第22話 罅

 人のいない家の中は、ひんやりとした冷たい空気に満たされていた。

 おれは洗面所からタオルを持ってくると、戸惑うように玄関に突っ立っている倉田に渡した。

 倉田は受け取ったはいいものの、それで身体を拭おうとはせず、どこか上の空な表情で渡されたタオルをぼうっと眺めているばかりなので

「あがって?」

 おれは彼女に声を掛けた。そこでようやく、え、と当惑した声を漏らして倉田が顔を上げる。それから困ったように薄暗い家の中に視線を彷徨わせ

「あの、でも……」

「大丈夫だよ。親は仕事だし、誰もいないから」

 言うと、倉田は小さく首を横に振った。

「違うの、やっぱり私」

「先に部屋行ってて」

 なにか言いかけた彼女の声を遮り、きっぱりとした口調で告げる。

「寒いでしょ。勝手に暖房つけていいよ。おれ、着替えてから行くから。あと、なんか温まるもの持ってってあげる」

 いつもと同じ優しい声で言えば、倉田はしばし困ったような顔でこちらを見つめていた。

 数秒の後、ようやくうつむいて小さく頷くと、受け取ったタオルで服や髪を簡単に拭う。それから靴を脱いで家にあがった。


 彼女がこの家に来るのは初めてではないので、おれの部屋の場所ならちゃんと知っているはずだった。とくに迷うことなく階段を上っていった彼女の背中を見送ってから、おれはふたたび洗面所に戻る。

 タオルを取り出し、彼女と同じように髪や制服に付いていた水滴を拭った。着替えようと思ったけれど、下に着ていたシャツまでは濡れていなかったので、とりあえず上着だけ脱ぐことにした。

 窓の外からは、雨音が一定の強さを保って響き続けている。それに重なるように物音がしたのは、脱いだ上着を洗面所のハンガーに掛けようとしていたときだった。

 ひっそりと静まりかえっていた家の中に、その音はいやに大きく響き渡った。

 思わず動きを止め、耳を澄ます。物音は続けて何度か聞こえた。なにかの引き出しを開けたり閉めたりする音。物が落ちる音。倒れる音。合間に忙しなく歩き回っているらしい足音も挟まる。――まるで、なにかを探し回るような。


 ふいに、冷たい唾が喉の奥へ滑り落ちた。

 ほんの数分前に見た、まっすぐにこちらを見据える彼女の静かな目を思い出す。おれは手にしていた上着を乱雑に放ると、洗面所を出た。階段を上る。

 そのときにはもう物音は止んでいた。途端突き上げたどす黒い後悔に、一瞬、目眩がする。突き飛ばすように部屋のドアを開けると、中では倉田が一人立ちつくしていた。

 ドアが開いても、彼女はこちらを振り向かなかった。自分の手元に食い入るような視線を落としたまま、身じろぎ一つせず、ただ呆然と、そこに立っていた。

「……倉田」

 胸の奥で、なにかが落ちる音がした。

 開け放たれたクローゼットの前、立ちすくむ彼女の手には、見慣れた黒い服があった。記憶は瞬時によみがえり、頭を埋める。あの日、制服に着替えたあと。塗料の赤は思いのほか派手に散っていて、どうせもう着ることはできないだろうと思いながら、とりあえずクローゼットに押し込んでおいたそれ。

 ああ、やっぱりさっさと捨てておけばよかった、なんて後悔がじわりと押し寄せてきたけれど、それも頭の芯にまで染み入ることはなく、すぐに立ち消えた。

 倉田がゆっくりとこちらを振り向く。それから、「永原、くん」と掠れた声で呟いた。

「これ、なんで……」

 戦慄く彼女の唇から、同じくらい震える声がこぼれる。大きく見開かれた目が、じっとおれを見つめる。

 おれは無言で彼女に近づくと、汚れたジャージを抱える彼女の腕を掴んだ。

「勝手に人の部屋あさっちゃだめだよ、倉田」

 喉を通ったのは、自分でも聞いたことがないような乾いた声だった。

 けれどその声が、倉田の耳に届いた様子はなかった。引きつった表情でこちらを見つめたまま、彼女は「なんで」とうわごとのように繰り返す。

「なんで、言わない、の?」

 絞り出すような声で向けられた質問の意味は、よくわからなかった。

 なにが、と聞き返そうとしたとき、彼女の表情がぐしゃっと歪む。なにかの糸が切れたみたいだった。おれを見つめる大きな目に涙が浮かぶ。きらきらと光るそれに、切り離した意識の片隅で、きれいだな、なんて場違いなことをふと思った。

「わ、私のことが、嫌い、なら」

 息苦しい喉から必死に声を押し出すようにして、彼女が言う。

「早く、そう言ってくれれば、よかった、のに」

「嫌い?」

 なんだかあまりに見当違いな言葉が出てきて、また場違いにも、思わず笑いそうになる。

「嫌いなわけないじゃん。なに言って」

「わかんないよ!」

 一瞬だった。均衡がひび割れ、音を立てて崩れた。

 血の気の引いた彼女の指先が、縋るようにジャージを強く握りしめる。白い頬が上気し、唇が震えた。「もうやだ、私」途方に暮れたような声で、彼女が呟く。間を置かずに彼女の目から涙があふれだした。

「わかんないよ、もう、永原くんがなに考えてるのか、全然、わかんない」


 ――瞬間、泡立つような焦燥が背中を駆けた。

 息が詰まる。一拍置いて、腹の底からぞっとするほどの冷たさがこみ上げてきた。

 一息に全身を覆ったそれに、思考がぼやける。胸を塞いだのが悲しみなのか恐怖なのか、自分でもわからなかった。ただ窓を打つ雨の音だけが、奇妙に大きく、耳の奥で鳴り響いていた。


 逃がしてはいけない、とわけのわからない焦燥が思考を焼く。それ以外はなにも、わからなかった。

 掴んだままだった倉田の腕を引いて、無造作にベッドに放る。相変わらず紙みたいに頼りないその身体は、あっけなくバランスを崩してそこに転がる。拍子に、彼女の抱えていた黒いジャージが床に落ちた。

 咄嗟に起き上がろうとする彼女の肩を掴み、押さえつける。

「嫌いじゃ、ないよ」

 口を開くと、自分の呼吸が思いのほか乱れていることに、初めて気づいた。押しつけた身体に覆い被さって、彼女を見下ろす。けれどこちらを見上げる潤んだ目もどこか遠くて、ふたたび泡立つような焦燥が背筋を走った。

 なにを考えているのか、なんて。そんなの笑ってしまうほど単純なことなのに。混乱する頭の中、それでも奇妙に静まりかえった意識の片隅で思う。

「――おれは、倉田が」

 けれど、その続きを口にすることはできなかった。ふいに首をしめられているかのような息苦しさが襲い、それ以上はなんの言葉も出てこなかった。


 彼女は逃げない、逃げられない、どこにも行くことはない。ただ言い聞かせるように胸の奥で繰り返す。

 見下ろしたか細い肩が、小さく震えた。手を伸ばす。何度か彼女にやめてくれるよう頼まれた気がするけれど、全部、聞こえない振りをした。くしゃりと髪を掻き上げ、こぼれる涙を指先で掬う。赤く染まった目元に唇を寄せると、ただ冷たい、雨の匂いがした。

 途方に暮れてしまうほど冷たく、遠い匂いだった。

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