第23話 同じ朝

 空気が違った。その日、はっきりと肌で感じた。

 二日降り続いた雨も上がり、空には柔らかな日差しが戻ってきていた。

 いつもと同じ時間帯。昇降口はいつものようにたくさんの生徒でごった返している。昨夜の名残でところどころに水たまりが出来ている以外は、とくになにも変わらない。いつもと同じ朝だった。


 最初に“それ”に気づいたのは、下駄箱で上履きに履き替えていたときだった。

 ふと視線を上げた先、一人の女子生徒がこちらを見ていた。ほとんど話したこともない、隣のクラスの生徒だった。

 目が合っても、彼女は視線を揺らすことなく、ただまっすぐにこちらを見つめ続けた。見つめるというより睨むと表現した方が正しい、いやに鋭い目だった。

 そんな視線を向けられるのは久しぶりだった。彼女の目の奥には、見間違いようもない敵意が見えた。しっかりと形を成した、冷たい敵意だった。


 やがて見限るように視線を外した彼女は、くるりと踵を返し廊下を歩いていく。その背中を目で追いながら、ふいに、彼女が佐々木と仲の良い女子生徒だということを思い出した。

 もしかすると、先日のことで佐々木からなにか聞いたのかもしれない。他に思い当たる節もないし、佐々木が先日のことを誰にも言わず自分の胸の内だけに留めておくとも思えなかった。

 彼女の交友関係の広さなら知っていたので、面倒なことになったなと少し後悔がこみ上げたけれど、彼女たちに睨まれたところでさほど困ることもない気がしたので、とくに気にしなかった。



 しかし、事態はそれほど単純なものではないらしいことに、教室に入ってすぐ気づいた。

 教室にはすでに二十人近くのクラスメイトが登校していた。そしてそのうち半数以上の生徒が、後方の一つの席を囲むように集まっていた。ほとんどが女子生徒だったけれど、中には男子生徒も数人いた。彼らが囲んでいる席が佐々木のものであることも、すぐにわかった。


 耳に痛いほど騒々しく喋り声を上げていた彼らは、おれが教室に入った途端にふと喋るのを止め、こちらを見た。先ほどの女子生徒のようなあからさまに敵意に満ちた目ではなく、なにか奇妙なものでも見るような目だった。

 すぐにその視線は逸らされ、またなにごともなかったかのように雑談が再開される。しかしそのあとも、教室内にはどこか戸惑うような空気が流れていた。そしてその空気におれが関係しているらしいことは、嫌でもわかった。

 佐々木はいったいどんな言い触らし方をしているのだろう、とうんざりしながら自分の席に向かおうとしたとき、ふいに、人だかりの中心にいた彼女と目が合った。

 そこで初めて、彼女が右目の上に白い眼帯をしていることに気づいた。

 その白さは、いやに鮮烈に目をついた。いかにも痛々しく顔をガーゼで覆った彼女は、一瞬だけ左目でこちらを見据え、それからわずかに、口元を歪めた。

 本当にかすかな動きだった。けれど見間違いはしなかった。彼女の口元に浮かんだのは、たしかに冷笑だった。



 自分の席に向かい、鞄を下ろす。その間も、何人かの生徒が、ちらちらと窺うようにこちらを見ていた。中には、露骨に睨むような視線を向けてくる生徒もいた。そしてそういった生徒は皆、佐々木と仲の良い生徒だった。

 やはり彼女が、先日の出来事について友人たちに触れ回っているらしい。それもおそらくは、いくらか大袈裟に。

 小さくため息をついてから、改めて教室を見渡してみる。

 倉田の姿はどこにも見あたらなかった。彼女の席に目をやってみたけれど、先日と違い、鞄も掛けられていなかった。

 倉田がこんな遅い時間に登校してくることは滅多にないので、今日は欠席なのかもしれない。昨日ずいぶん濡れていたから、風邪でも引いたのだろうか。そこまで考えたところで、ふと、自分が昨日から彼女と一切連絡をとっていないことに、今更気がついた。


 あとでメールしてみようと頭の隅で考えながら、席に着く。そして鞄に入れていた教科書やノートを取り出そうとしていたとき、後ろからとんとんと肩を叩かれた。「なあなあ永原」と低い声が続く。

 振り返ると、後ろの席の男子が、興味津々といった表情でこちらに身を乗り出していた。

「佐々木のやつ、どうしたん? あの怪我」

 出し抜けにそんなことを訊かれ、おれはちょっと眉を寄せた。

「知らないよ」と素っ気なく答えてから

「なんでおれに訊くの」

 聞き返すと、彼はなぜかきょとんとした表情になった。

「え、だってさ……」

 なにか言いかけた彼の言葉は、そこで途切れた。代わりに、「あれ?」と素っ頓狂な声が上がる。

 おれもすぐに気づいた。鞄から出した教科書とノートをしまおうとしていた引き出しの中。なにかが無造作に詰め込まれていた。

 手を突っ込み引っ張り出す。出てきたのは、見慣れぬ深緑色の巾着袋だった。動かすと、ちゃり、と中から小銭の揺れる音がした。


「それ、二組の集金袋じゃん」

 困惑してその巾着袋を眺めるおれの横から、クラスメイトの怪訝な声が飛んでくる。裏返してみると、たしかにそこには『2年2組用集金袋』という文字が記されていた。

「なんで永原が持ってんの?」

 心底不思議そうに訊いてくる彼に、「知らない」と返したおれの声は、かすかに強張っていた。

「気づいたら入ってた。おれは入れてない」

 なぜか集金袋から視線を上げることができないまま、独り言のような調子で呟く。すると後ろの席のクラスメイトがまた「は?」と怪訝な声を立てた。

「なんだそれ。じゃあなんで永原の引き出しに入ってんだよ」

「だから、知らない」

 そんなのこっちが聞きたい、と声には出さず続けたときだった。ふっと机の横に誰かが立ち、手元に影が落ちた。


 顔を上げる。そこには、羽村が立っていた。

 彼はなにも言わず、おれの手にある集金袋を無表情に見つめた。

 あの日と同じ、完璧なまでに表情のそぎ落とされた目だった。

 やがてその表情をみじんも動かさないまま、静かに視線を上げ、おれの顔を見据える。それからふいに、笑みを浮かべた。しかしそこにも、およそ感情というものは見あたらなかった。ただ口角だけを無理矢理に持ち上げたような、ひどく不自然で歪んだ笑みを顔に貼り付け、羽村はまっすぐに、おれを見ていた。

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