第33話 溺れる
玄関の鍵をあけて中に入ると、おれにはここで待っているよう言い置いてから、倉田はさっさと家の奥へ走っていった。
いつもはソファに座るにもいちいちおれの許可をとっていた彼女だけれど、今日はそんな余裕も残っていなかったらしい。まるで自分の家に招いたかのような遠慮のなさで洗面所まで駆けていった倉田は、すぐにその手に大きなバスタオルを持って戻ってきた。
彼女に促されるまま、渡されたバスタオルで濡れている部分を拭き、水を吸った制服の裾を絞る。それから靴と靴下を脱いで家にあがった。
その間、倉田は相変わらずの遠慮なさで、今度は勝手におれの鞄を探っていた。しかし目的のものが見つからなかったのか、しばらくして困ったように顔を上げると
「あの、永原くんの部屋から、私が適当に着替え持ってきてもいい?」
と訊いてきた。どうやら体育の授業で使うジャージが入っていないかと探していたらしい。
頷けば、彼女はすぐに立ち上がり、慌ただしく二階へ上がっていく。それから一分も経たないうちに、厚手のTシャツとスウェットを手に戻ってきた。
「とにかく、早く着替えたほうがいいよ」言いながら、てきぱきとおれに着替えを渡す。それからふと思い出したように
「あと、お風呂とかもう沸かしていいなら、早く沸かして入ったほうがいいんじゃ」
そう言われ、大丈夫、とおれは首を横に振った。
「そこまで冷えてないから。着替えれば平気だよ」
「うそ。すっごい冷えてるよ」
間髪入れず強い調子で言い返され、おれはちょっと苦笑してから
「いや、今日はお風呂沸かさない日だから、うち」
言うと、倉田はきょとんとした顔でこちらを見た。
「沸かさない日って、どうして?」
「今日、親がどっちも帰ってこなくて。おれ一人しかいないのにお風呂沸かすのもったいないし、こういう日はシャワーで済ますようにしてて」
「帰ってこない?」
何気なく口にした言葉をなぜかやたら深刻な声色で聞き返され、おれはまた苦笑すると
「うん。父親は出張で、母親は夜勤。しょっちゅうあるよ、こういうこと。うち、共働きだし」
「じゃあ、今日の晩ご飯ってどうするの?」
心底心配そうにそんなことを訊かれ、今度はおれがきょとんとする番だった。「どうって」相変わらずいやに深刻な表情でこちらを見つめる倉田に、ちょっと困惑しながら答える。
「なんか適当に食べるよ。昨日の残りとかあるし」
「一人で?」
「うん」
頷くと、倉田はますます心配そうな表情になり
「ご両親が二人とも帰ってこない日は、永原くん、いつもそうしてるの?」
やたら深刻な口調のまま、そんな質問を続けた。うん、とおれは苦笑しながら頷いて
「べつに、一人でご飯食べられないような歳でもないし。そんなめずらしいことじゃないと思うけど。両親が共働きで二人とも帰りが遅い家なんて、うち以外にもたくさんあるよ。ていうか倉田の家だって」
そうなんじゃないの、と尋ねかけた言葉は喉で消えた。
ああ、そうか、と心の奥に低い呟きが落ちる。倉田にはないのだろう。両親がいなくても、一人で夕飯を食べる日なんて。
いつか聞いた八尋の言葉を思い出す。奇妙にはっきりとした形で、その言葉は記憶に焼き付いていた。そうしてようやく、倉田の心配そうな顔の理由を理解する。
途端、身体の底に重たいものが沈み込んだ気がして、おれは思わず視線を落とした。
すると廊下の隅に無造作に放られた紺色の鞄が目に入り、はっとする。
「倉田、それより倉田の教科書とかは」
「へ?」
唐突に口を開くと、倉田はなにを言われたのかわからなかったように顔を上げた。おれは廊下に転がる彼女の鞄を指さしながら
「濡れてたし、早く乾かしたほうがいいよ。あの中の教科書とかノートとか」
「え、いいよそんなの。大丈夫」
一秒も間を置くことなく首を振ってみせた彼女に、思わず眉を寄せる。そうして、「いや大丈夫じゃないって」と反論しかけたとき
「それより、永原くんのほうが先だよ」
