第28話 代償
教室に満ちる空気は、昨日と変わらなかった。
面と向かって糾弾されたり罵倒されたりすることはない代わりに、クラスメイトたちは腫れ物を扱うように遠巻きにこちらを眺め、小声でひそひそとささやき合っている。
当然、会話の内容までは聞こえてこない。けれど彼らがなにを話しているのかなんて、考えなくてもわかった。
おれは黙って自分の席まで歩いていくと、鞄を下ろした。その間もちらちらとこちらへ投げかけられる視線がうっとうしくて、席に着くより先に教室の後方に並ぶロッカーに向かう。
開ける前に一瞬だけ嫌な予感がよぎったけれど、入れていた荷物は昨日と同じ状態のままそこにあった。そのことにとりあえずほっと息をつき、中から学校指定のジャージを引っ張り出す。そしてそれを手に教室を出て行こうとしたときだった。
ちょうど教室に入ってこようとしていた倉田と、戸口のところで顔を合わせた。
あ、と小さく声を上げて彼女が足を止める。それからぎくしゃくと視線を落とし、一歩後ろへ下がった。
ほとんど条件反射のようなその仕草に、一瞬、ひどく悲しい気持ちにおそわれたような気がしたけれど、おれはなにも気づかない振りをした。
「……おはよう、倉田」
いつもと同じように声を掛ければ、倉田もかすかに強張った表情のまま顔を上げ、「お、おはよう」と同じ言葉を返す。思い切り緊張した声だった。
「風邪、もう大丈夫なの?」
「う、うん、もうすっかり。熱も下がったし」
答えかけて、倉田はふと言葉を切った。驚いたように目を見開き、「それ」とおれの髪を指さす。
「どうしたの? なんで濡れて」
「倉田さーんっ」
なにか尋ねかけた倉田の言葉を遮り、教室のほうから高い声が飛んできた。
振り返ると、佐々木が自分の席からこちらを見ていた。
相変わらず、右目はいかにも痛々しい様子で眼帯に覆われている。彼女はちらっとおれの顔を一瞥したあとで、まっすぐに倉田のほうを見ると
「ね、倉田さん、こっち来て一緒にしゃべろ?」
言って、人懐っこい笑顔で手招きをした。
え、と倉田がびっくりした様子で声を漏らす。佐々木はすぐに席から立ち上がりこちらへ歩いてくると、「いいから、来て来て」と甘えるように彼女の腕を掴んだ。
「あのね、すっごい面白い雑誌があるんだよ。倉田さんも一緒に見ようよ。ね?」
言いながら、戸惑ったように突っ立っている倉田の腕を引いて歩き出す。それに引っ張られるまま倉田が佐々木の席のほうへ歩いていくと、途端、他の女子生徒たちも一斉に佐々木の席に集まり始めた。
輪の中心に倉田を押しやり、取り囲むように席の周りに立つ。それから佐々木が引き出しから雑誌を取り出し、「じゃーんっ、見よ見よ」と満面の笑みで倉田の前に広げていた。
なんともあからさまな行動に小さくため息をついて、踵を返す。
そのときふと、窓際の席からじっとこちらを見ていた高橋と目が合った。けれどその視線はすぐに気まずそうに逸らされ、隣の友人のほうへ向けられる。
そんな様子なのは高橋だけではなかった。先日まで休み時間や移動教室の途中によく話していたようなクラスメイトも、皆、今はできるだけおれと視線を合わせないよう努めているようだった。
頑なにこちらを見ようとはしないし、当然、誰も話しかけてなどこない。どうやら、佐々木についての噂はとっくにクラスの隅々にまで行き渡っているらしい。そして皆、それを信じているのだろう。きっと、なんの疑いもなく。
だけどそのこと自体は、とくにショックを受けるようなことでもなかった。悲しいとも思わない。そもそも、きっと自分のことを信じてくれると期待していた友人なんて、最初から一人もいない。
あの日、倉田と八尋がなんの迷いもなく羽村を庇ったように。無条件に自分を信用してくれる誰かなんて、おれにはいない。一人も。そう自覚する頭だけは奇妙なほど冴えきっていて、一片の曇りもなかった。
四限目の移動教室から戻ってくると、机に提げていた鞄がなくなっていた。それに気づいたときも、胸の中は奇妙に静かなままだった。
抱えていた教科書を机に置き、昨日と同じように、まずは教室のゴミ箱を覗く。そしてそこにおれの鞄が押し込まれていないことを確認すると、教室を出て、まっすぐに外のゴミ捨て場に向かった。その間もクラスメイトたちは気になって仕方がない様子で遠巻きにこちらを眺めていたけれど、やはり誰も話しかけてこようとはしなかった。
一日を過ごしていくうちにわかったことは、一組のクラスメイトたちに、持ち物を隠すだとか捨てるだとか、そういったあからさまな嫌がらせを行う気はないらしいということだった。
ただ腫れ物を扱うようにおれを避け、陰でひそひそと噂話をする。彼らがこちらへの敵意を示すために行っていることは、それだけだった。どうやら佐々木も着々と噂が広まればそれで満足のようで、より具体的な攻撃に移るつもりはないらしい。
だとしたら、考えられる可能性はもう一つしかなかった。きっと昨日の教科書やノートも、羽村が直接持ち去ったのだろう。彼だけは、おれが皆に避けられ陰口を叩かれることで、あっさり満足するとも思えなかった。
校舎裏に回り、ゴミ集積用の物置を開ける。相変わらず鼻を突くようなすえた臭いが立ちこめているその中に、ゴミ袋以外のものはとくに見あたらなかった。
いちおう床に転がっているゴミ袋を持ち上げてその下も確認してから、物置を離れる。それから、今度は物置の横に設置された焼却炉を覗いてみた。しかしそこにあったのも真っ黒な灰だけで、探し物を見つけることはできなかった。
小さくため息をつき、焼却炉の縁に掛けていた手を離す。いったいどこまで持って行ったのだろう、とうんざりした気分で考えながら黒く汚れた手を払っていたとき
「――逃げんなって言ったのに」
ふいに、後ろから低い声がした。
振り返ると、朝と同じように、羽村が無表情にこちらを見ていた。
隣には八尋の姿もあった。彼女の姿を見るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
以前よりいくぶん青ざめたように見える顔で、静かにこちらを見据える八尋からは、普段彼女が振りまいていた明るさだとか愛想の良さが、一つ残らず剥ぎ取られている。それは羽村のものとよく似た、能面のような無表情だった。
羽村はその場に立ち止まったまま、おもむろに右手を持ち上げる。そこには見慣れたカーキ色の鞄がぶら下がっていて、おれは眉を寄せて彼の顔を見た。
「……なにがしたいの、おまえ」
羽村はすっと目を細め、口元に笑みを刻んだ。
「なにって」鞄の留め具を外し、肩紐を掴んでいた手を鞄の底のほうに持ち替える。そうして持ち上げた鞄を、地面に向けひっくり返した。
派手な音を立て、教科書やノートが地面に散らばる。相変わらず、一連の動作に躊躇などみじんも混じらなかった。
眉を寄せたまま彼の行動を眺めるおれに、羽村は視線を上げ、にこりと無機質な笑みを向ける。そして至極平坦に、告げた。
「お前に、ひどいことしたいだけだよ」
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