第21話 警鐘

 冷たい水滴が、頬を叩いた。

 見上げると、灰色の空から霧のような雨が降り出したところだった。


 いくつものゴミ袋が転がるフェンスの中に、倉田は一人で座り込んでいた。

 雨になどかまう様子もなく、一つのゴミ袋の口を開け、取り憑かれたように中を漁っている。コンクリートの上に広がったスカートは白く汚れていたけれど、それにもかまう様子はなかった。

 見ると、彼女の周りに転がるゴミ袋のほとんどは口が開いており、どれも中を探った形跡があった。一体いつからここにいたのだろう、とおれは頭の隅でぼんやり考えながら、彼女に近づき、声を掛ける。


「……なにしてるの、倉田」

 彼女はそこで初めておれに気づいたように顔を上げ、こちらを振り向いた。拍子に、濡れた前髪から雫が滴る。

 倉田はおれの顔を見ても、とくに表情を変えなかった。そんなことに拘泥する余裕もないかのように、引きつった表情のまま、「あ、あの」と切羽詰まった様子で口を開く。

「教科書を、探してて」

「教科書?」

「うん、引き出しに入れてたのが、全部、なくなったって」

 倉田はたどたどしい口調で、まとまりのない言葉を並べる。その間にも雨粒が彼女の髪を濡らし、セーラー服の紺を濃い色を変えていく。

「教科書って、倉田の教科書が?」

「ううん」

 いちおう尋ねてみれば、彼女はすぐに首を横に振った。ふたたびゴミ袋に視線を落とし、答える。

「浩太くんの、教科書」

 答えながら、倉田の両手は忙しなくゴミ袋の中身をかき分けている。中には綿埃やチョークの粉なども混じっていたようで、彼女の制服の袖口はすっかり汚れていたけれど、やはり彼女に気にした様子はなかった。


「朝からずっと、授業にも出ないで、それ探してたの?」

 尋ねると、倉田はこちらを振り向くことなく、うん、と短く頷いた。とくにためらうような間もなかった。

「……なんで、倉田がそんなの探すの」

「え?」

「なくなったのは羽村の教科書なんでしょ。だったら羽村が探せばいいじゃん。別に、倉田が代わりに探してあげることないよ」

「あ、浩太くんは、今別の場所を」

 なにか反論しかけた倉田の腕を掴み、無理矢理にこちらを振り向かせる。そこで初めて驚いたように表情を強張らせた彼女と、まっすぐに視線を合わせ、笑みを向けた。

「ね、倉田」いつもと同じ、優しい口調で告げる。

「もう帰ろう。雨降ってきたし、風邪ひいちゃうよ」

 しかし倉田はすぐに視線を落とすと、首を横に振った。

「私、もう少し、探してみる。永原くんは、先に帰ってていいよ」

 それはみじんもためらいのない、はっきりとした拒絶だった。

 ふいに、身体の底へ泡立つような冷たさが流れ込む。

 それだけ告げてまたすぐに作業に戻ろうとする彼女の腕を、おれはよりいっそう力を込めて握った。冷たく濡れた感触が、手のひらに染み入る。


「……ほっとけって言ってんじゃん」

 低く呟けば、倉田はふたたび視線を上げ、おれの顔を見た。

「ねえ倉田」おれは静かに彼女の目を見つめ返しながら、改めて口を開くと

「あいつが倉田になにしたのか、もっとちゃんと考えてみれば。集金袋がなくなったとき、倉田だってみんなにいろいろ責められて、すごい嫌な思いしたんじゃないの。今、羽村がこういうことされてるからって、別に倉田が同情するようなことじゃ」

「だけど、違うから」

 おれの言葉を遮り、倉田が声を上げた。雨音の中でも、奇妙によく通る声だった。

「浩太くんが悪いんじゃないから」

 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。

「は?」という間の抜けた声がこぼれる。それから一拍置いて、乾いた笑いもこみ上げてきた。

「なに言ってんの、倉田」

 おれは心底あきれた口調で突っ返すと

「羽村が悪いに決まってるじゃん。倉田の鞄からみんなのお金盗ろうとしたんだよ。それが悪くないって」

「浩太くんじゃないよ」

 再度おれの言葉を遮り、倉田は言った。そこには、迷いなど一欠片も混じらなかった。思わず言葉に詰まったおれに、彼女は真剣な表情で重ねる。

「浩太くんは絶対に、そんなこと、しない。盗ったのは、浩太くんじゃない」

 おれは、しばし黙って彼女の顔を見つめた。

 雨は強まることも弱まることもなく、お互いの髪や制服を濡らし続けている。生徒たちの喧噪はますます遠くなり、厚い壁を隔てたようなところから、小さくぼんやりと響いていた。


 数秒の後、ようやく唇の端からため息のような笑いが漏れる。

 短く息を吐く。それから、「ねえ倉田」と諭すような口調に変えて口を開いた。

「認めたくないのはわかるけど、でも実際に集金袋は羽村の鞄から見つかったんだし、今更疑いようもないじゃん。八尋のことだってあるし、羽村が倉田にそうやってひどいことしたとしても、別に不思議じゃないと思うけど」

