第25話 眼帯
「こわいね」
背中にそんな声が飛んできたのは、雑巾を洗いに音楽室を出て行こうとしていたときだった。
振り返ると、佐々木が黒板の掃除をしていた手を止め、まっすぐにこちらを見ていた。口元には、今朝見たものと同じ冷たい笑みが浮かんでいる。今日彼女と言葉を交わすのは、これが初めてだった。
「なにが」と聞き返せば、彼女は軽く首を傾げ
「集金袋の事件、あれ、永原くんが仕組んだってことでしょう? もしかして、塗料のイタズラも永原くんがやったの?」
おれはなにも答えずに、黙って彼女の顔を見つめ返した。
佐々木のほうも、最初から答えが返ってくることは期待していないようだった。「ていうかさ」からかうような笑みを崩さないまま、どこか弾んだ調子で続ける。
「そんなことして何がしたかったの? なに、もしかして永原くん、実は倉田さんのこと嫌いだったとか?」
「……それ」
彼女の質問は聞き流して、おれは彼女の右目を覆っている眼帯を指さした。相変わらず、その白さはいやに目をつく。
「どうしたの。その眼帯」
尋ねれば、佐々木はますます笑みを深めた。
「どうしたの、って」なんだか楽しそうな声でおれの言葉を繰り返した彼女は
「怪我したからつけてるんだよ。当たり前でしょう」
「怪我ってどんな」
「見る?」
尋ねておきながらこちらの返事を待たずに、彼女はおもむろに眼帯へ手を伸ばした。耳に掛けていた紐を外し、その白いガーゼを顔から剥がす。
一瞬、息を呑んだ。眼帯の下から現れたのは、右目を囲むようにできた赤紫色の痣だった。
「なあに、永原くん」
佐々木がくすくすと笑いながら問いかける。
「もしかして、あたしが怪我もしてないのに眼帯だけつけてると思ってたの? そんなわけわかんないことするわけないじゃん。変なの、永原くんてば」
「……それ、なんで」
「ん? なんで? なんでこの痣ができたかって?」
呟くと、佐々木は楽しそうに首を傾げ、じっとおれの目を覗き込んできた。
黙って頷けば、彼女はまるでイタズラに成功した子どものような表情で、「あのね」と話し出す。
「自分でね、やったの。辞書でガツンって。すっごい痛かったんだから。でも」
彼女はそこで一度言葉を切ると、まっすぐにおれの顔を見た。腫れていないほうの左目をすっと細める。
「永原くんのためだって思えば、どうってことなかったな。これくらい」
先ほどまでとはがらりと変わり、その表情は不思議なほど大人びて見えた。
当たり前みたいにそんなことを言い切ってみせた彼女に、ふいに、腹の底に正体の掴めない冷たさが広がる。
「おれのため?」眉をひそめて聞き返せば、佐々木は短く相槌を打ってから
「ああ、でも安心して? あたし、先生に言いつけたりはしないし」
そんなちぐはぐな返答をした。おれが黙って彼女の顔を見つめ返せば、佐々木はますます目を細め、「だってさ」と楽しげに言葉を継ぐ。
「大変なことになっちゃうでしょ、永原くん。女の子殴ったなんて先生たちに知られたら」
――その言葉で、ふいにすべての合点がいった。
朝向けられた睨むような視線も、なにか奇妙を見るような視線も。佐々木がなにをしたがっているのかなんて、もう尋ねるまでもなかった。
吐き気がするほど似ていた。おれがあの二人に向けていた淀んだ悪意と、まったく同じ感情のこめられた目が、真正面からこちらを見据えていた。
「親呼び出しとか、自宅謹慎とか」
よりいっそう眉をひそめたおれにもかまわず、彼女は至極楽しそうな調子で続ける。
「永原くん、そういうの嫌でしょう。困るよね。内申にも響いちゃうだろうし。だから先生には言わないよ。あたしだってさ、別にそういうのには興味ないし。それに」
いやに浮き立った調子で言葉を続けていた彼女の顔から、ふっと笑みが消える。
「そんなことしなくても、どうせ、もう学校には来たくないって思うくらいにしてあげるから」
それは、ありったけの憎悪と敵意が詰められた声だった。耳にするのは初めてではなかった。今朝羽村から向けられた声にも、二年前、あの教室で毎日のように聞いていた声にも、よく似ていた。