倉田はきっぱりとした口調で言い切って、またおもむろにおれの手を掴んだ。それから
「ね、やっぱりお風呂沸かそう。永原くん、今日はお風呂に入って暖まったほうがいいと思う、絶対」
言いながら、こちらの返事は待たずに、彼女らしくない強引さでおれを風呂場まで連れていった。
脱衣所におれを残し、倉田はさっさと浴室へ入っていく。それから口を挟む間もなく、浴槽の脇にしゃがみ、蛇口をひねった。
あふれ出る水流の下に手をかざし、手早くお湯の温度を調整する。そして浴槽に栓をすると、傍らに立てかけられていた浴槽蓋を手に取り、浴槽に重ねた。
おれは手持ち無沙汰に浴室の入り口に突っ立ったまま、てきぱきとそんな作業をする倉田の姿を、ぼんやり眺めていた。
しばらくして、ようやく思い出したように彼女がこちらを振り向く。そしておれと視線を合わせた途端、あっ、とあわてたように口を開いた。
「ご、ごめんね、私、勝手に……」
急にここが他人の家であることを思い出したのか、そんな今更なことをおろおろと謝る。おれは黙って首を横に振った。
途端に居心地が悪そうな表情になった彼女は、「えっと」と呟きながら視線を彷徨わせる。それからふと思い当たったように
「あ、永原くんの部屋、暖房つけててもいいかな。永原くんがお風呂入ってる間に暖まると思うから。あ、あと制服も乾かさないといけないから、乾燥機とか」
うん、と小さく呟いて、おれは浴室に入った。
きょとんとこちらを見上げた彼女の前に膝を折り、目線を合わせる。そのまま覆い被さるように抱き締めたら、わ、と腕の中で小さな声が上がった。
驚いたようにバランスを崩した彼女の背中が、後ろの浴槽に軽くぶつかる。
かまわず両腕に思い切り力を込めると、芯から熱をなくした指先がかすかに震えた。
相変わらず片腕にもあまるほどか細いその身体の、けれど自分よりずっと高い体温に目眩がする。寒さなんてさほど感じていなかったはずなのに、その温もりに触れたらもう駄目だった。
震える指先を彼女の髪に絡ませ、顔を埋める。途端、溺れそうなほどの熱が全身を巡り、息が詰まった。
「永原く」
「ねえ倉田」
押しつけた身体から、彼女の体温が染み入ってくる。反対に、熱いくらいだった彼女の身体はしだいに熱を失っていくのを感じて、おれはいっそうその熱を奪うように力を込めてみた。
こんなふうに、おれの汚さが彼女に移ればいいのに。
彼女に触れるたびそんな途方もないことを願ってみるのだけど、結局そんなことは叶わなくて、おれがなにをしても、彼女は変わらない。いつだって。彼女はなにも失わない。おれにはなにも、奪えない。
おれだけだった。最初から、なにもかも。
「おれ、倉田がいるだけでいいよ。他にはなんにもいらない。倉田だけでいい。ねえ、だから」
羽根をもいで、爪を折って。一人ではなにもできない、どこへも行けない、そんな、あきれるほど脆弱で無力な存在になってしまったのも。動くたび首に巻き付いた細い糸が喉を締め上げて、身動きがとれずにいるのも、全部。
「ここにいて。おれの傍にいて。お願いだから」
縋るように、両腕に力を込める。力を加えすぎたらそれだけであっけなく砕けてしまいそうな頼りない身体を、それでも力加減なんてできずに思い切り抱き締める。
けれど本当はこの身体は頼りなくなんかなくて、今もたくさんのものを抱えていて、だから彼女はまだどこへでも行ける。一人でだって、好きに歩いていける。
だけどおれは、もう駄目だった。
この手を離せば、きっと、その瞬間に息すらできなくなる。苦しさにもがいて、数歩も進めないうちに倒れて死んでしまう。大袈裟でも比喩でもなく、本気でそう思った。
だから。
「どこにもいかないで。おれ、倉田がいないと、生きていられないよ」
もう、ここから、一歩も動けない。
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