第26話 嘲笑
指先から、すうっと熱が引いていくのを感じた。
目が眩むほどの既視感がこみ上げる。その空っぽの引き出しが意味するものなんて、考えるまでもなかった。
奇妙に息苦しい喉からなんとか息を押し出し、机から手を離す。
クラスメイトたちの視線がこちらに集まったのは、ほんの数秒だった。皆すぐに興味をなくしたように視線を逸らし、また何事もなかったかのように談笑を再開した。
おれは席を離れると、教室の後方に設置されたゴミ箱のほうに歩いていった。中を覗く。しかし今し方ゴミ捨てに行ってきたばかりらしいその中に、場違いな教科書やノートの姿は見あたらなかった。
紙くず一つ転がっていないそこを、それでも未練がましく隅まで眺めてから、小さくため息をつく。
だとしたら外のゴミ捨て場だろうか。嫌がらせがしたいなら近くのゴミ箱に捨てておけば充分だろうに、わざわざそんなところまで持って行ったのか。
うんざりした気分で考えながら、踵を返す。そうして早足に教室を出たところで
「永原」
待ち構えていたように名前を呼ばれた。
振り返ると、羽村が二組の教室の前に立っていた。
目が合うなり、彼の口元には薄い笑みが広がる。圧倒的優位に立つ者特有の、優しさすらにじむ笑みだった。
「教科書、どこにあるか教えてやろうか」
出し抜けにそんなことを言われ、おれは眉を寄せて彼の顔を見た。
かまわず目の前まで歩いてきた羽村は、高い位置からこちらを見下ろすような笑みを崩さないまま
「来いよ。連れていってやるから」
それだけ告げると、おれの横をすり抜け、歩き出した。
「なに、羽村が持って行ったの? おれの教科書」
その場に立ち止まったまま、彼の背中に向けて質問を投げる。羽村は足を止め、こちらを振り向いた。
「いいから来いよ」質問には答えず、平坦な声で繰り返す。
「見つからなかったら困るんじゃねえの。たぶん明日からは、お前に教科書貸してくれるやつなんて誰もいないだろうし」
気遣うような言葉とは反して、その声は底抜けに冷たい嘲りの色で満ちていた。
おれが黙って彼の顔を見つめれば、羽村はふたたびその口元に薄い笑みを戻し
「ほら、さっさと来いよ」
静かな、しかし有無を言わせぬ口調で、再度繰り返した。
羽村は昇降口から外に出ると、まっすぐに校舎裏へ回った。駐輪場を抜け、生徒たちの喧噪に背を向けるように歩いていく。
やがて、焼却炉の側に設置されたステンレス製の物置の前で足を止めると
「ほら、あの中」
言って、ゴミ集積用として使われているその物置を指さした。そこは、羽村に連れられなかったとしても、次に探しに行こうとしていた場所だった。
おれは黙って彼の顔を見た。あからさまに怪訝な表情でも浮かべていたのか、羽村はおれがなにか言うより先に
「なに、教科書見つからなかったら永原がカワイソウだから、わざわざ教えてやったんだろ」
早く探せば、と突き放すように言って、彼は物置の戸を開けた。
「ほら」笑いながら中を指さす。見れば、たしかにそこには、ゴミ袋が転がる中に無造作に散らばった数冊の教科書とノートがあった。
おれは無言のまま、ゆっくり物置のほうへ歩いていった。乱雑にうち捨てられた教科書とノートに目をやる。どれもたしかに見覚えのある、自分のものだった。
ひとつ息をつく。そうしてそれらの教科書を拾うため、軽く腰を屈めかけたときだった。
ふいに、隣でおれの行動を眺めていた羽村が動いた。
はっとして振り返るより一拍早く、素早く背後に回った彼に、思い切り背中を突き飛ばされる。一瞬足が地面を離れ、ぐらりと視界が揺れた。足を踏ん張る間もなかった。あっけなくバランスを崩した身体は、そのままの勢いで前のめりに倒れ込む。
気づいたときには、床に転がるゴミ袋の上に膝と両手をついていた。
驚いて後ろを振り返るのと、物置の戸が勢いよく閉められるのは同時だった。陽の光が遮られ、途端に視界が暗く覆われる。間髪入れず、がちゃんと鍵が閉められる音も続いた。
「――永原、お前さあ」
呆然としている間に、ステンレスの向こうから、羽村の笑いを噛み殺したような声が届く。
「マジで頭悪いな。ちょっとは警戒しろよ。俺がお前に、親切心でこんなことするわけねえだろ」
「……羽村」