黙ったまま彼女の顔を見つめていると、佐々木はふたたびその顔に笑みを戻す。
そのとき唐突に音楽室の戸が開いた。振り返ると、戸口のところに一人のクラスメイトが立っていた。佐々木といつも一緒に行動している女子生徒の一人だった。
露骨に警戒した様子でおれと佐々木のほうを交互に見比べた彼女は、佐々木の顔に目を留めると、途端にけわしい表情になりぎゅっと眉を寄せる。それから、「明日香?」と心配そうに佐々木の名前を呼んだ。
「どうしたの、なにしてるの。なんで眼帯外してるの?」
佐々木の目が、一瞬だけおれのほうをちらっと見た。直後、目眩がするほどの鮮やかさで彼女の表情が切り替わる。冷たい笑みは一瞬で剥がれ、代わりに、そこには今にも泣き出しそうな頼りない表情が浮かんだ。
「みっちゃん」と縋るように友人を呼ぶ。それから弾かれたように駆け出すと、戸口に立つその友人に駆け寄り、彼女の腕を強くつかんだ。
「あのね、永原くんが」いかにも弱々しい調子で口を開く。
「そんなにひどい怪我じゃ、ないんだから、眼帯なんて大袈裟だって。外せって、言うから」
そう言った彼女の声は、かすかに震えていた。見れば、助けを求めるように友人の腕をつかむその手も小刻みに震えている。
たいした演技力に場違いにも感心してしまっていると、女子生徒が驚いたように顔を上げ、こちらへ視線を向けた。刺々しさを隠そうともしない目でまっすぐにおれを睨む。それからすぐに視線を外すと、いたわるように佐々木の肩を抱き寄せた。「ね、明日香」と気遣わしげに彼女の顔を覗き込む。
「もう戻ろうよ。掃除終わったんでしょ?」
友人の言葉に、佐々木はうつむいたまま小さく頷く。そしてそのあとはこちらを一瞥もせずに、彼女と一緒に音楽室を出て行った。
二人の姿が見えなくなったあとも、廊下のほうからは、誰かに掃除場所を代わってもらうよう佐々木に勧める、女子生徒の正義感にあふれた声がかすかに聞こえてきた。
先生には言わないよ。
ついさっき聞いた佐々木の言葉が、頭の中で繰り返される。
親呼び出しとか自宅謹慎とか。そういうのには興味ないし。そんなことしなくても、どうせ。
――ああ、そういうことか。
心の中で呟いて、おれは深く息を吐いた。
手にしたままだった雑巾を握りしめる。冷たさはわからず、ただじっとりと濡れた感触だけが、手のひらに染み入った。
教室に戻ると、大半の生徒はすでに下校しており、五、六人のクラスメイトだけが残っていた。
佐々木の姿もあった。先ほど音楽室まで迎えにきた友人と、自分の席のところでいつものように談笑している。もうおれに対する興味など跡形もなく失せてしまったかのように、こちらを見もしない。
少し覚悟していたけれど、教室に入るなり罵倒の言葉が投げつけられるなんてことはなかった。遠慮のない視線がこちらに集まることもなかった。皆、おれのことなど気にした様子もなく、それぞれ帰り支度や雑談を続けていた。
おれは自分の席に向かうと、机に掛けていた鞄を机の上に置いた。それから引き出しの中の教科書やノートを鞄に移そうとしたところで、ふと手を止めた。
心音が、一度だけ奇妙に大きく響いた。
引き出しに突っ込んだ手を、なにも掴まないまま外に出す。代わりに机の端を掴み、机を斜めに傾けた。
腰を屈め、中を覗き込む。視線を巡らす必要も、考える必要もなかった。
きれいに空っぽになった引き出しを数秒間眺めたあとで、顔を上げ、教室を見渡す。そこで初めて、先ほどまでこちらにはなんの興味も向けていなかったクラスメイトたちが、皆おれのほうを見ていることに気づいた。
全員、一様に同じ表情を浮かべていた。相手より自分が数段高い位置にいることを、なんの疑いもなく確信している表情だった。
辺りの空気が、途端に希薄になったような気がした。
知っていた。一人を敵と決めたとき、彼らがどれほど残酷になれるのかなんて。
――嫌になるほど、よく知っていた。
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