同じはずなので、おれはなにも訊かずにそれを受け取る。それから改めて彼女の顔を見た。

 しかし今度は目は合わなかった。人と目を合わすのが苦手なのか、こちらの視線を避けるように素早くうつむいた彼女は、そのまま自分の足下に視線を落としてしまった。

「えっと」と困ったように小さな声を漏らす。その反応にこちらも少し困ってしまって、次の言葉を探しあぐねていたとき


「歩美ー?」

 遠くからふいに声が飛んできた。彼女が弾かれたように顔を上げ、後ろを振り返る。

 おれも一緒にそちらへ目をやると、男子生徒が一人と女子生徒が一人、体育館の入り口のところからこちらを見ていた。彼女の友達らしい。

「なにやってんだよ、置いてくぞー」

 続けて飛んできた声に、「わあ、ま、待って」と彼女があわてた声を上げる。それからこちらを向き直り「じゃあ……」とぎこちなく会釈をすると、すぐに彼らのもとへ駆けていった。

 何とはなしにその背中を見送ってから、踵を返しかけたとき


「――あれ? 歩美ちゃん、どうしたの? そのプリント」

 かすかに耳に届いた声に、ふたたび足を止めた。後ろを振り返る。

 三人はまだ体育館の入り口のところに立っていた。今度はショートボブの女子生徒のほうが怪訝な顔で、彼女の手元を指さし尋ねている。

「なんか濡れてない? どうかしたの?」

「あ、うん。さっき、ちょっと落としちゃって……」

 彼女がちょっと困ったように笑って答える。その言葉におれは軽く眉を寄せ、今し方プリントが落ちていたはずの場所まで歩いていった。

 そうして、ようやく彼女の不思議な行動の理由を理解する。そこには濁った水のたまった小さなくぼみがあった。


 視線を上げれば、三人は相変わらず体育館の入り口に立ち止まったまま、楽しげに会話を続けていた。

 彼女もさっきよりずっと幼い表情を浮かべ、二人の話に本当に楽しそうに笑っている。先ほどおれの視線を避けたときとは違い、しっかりと目の前の二人の顔を見つめて言葉を交わしている彼女の横顔を眺めながら、ぼんやり思う。

 ――あんなふうに、すればいいのだろうか。

 あんなふうに、なんの打算もなく、当たり前みたいに人に優しくできたら。

 そうすれば、誰かに嫌われることなんてないのだろうか。ただそれだけで、いいのだろうか。


「……あゆみ」

 二人が呼んでいた、彼女の名前。確認するようにその名前を呟いてみながら、ふっと自分の手元に目を落とす。

 そこに握られたプリントには、当然汚れも湿りもなにもない。それを目にした瞬間、全身を覆っていたはずの冷たさが、急速に押し流されていくのを感じた。代わりに残ったかすかな息苦しさが、ゆるく喉を締め付ける。

 ふと視線を上げた先、校舎の横に並ぶ桜並木があった。風が吹くたび木々がざわめき、白い花びらが舞い散る。今までは気にも留めなかったその景色に、なぜだかふいに目を奪われた。

 ああ、あの子がいい、と、目眩がするほど強く、そう思った。



 風呂を出て、倉田の用意してくれた着替えを着てから二階に上がると、もうだいぶ薄暗くなった家の中、おれの部屋の電気が点いていた。

 ドアを開けると、中では倉田が床の上に教科書とノートを並べて、ようやくそれらを乾かしているところだった。濡れたおれの制服は丁寧にハンガーに掛けられ、部屋の隅に吊されている。

 その光景にちょっと困惑して部屋の入り口に立ちつくしていると、気づいた倉田が顔を上げ、あ、と呟いた。

「ちゃんと暖まった?」

 ひどく柔らかな声で向けられた質問に、なんだかまた息が詰まる。

 おれはゆっくりと視線を動かし、倉田の顔を見た。

「……もう帰ったかと思った」

 ぽつんと呟けば、倉田はきょとんとした顔をして

「帰らないよ」

 そう言った彼女の口調がどうしようもなく真っ白だったことに、また少しだけ泣きたくなって、目を伏せる。

 人の気配のいない家の中は、彼女のひそめた呼吸すら届くほど静かだった。窓の外で強い風の音がする。

「なんで」

「え?」

「おれ、倉田にもひどいことしたよ」

 倉田はなにも言わなかった。床に座り込んだ姿勢のまま黙り込み、ただじっとこちらを見ていた。


 外から響く風の音だけが部屋を包む。日はかげり、窓の外にはゆっくりと夜の闇が訪れようとしていた。そんな光景をぼんやり眺めていたら、やがて、すっと短く息を吸う音が聞こえ

「永原くん」

 長い沈黙を挟んだわりに、とても落ち着いた静かな声で、彼女が口を開いた。

「あのね、私、ずっと、永原くんにお願いしたかったことがあって」

 視線を戻すと、倉田はまっすぐにこちらを見ていた。ちょっと緊張したような、けれどひどく優しい表情だった。

「なに」と短く聞き返せば、彼女は少し恥ずかしそうに表情を崩し

「ピアノ、聴きたいな」

 だいぶ予想もしていなかった言葉が出てきて、おれはちょっと面食らう。

「ピアノ?」呆けたように繰り返すと、倉田は「うん」と大きく頷いてみせ

「ブラームスの、ラプソディ」

 はにかむような幼い笑顔で、そう付け加えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る