「心配しなくても、明日の夕方になれば誰かゴミ捨てに来るって。そのときには出られんじゃねえの。一晩くらいそこで過ごしたってべつに死にもしねえだろうし、大丈夫だよ」
薄暗い愉しさに満ちたその声からは、なんの迷いも感じられなかった。罪悪感もためらいも、一欠片として混じらない。本気なのだと、否応なしに突きつけられた。
きっと、おれを置いてここを立ち去った彼は、もう二度とここに戻ってくることはない。もちろん誰かに伝えたりもしない。本気でおれをここに閉じ込めておくつもりなのだ。明日の夕方まで。
おれはゴミ袋に埋もれていた身体を起こすと、扉に近寄り、「羽村」ともう一度呼びかけようとした。
しかしそのとき
「――ああ、歩美?」
唐突に、この場にはいないはずの彼女の名前が聞こえた。
思わず動きを止める。すぐに、先ほどまでとはうって変わった優しい口調で「うん、俺だけど」と言葉が続く。
「具合どうだ? 熱下がったか?」
一瞬、わけがわからなかった。少し間を置いてから、「そっか、ならよかった」とふたたび優しい声が続く。それから
「なあ歩美、熱下がったんならさ、今からお前んち行ってもいい?」
さらにそんな言葉が続いたとき、ようやく彼が電話をかけているらしいことに気づいた。また少し間が空き、「うん、お見舞い」と羽村が頷く。
「鈴も行きたいっつってるから。二人で行くよ。ああ、なんか欲しいものとかある? 買ってってやるけど」
彼の声は、おれと喋っているときとは明らかに調子が変わっていた。口調も声色も、終始柔らかい。きっとこれが幼い頃から倉田が聞いてきた羽村の声なのだろう、とどうでもいいことを頭の隅でちらっと思う。
ややあって、彼女の答えを聞き終えたらしい羽村が「わかった」と頷いた。それからよりいっそう優しい声に変えて
「……なあ歩美、今までごめんな。いろいろ」
ささやくような調子で、改めて口を開いた。電話の向こうで大きく首を横に振る倉田の姿が、いやにはっきりと想像できた。
「鈴とも、いろいろ話したんだよ」真剣な声のまま、羽村が静かに言葉を継ぐ。
「あいつも気にしてた。避けてたことも、歩美の話を聞こうとしなかったことも。すげえ悪いことしたって。謝りたいって言ってたよ。歩美さえよかったら、ちゃんと仲直りして、また昔みたいに戻りたいって。なあ、だから」
軽く言葉を切り、ゆっくりと続ける。
「また、戻ろう。昔みたいに、三人で」
そこでふたたび短い沈黙があった。電話の向こうで倉田がなにか言ったらしい。やがてその言葉を聞き終えた羽村が、「……歩美さあ」とふいに声のトーンを落として口を開く。
「もうほっとけよ。あいつのことは」
かすかな苛立ちの混じるその声からは、先ほどまでの優しさも柔らかさも、きれいに削ぎ落とされていた。
「別にさ、歩美だって」けれど口調はあくまで穏やかに、言葉を継ぐ。
「本気で好きだったわけじゃねえんだろ、あんなやつ。だったらもう気にすんなよ。これからはちゃんと俺と鈴が一緒にいるから。大丈夫だよ、歩美。お前はさ」
投げつけるような冷たさに満ちたその声は、きっと倉田に向けたものではなかった。薄いステンレス越しに彼の声を聞いている、おれに突きつけるためのものだった。
「何にも心配しないで、俺らのところに帰ってくればいいんだよ」
そこで倉田がまたなにか言い募ろうとしたのか、羽村はすぐに断ち切るよう「まあいいや」と呟く。それから
「とりあえず今からお前の家行くから。そんときにまた話そう」
それだけ告げて、「じゃあな」といくらか一方的に通話を切った。
直後だった。がんっと割れるような金属音が鼓膜を揺らす。片手で触れていた冷たいステンレスの扉が大きく震えた。羽村が外から物置の戸を蹴ったらしい。狭い物置に大きく反響したその音は、頭全体を覆うようにいつまでも耳元に残った。その余韻が消えないうちに、心底楽しそうに笑う羽村の声が重なる。
「ばーか」
聞こえた声は、それが最後だった。
あとは立ち止まりもせず、迷いのない速さで足音が遠くなる。そしてそれきり、彼がここに戻ってくることはなかった。
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