第29話 裁き
ぐしゃり、羽村の足下でノートが歪む。白い表紙が砂で汚れる。
これと同じ光景を、以前にもどこかで見た気がした。
「陸上部ってさあ、春に大会とかないんだよ」
羽村は無表情にその光景を見下ろしながら、独り言のような調子で口を開く。ひどく静かで、抑揚のない声だった。
「だから今度の県大会が、引退前の最後の試合で。まあ次の大会まで進めば最後にはならないんだけど。でも多分そんなの無理だ。県大会に進めただけでも奇跡って感じだったし、うち。それに」
吹きつけた風が、ノートの表紙を捲り上げる。羽村はその上からふたたびノートを踏みつけた。ページが折れ曲がり、中に書かれていた文字が滲む。
「進めたとしても県大会と同じメンバーでいくらしいから、どうせ、俺はもう出られないし」
淡々とした口調とは裏腹に、ノートを踏みつける足には絶えず力が込められる。地面と靴裏の間で、びりっと紙が破れる小さな音がした。
「俺はさ、他の部員が頑張って良い結果残してくれればそれでいいとか、そんなふうには思えない。結局、陸上って個人競技だし、自分が走れなきゃ何の意味もない。大会なんて」
忌々しげに吐き捨ててから、彼はおもむろに制服のポケットに手を突っ込む。
「何にも、意味、ないんだよ」
すぐに取り出されたその手に握られていたのは、ライターだった。
百円で売られているその使い捨てライターを少しの間眺めてから、羽村は地面に散らばる教科書とノートのほうへ視線を戻す。彼がなにをしようとしているのかなんて、すぐに察しがついた。
羽村が指を滑らせると、かち、と音がしてライターに火がともる。
彼はそこでふっと視線を上げ、おれの顔を見た。なんの奥行きもない、これ以上なく平坦な目だった。
すぐにその視線は外れ、ふたたび足下へ落ちる。そうして、手にしたライターを一冊の教科書のほうへ近づけた。
しかし途中で、その手はふと動きを止める。
なにかに気づいたように視線を上げた羽村が、こちらを見た。
「……なんだ」おれではなくおれの背後へ視線を投げかけ、ぼそりと呟く。
「結局来たのか」
振り返ると、倉田が数メートル先に立ちつくしてこちらを見ていた。
状況がよく呑み込めていないのか、呆然とした表情で顔を強張らせている。
そして地面に散らばる教科書とノートに目を留めた途端、ぎゅっと眉を寄せ、羽村のほうを見た。
「こ、浩太くん?」
どこか混乱した様子で、おろおろと問いかける。
「なにしてるの? あの、それ」
羽村は手にしたライターを隠そうともせず、まっすぐに倉田の顔を見つめ返した。とくに動じた様子もなかった。
「なにって」なんの感情も混じらない声で、素っ気なく返す。
「見りゃわかるだろ」
倉田はなにか信じがたいものを見るような目で、じっと羽村を見つめていた。
それから我に返ったように視線を動かし、おれの顔と八尋の顔、そして羽村の足下で砂に汚れているノートを順に眺めた。
そこでようやく理解したのか、彼女の表情がよりいっそう引きつる。「あ、あの」強張った声を出しながら、倉田は早足にこちらへ歩いてくると
「こ、こういうの、よくないよ」
「なんで」
羽村は無表情に倉田の顔を見つめたまま、平淡に突っ返す。それに倉田が驚いたように口をつぐむと、羽村はどこかあきれたような調子で
「最初になんかしてきたのはこいつだろ。俺らはやられたからやり返してるだけだよ。俺らがされたのと同じこと。あんだけやったんだし、自業自得なんじゃねえの、これくらい」
「で、でも、永原くんは、浩太くんたちに、こんなことしなかったよ」
必死な声色で告げられた言葉にも、羽村の表情はみじんも動かなかった。相変わらず平坦な声で、「そうだな」となんとも素っ気ない相槌を打ってから
「言っとくけど、俺、二組のやつらも許す気なんかねえよ。誰がなに言ってなにしたのかとか全部覚えてるし、全員すっげえむかつくけど、でもそいつら全員に仕返ししてるほど俺も暇じゃないし。誰か一人選べって言われたら、やっぱこいつじゃん。だから」
「でも、こういうのって……」
さらになにか言い募ろうとする倉田を羽村はあからさまにうんざりした目で一瞥してから、踏んでいたノートを思い切り蹴り上げた。
ばさりと音を立て、ノートは砂埃と一緒に地面を跳ねる。それから、中程のページを開いてふたたび地面に転がった。
倉田が驚いたように羽村を見る。しかし羽村は倉田の顔は見ることなく、手にしていたライターをポケットにしまうと、おれのほうを向いた。
