第24話 綻び

「――それ」

 冷ややかな笑みを崩さないまま、羽村はおれの手にある巾着袋を指さした。

「うちのクラスの集金袋だろ」

 おれは黙って手元に目を落とした。もう一度そこに記された文字を眺め、それから「そうみたいだね」とちぐはぐな相槌を打つ。

「なんで永原が持ってんの?」

 白々しい調子で尋ねてくる彼の目を、おれはまっすぐに見つめ返した。

「羽村が入れたの? これ」

 彼の質問は無視し、尋ね返す。しかし羽村のほうも、おれの質問に答える気はないようだった。

「俺さあ」ぴくりとも表情を動かさないまま、彼は抑揚のない声で続ける。

「集金係だったんだよ。校納金の」

 おれは相槌も打たずに、黙って彼の顔を見た。相変わらず、羽村にはこちらの反応など気にした様子もなかった。「だからさ」どこまでも感情を欠いた声で、淡々と言葉を継ぐ。

「この前みんなの校納金集めて、その集金袋に入れてたんだけど、気づいたらなくなってたんだよな。俺のロッカーから。それ」

 言って、彼はもう一度おれの手元を指さした。それから

「なんで永原が持ってんの? うちのクラスの集金袋」

 平坦に同じ質問を繰り返した。

 おれは小さくため息をつくと、「知らない」とこちらも平坦な声で返した。

「朝来たら、おれの引き出しに入ってた。誰かがおれが来る前に入れておいたんじゃないの」

「はあ? なんのためにそんなことするんだよ」

「おれが知るわけないじゃん。入れたやつに聞いてよ」

 素っ気なくそう突っ返したとき、ふっと羽村の顔から笑みが消えた。

「なあ永原」わずかに声のトーンを低くし、改めて口を開く。

「お前の引き出しから集金袋が見つかったんだよ。知らないとか誰かが勝手に入れたとか、そんなので誰が納得すると思ってんの」

 先ほどまでと違い、その声にはどこか面白がるような色が混じっていた。そこには奇妙な余裕すら感じられた。

 おれは眉を顰めて彼の顔を見ると、「だったら」と投げつけるように返す。

「これ、いつなくなったの? 羽村のロッカーから」

「さあ。朝気づいたらなくなってたから、今日の朝じゃねえの」

「じゃあおれに盗れるわけないじゃん。おれ、さっき学校来たところだし、盗る時間なんてないよ」

「あるだろ、お前なら」

 間髪を置かず、みじんも迷いのない声が返ってくる。

 その声は、いやにくっきりと耳に響いた。それで初めて、いつの間にか教室内の喧噪が消えていることに気づいた。

 なにやら穏やかでない空気を感じ取ったらしい。クラスメイトたちは皆談笑を止め、なにごとかという視線をこちらに向けていた。好奇心を隠しもしない目で。

 羽村もその視線には気づいているようだったが、とくに気にした様子はなかった。むしろそれが狙いだったのかもしれない。目の前の相手に向けるにはいくらか大きめの声で、しかし口調はあくまで淡々と、言葉を継ぐ。

「お前の家、学校のすぐ側なんだろ。だったら一回学校来て、また帰ってからもう一回来りゃいいじゃん。あんだけ近かったらできるだろ。お前だったら」

 そこでふいに声のトーンがもう一段落ちた。平板だった声の中に、かすかな揺らぎが混じる。

「一回家に帰って、汚れた服を着替えてから、また学校に来ることだって、できるよな」


 おれは黙って彼の目を見つめ返した。クラスメイトたちも、相変わらず耳を澄ますように黙っていた。

 短い沈黙があった。やがておれは深いため息をつくと、「ねえ羽村」と静かに口を開く。

「それ、本気で言ってるの。おれが朝早くに学校に来て、羽村のロッカーから集金袋を盗んで、また家に帰ったって?」

 羽村は黙って頷いた。おれはもう一度ため息をついた。

「でもそれ、どう考えてもおかしいじゃん。もし本当に一回家に帰ったんなら、そのときになんで集金袋持って帰らなかったの。わざわざ証拠を自分の引き出しに残しておくなんて、いくらなんでも馬鹿すぎると思うけど」

 そのときふいに、羽村が目を細めた。

「――持って帰るっていうか」

 それはまるで、いつまでも計算式の解けない子どもに、答えを教えて聞かせるかのような声だった。

「そもそも、集金袋は盗らなければよかったんじゃねえの」

 彼がなにを言おうとしているのか、最初はわからなかった。

 思わず眉を寄せたおれに、「だってさ」と羽村は一つ一つの言葉を言い聞かすよう、ゆっくりと続ける。

「集金袋自体には別になんの価値もないじゃん。欲しいのはその中のお金なんだろ。だったら袋から金だけ盗めばよかったじゃん。そうすりゃはっきりとした証拠は残んないし、盗まれたって気づくのにも時間かかっただろうし。わざわざ集金袋ごと盗むってさ、なんかまるで」

 羽村はそこで軽く言葉を切ると、口元に薄い笑みを浮かべた。

「自分が盗りましたって、みんなに教えたかったみたいな感じじゃねえ?」

 それは、先ほどまでの感情を欠いた笑みとは違った。鬼の首を取ったかのような、ただ底抜けに冷たい笑みだった。

 そこでようやく、理解した。おれが黙って彼の顔を見つめれば、羽村もその冷たい笑みをみじんも崩すことなく、まっすぐにおれの目を見つめ返す。そして言った。

「お前、案外、頭悪いのな」

 それは表情と同じだけ、温度のない声だった。


 短い沈黙のあとだった。

 やがて彼がふっと視線を落とし、おれの手にある集金袋を眺める。それから場違いなほど軽い口調で、「そうだよなあ」と呟いた。

「やっぱり永原じゃないよな。これ盗ったの」

 言いながら、おれの手から集金袋を取る。そして困惑して眉を寄せたおれを、冷たい目で真正面から見据え、言った。

「よく考えたら、よそのクラスの集金係が誰かなんて知るわけないし。永原には無理だよな。うちのクラスの集金袋盗むなんて」

 おれが目を見開くのと、始業を告げるチャイムが鳴るのは同時だった。

 それに反応して、静まりかえっていた教室が少し騒がしくなる。まるで羽村の言葉が終わるのを待っていたかのようなタイミングだった。すぐに何人かの生徒があわてたように教室に駆け込んできて、席を立っていた生徒たちもいそいで自分の席に戻り始めた。


 羽村もふっとこちらから視線を外すと、廊下のほうに目をやった。そこに先生の姿でも見つけたのか、自分の教室に戻ろうと踵を返しかける。

 しかしその途中で、ふいに動きを止めると

「――ああ、そうだった」

 こちらを向き直りながら、思い出したように口を開いた。

「歩美さ、風邪ひいたから、今日は学校休むって」

 出し抜けな言葉に、おれが黙って羽村の顔を見れば

「知らなかっただろうから、一応、教えといてやろうと思って」

 そう付け加えて、彼は口元でだけ小さく笑った。

 はっきりと高い位置からこちらを見下ろす、嫌になるほど、見覚えのある笑みだった。

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