第27話 暗闇
どのくらい時間が経ったのかは、よくわからなかった。
扉の隙間からかすかに差し込んでいた夕日も消え、狭い物置は完全な暗闇に覆われている。いちおう風は遮られているけれど、まとわりつく空気は芯から冷たくて、頬や指先はとっくに体温をなくしていた。ずっと同じ体勢でいたせいで痺れた爪先は、動かそうとするたび引きつったような痛みを広げる。
おれは何度目になるかわからないため息をついてから、冷たいステンレスに背中を押しつけた。感覚のない指先をポケットに押し込み、ゴミ袋に埋もれるようにうずくまる。
中には生ゴミも混ざっていたようで、物置の中にはすえた臭いが立ちこめていた。視界が遮られると、その臭いがさらに鼻をつく。時間が経つたび腐臭は服にも皮膚にも染みこんで、このまま一生剥がれなくなってしまいそうだった。
硬く静まりかえっていた空気がふいに動いたのは、本当にここで一晩過ごすことになるかもしれない、とあきらめて覚悟を決めかけたときだった。
そう遠くない距離から足音が聞こえてきた。おれはポケットから右手を出すと、物置の戸を何度か叩いてみた。
ほとんど駄目もとだったけれど、足音はいったん止まったあとで、今度は早足にこちらへ近づいてきた。どうやら気づいてくれたらしい。声を張り上げるだけの気力はなく、おれはもう一度戸を叩いた。
こちらへ駆け寄ってきた足音はやがて物置の前で止まり、「誰かいるんですか」とちょっと警戒した調子の声が投げかけられる。聞き覚えのない、大人の男の人の声だった。
頷いてから開けてくれるよう頼むと、がちゃっと鍵が外れる音がして、すぐに戸が開いた。立っていたのは、グレーのロングコートを着た初老の男性だった。犬の散歩の途中だったらしく、かたわらに小さな柴犬を連れている。この近所に住んでいる人のようだが、見覚えはなかった。
こんなところでなにをしていたのかと怪訝そうに尋ねてくる彼に、うまい言い訳を考える余裕はなかった。適当に曖昧な受け答えだけをして、物置に散らばっていた教科書とノートを拾い集める。
立ち上がろうとすると、痺れていた足が少しふらついた。それから、あれこれ問い詰められる前に短くお礼を言い、ゴミ捨て場を立ち去った。
鞄を取りに校舎へ戻ると、まだ職員室には電気がついていた。ずいぶん長い時間あの場所にいたような気がしたけれど、実際は二時間ほどしか経っていなかったらしい。
真っ暗な教室には、当然おれの鞄だけがぽつんと残されていた。両腕に抱えていた教科書をその鞄に移し、代わりに携帯電話を取り出す。開いてみたが、誰からも着信やメールはなかった。
家に帰ると、母はすでに帰宅していた。「遅かったのね」と不思議そうに声を掛けられたけれど、学校に残って勉強していたと言えば、それ以上問い詰められることはなかった。
夕飯を勧めてくる母に「あと少ししてから食べる」と告げ、自分の部屋に戻る。それから部屋着に着替え、脱いだ制服を手に洗面所へ向かった。
目立つ汚れはなかったけれど、やはりそこにはゴミ捨て場のすえた臭いが染みついているような気がしたので、洗剤を使って丹念に洗う。
また母が不思議そうになにをしているのかと尋ねてきたけれど、休み時間にふざけていて汚れたから、だとか適当な答えを返せば、相変わらずあっさり納得していた。
何度も繰り返し洗っているうちに、やがて手のひらには刺すような痛みが広がってくる。そこでようやく、蛇口からあふれているのが凍るように冷たい冷水であることに気づいた。
ひとつ息をつき、蛇口をひねる。それから今度はぬるま湯に変え、ふたたび制服を洗い始めた。
佐々木と羽村の笑い声が、未だ耳の奥でしつこく響いている。飴のように粘ついて剥がれないそれに、息をつくたび奇妙な息苦しさが湧く。
鼻を突くような腐臭もまだ身体にまとわりついているような気がして、早くシャワーを浴びたいと頭の隅で考えながら、洗剤をさらに追加した。
翌朝、さすがに一晩では乾ききれなかった制服を乾燥機とアイロンを使って乾かしてから、学校に行った。
通学路を歩きながら、今日、倉田は学校に来るだろうかとぼんやり考える。それから、昨日は結局彼女と連絡をとりそこねたことを、今更思い出した。
携帯を取りだし、画面を見る。相変わらずメールや着信は一件もない。ひとつため息をついてから、昇降口をくぐった。靴を脱ぎ、下駄箱に進む。そうして脱いだ靴を自分の下駄箱にしまおうとしていたとき
「――おはよ、永原」
ふいに後ろから声を掛けられた。それが誰の声なのか確認するより先に、頭の上からじわりとした冷たさが染み入ってくる。
一瞬、視界がぼやけた。髪が濡れ、頬に貼り付く。滴った雫が肩に落ち、今し方乾かしたばかりの制服を湿らせた。
「なんだ、昨日のうちに出られたんだな、お前」
驚いている間に、後ろでは心底残念そうな声が続く。
振り返ると、羽村が無表情にこちらを見ていた。
彼の右手には蓋の開いたペットボトルが握られており、それでようやくなにが起こったのかを理解する。前髪から滴った水滴が、ぱたっと足下に落ちた。
周りの生徒たちが驚いたようにこちらを見たのがわかったけれど、羽村にそんなことを気にした様子はなかった。半分ほど中身の減ったそのペットボトルに目をやり、「つまんねえの」と無表情のまま吐き捨てる。それから
「ああ、そうだ。なあ永原」
ふと思いついたように低い声を出し、ふたたびおれのほうを向き直った。
「今日さ、昼、一緒に食おうぜ」
それは、誘いというにはあまりに高圧的な口調だった。
そもそも最初からこちらの返事など求めてはいなかったらしい。おれがなにか言うより先に、「昼休みになったら迎えに行くから」と羽村は一方的にさっさと告げる。
それから、眉を寄せて彼の目を見つめ返したおれに、口元でだけ冷たく笑い、低くささやいた。
「――逃げんなよ」
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