おれは黙って地面にしゃがみ、目の前に落ちるノートへ手を伸ばす。
倉田は困り果てた様子でその場に立ちつくし、何度も羽村の顔とおれの顔を見比べていた。そうして、「あ、あの」とまたなにか口を開きかけたとき
「ねえ歩美ちゃん」
それまで羽村のすることを黙って眺めていた八尋が、ふと口を開いた。
「歩美ちゃんは、わたしたちの味方、してくれないの?」
え、と倉田が困惑した声を漏らすと、八尋は軽く首を傾げ
「わたしたち、親友でしょう。ずうっと昔から家族みたいに一緒に過ごしてきた、幼なじみでしょう。永原くんとなんて、結局、まだ一年も付き合ってないじゃない。ね、歩美ちゃん。どっちのほうが大事かなんて、そんなに迷うようなことでもないんじゃないのかな」
倉田はなんだか泣きそうに顔を歪め、八尋の目を見つめ返した。
「だ、だけど」ゆるゆると首を振りながら、言葉をたぐるようにして言い募る。
「やっぱり、よくないよ。こういうふうに、誰かを傷つけるのって、絶対」
「歩美は優しいな」
なにか言いかけた倉田の言葉を遮り、羽村が低い声で呟いた。内容とは裏腹に、まったく感慨の伴わない声だった。
「でも」数歩こちらへ歩み寄り、地面にしゃがみ込むおれを見下ろす。
「たまにイライラする。歩美の、そういうとこ」
羽村が吐き捨てるように続けるのと、教科書のほうへ伸ばしたおれの手に固い靴裏が重ねられるのは、同時だった。
間髪入れず思い切り体重がかけられ、手のひらが地面に押しつけられる。
容赦も躊躇もなかった。倉田がぎょっとしたように「浩太くん!」と高い声を上げる。羽村は当然のようにそれを黙殺して、踏みつけた足にぎりぎりと力を込める。脅しの力ではなかった。骨が軋む嫌な感覚がして、思わず唇を噛みしめたとき
「やめようよっ、浩太くん!」
倉田があわてたように羽村の腕を掴み、思い切り自分のほうへ引き寄せた。
引っ張られるままよろめいた羽村の足は手の甲から離れ、側の地面に落ちる。それでも倉田は、両手で抱き締めるように羽村の腕を掴んだまま放さなかった。「ね、ねえ浩太くん」引きつった表情で羽村を見上げ、泣きそうな声で告げる。
「駄目だよ、こんなの。やめようよ。仕返しなんてしたって、何にも」
羽村は一瞬だけ表情の消えた目で倉田を見つめてから、乱雑な仕草で彼女の腕を振りほどいた。「もういいや」と小さく呟く。そうしてもう一度地面に落ちるノートを踏みつけてから、おもむろに踵を返した。
八尋も後に続くように歩き出したけれど、倉田はその場に突っ立ったまま迷うようにこちらを見ていた。
地面に散らばる教科書と、おれの顔へ順に目をやる。それから、「あの、永原くん」となにか口を開きかけたのがわかったが
「歩美」
遮るように、羽村の低い声が飛んできた。
「さっさと来いよ」
立ち止まりこちらを振り返った彼が、倉田に向け短く告げる。有無を言わせぬ、高圧的な口調だった。
倉田は困ったように眉を寄せ、羽村のほうを見る。それからまたなにか言い返そうとしたようだったが、羽村はそれを許さずに重ねた。
「いいから、来いっつってんだよ」
倉田が驚いたように目を見開き、羽村を見つめる。羽村は無言のままその目を見つめ返した。なんの感情も混じらない、ビー玉みたいな目だった。
短い沈黙のあとで、うつむいて軽く唇を噛んだ彼女は、やがて観念したように踵を返す。そうして無表情に彼女を待つ二人のもとへ、のろのろとした足取りで歩いていった。
「――あ、そうだ歩美」
倉田が目の前まで歩いてくるのを待ってから、羽村がふと思い出したように口を開く。
「携帯、貸して」
え、と倉田はなにを言われたのかよくわからなかったように顔を上げた。
羽村はすっと右手を差し出しながら、「お前の携帯」と同じトーンで重ねる。
「貸して、歩美」
静かだが、反論する隙などみじんも与えない口調だった。
言われるまま倉田が制服のポケットから携帯を取りだし、羽村に渡す。すると彼は当然のように中を開き、しばらく無言でなにか操作していた。
やがて操作を終えたらしい羽村は、携帯から視線を上げ、倉田の顔を見る。そうして不安げに彼の行動を見つめていた彼女に
「なあ歩美」
携帯を返しながら、小さな子どもへ向けるかのような優しい声色で、告げた。
「永原とは、もう、関わんじゃねえぞ」
どこかで聞いた気のする、台詞だった。
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