「違うよ、鈴ちゃんだって」

 間髪入れず、倉田は撥ね付けるようにかぶりを振った。

「鈴ちゃんだって、私に、あんなことしない。絶対。私、わかるから」

「わかるって」

 おれはまたあきれたように大きくため息をついてから

「なんでそんなこと言い切れるの。倉田はさ、八尋の気持ち知ってたんでしょ。それでも自分が八尋に恨まれてるわけないって、倉田、本気で思ってるの」

「だって鈴ちゃん、付けててくれたから」

 間を置くことなく、彼女は相変わらず迷いのない声で返す。

「おそろいのキーホルダー。今でも、ちゃんと鞄に、付けててくれたから。だから」

「だから、倉田はそう思い込みたいだけなんだよ」

 感情を押し殺そうとした努力はあっけなく崩れ、彼女につられるよう、おれの口調も強いものになる。息を吐くと、少し呼吸が荒くなっているのに気づいた。

「羽村と八尋が本当はどんなやつで、倉田のことどう思ってたのかなんて、倉田にはわかんないじゃん。実際あの二人はずっと倉田のこと避けてたし、それでも二人は自分にそんなことしないなんて、なんで言い切れるの。結局倉田はわかったつもりでいるだけで、本当のことなんて何にも」

「わかるよ、あの二人のことなら」

 おれの言葉が終わるのを待たず、彼女は激しい口調で返した。くしゃりと顔を歪め、まっすぐにおれの目を見据える。それから言った。

「あの二人のことなら、永原くんより、私のほうがよくわかってるよ」

 一瞬、雨音が遠くなった。

 どこか挑むようにおれを見た彼女の目に、いつかの羽村の目が重なる。

 初めて見る目だった。真っ向からおれの言葉を否定する、迷いのない強い口調も。おれの知らない、彼女だった。


 ふっと身体の底に重たいものが沈み込む。水を吸った制服の冷たさが、急に爪先にまで染み渡ってきた。前髪から雫が滴り落ち、視界を滲ませる。

 おれは乱暴に前髪をかき上げると、掴んだままだった彼女の腕をよりいっそう強い力で握りしめ、呟いた。

「でも倉田、疑ってたじゃん。あのとき」

 え、と倉田がきょとんとした表情でこちらを見る。

「一学期に」とおれは続けた。

「倉田の筆箱とか靴がなくなったとき。羽村たちのことが信じられなくて怖いって、あのとき言ってたよね。倉田」

 言うと、ふいに彼女の表情が強張った。足下に視線を落とし、唇を噛みしめる。そうして、「だから」と言葉をたぐるようにして口を開いた。

「そのときにすっごく後悔して、それで、決めたの。もう絶対、浩太くんたちのこと疑わないって」

「でも羽村たちは、倉田のこと信じなかったよ」

「え?」

 倉田がまたきょとんとした表情で顔を上げる。ぼやけた視界に、どこか不安げな色が浮かぶ彼女の目が見えた。「あのとき」とおれは言った。

「倉田はそんなことしないだとか、二人とも、そういうことは何にも言わなかった。あっさりおれの言葉を信じて、倉田の言うことなんか聞こうともしなかった。倉田だってよく覚えてるんじゃないの。あのとき、二人にどんな態度とられたか」

 倉田はなにも言わずに、じっとおれの顔を見つめていた。おれの言葉を頭の中でゆっくり反芻しているような表情だった。

 雨音だけが絶え間なく耳を覆う。やがて彼女は、おれの顔に留めた視線を少しも揺らすことなく、静かに口を開いた。


「……あのとき、って」

 それは、奇妙に無機質な声だった。

「なんのこと?」

 辺りの空気が、かすかに変化したような気がした。

 倉田は表情を強張らせながらも、ひどく静かな目で、まっすぐにこちらを見ている。その視線は相変わらず、みじんも揺れることはない。見つめているうちに、彼女の髪の先から、雫が何度か続けて滴り落ちた。

「――私ね、あのとき」

 おれがなにか返すより先に、倉田は自分の頭を整理するようにして言葉をつなぐ。

「わからなかった、の。本当は、今でもよくわからない。どうしてあのとき鈴ちゃんが泣いたのかも、どうして浩太くんがあんなに怒ってたのかも。だって私、鈴ちゃんを裏切ったりなんかしてないし、本当は何にも、思い当たることなんてなかったんだもん。ねえ、永原くん」

 そこで一度言葉を切ると、彼女は覗き込むようにおれの目を見つめた。

「あのとき」小さく唇を震わせ、絞り出すように続ける。

「永原くんが、浩太くんと鈴ちゃんに、なにか、言ったの? その、私の、ことで」

 おれは黙って彼女の目を見つめ返した。

 身体に貼り付くような制服の感触が気持ち悪かった。けれど今は、その冷たさがよくわからなかった。とくに寒さも感じなかった。ただ身体の芯がぞっとするほど冷え切っていて、それ以外はなにも、わからなかった。


 ふいに雨粒がまぶたに落ち、視界がぼやける。おれはそれを拭うことなく、掴んだ倉田の腕を思い切り上に引いた。

 未だ地面に座り込んだままだった彼女は、引っ張られるままによたよたっと立ち上がる。痛みに彼女が顔を歪めたのがわかったけれど、かまわなかった。

「――帰ろう?」

 よろける彼女を片手で支えながら、再度笑みを向ける。

「うちに寄っていけばいいよ。濡れてるから、タオル貸してあげる」

 言うと、倉田がなにか言いたげに口を開きかけた。だけどおれはまた気づかない振りをして、彼女が口を開くのを待たず踵を返した。

 彼女の腕を握ったまま歩き出すと、すぐに倉田が抗うように腕を引いてきた。抵抗とも呼べないような弱い力だった。

 無視していると、今度は反対の手で困ったようにおれの手首を掴む。「待って、永原くん」だとか後ろで弱々しい声を上げているのも聞こえたけれど、全部無視して歩き続けていたら、やがて彼女はあきらめたように黙り込み、おれの手首から手を離した。

 のろのろと歩く彼女を引き摺るようにしてゴミ捨て場を離れ、裏門から外へ出る。

 雨は相変わらず強まることも弱まることもなく、小やみなく降り続いている。

 さほど大きくはないはずの雨音だけが、他のあらゆる音をかき消すように、隙間なく耳をふさいでいた。

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