第20話 嫉妬

 体育館から教室に戻ると、また倉田がいなかった。

 そしてそのまま、一限目の授業が始まっても姿を見せなかった。

 先生も彼女からはなにも連絡を受けていないようだったが、きっと保健室にでも行ったのだろう、ととくに気に留めることなく授業を進めていた。


 そのまま倉田は授業が終わるまで戻ってこなかった。

 おれは携帯を持って廊下に出ると、彼女に電話をかけた。すぐに呼び出し音は途切れ、彼女に通じることなく留守電に切り替わる。

 ふと嫌な予感がして美術室へ行ってみたが、そこにも彼女の姿はなかった。保健室や図書室にもなかった。仕方なく教室に戻り、高橋たちに倉田からなにか聞いていないかと尋ねてみたが、皆、困ったように首を横に振るだけだった。


 結局、三限目の授業が終わるまで、倉田が教室に姿を見せることはなかった。

 その日は土曜日だったため授業はそこで終わり、掃除の時間に移る。

 おれは教室を出ると、掃除場所である音楽室に向かう前に、もう一度美術室を覗いてみた。やはり倉田はいなかった。ついでに理科室や家庭科室にも行ってみたけれど、彼女を見つけることはできなかった。

 廊下を歩きながら、再度携帯を取り出し、倉田に電話をかけてみる。相変わらず、数回呼び出し音が続いたところで留守電に切り替わってしまう。

 おれはひとつため息をついてから、あきらめて音楽室へ向かった。


 戸を開けるなり、いつものように黒板の掃除をしていた佐々木に声を掛ける。

「ねえ佐々木、どこかで倉田見なかった?」

 唐突な質問に、佐々木は、へ、と素っ頓狂な声を上げてこちらを振り向いた。それから、「ううん、見てないけど」と不思議そうに首を傾げ

「え、保健室に行ったんだと思ってたけど、違うの?」

「うん。おれもそう思ってたんだけど、見つからなくて」

 言うと、ふうん、と佐々木はちょっと眉を寄せて相槌を打った。

 おれは戸口のところに立ったまま、音楽室を見渡してみる。佐々木の他にクラスメイトの姿は見あたらない。

「ねえ佐々木」おれは彼女のほうに視線を戻すと、遠慮がちな笑みを浮かべ

「悪いけど、今日掃除まかせてもいい?」

「あ、うん。それはいいけど」

 尋ねると、佐々木はすぐに頷いてくれた。しかしそのあとで、ふっと難しい表情になり

「なに、倉田さんのこと探しに行くの?」

 軽く眉を寄せたまま、そんな質問を続けた。おれは、うん、と短く頷いてから踵を返す。そうして音楽室を出ようとしたとき


「――ね、永原くんさ」

 佐々木がふと口を開いた。普段よりいくらか低い声だった。

「なんか心配しすぎじゃない? 倉田さんのこと」

 おれは足を止めると、彼女のほうを振り返った。

 佐々木はどことなく強張った笑みを浮かべ、こちらを見ていた。それからちょっと迷うように間を置いて、「だってさ」と続ける。

「倉田さんだって別にコドモじゃないんだし、一人で行動くらいできるでしょ。そこまで心配するほどのことじゃないよ。そりゃ、倉田さんてああいう子だし、心配になる気持ちはわからなくもないけど、それにしたって」

「……ああいう子?」

 彼女がさらっと口にした一部分を思わず繰り返す。「ほら、なんていうか」佐々木は少しためらうようにして続けた。

「いっつもおどおどしてて、頼りなくて一人じゃ何にもできない感じっていうか。でもそれって、そんなふうに永原くんがいつも世話焼いてあげるから、倉田さん、いつまでも今のまま変わらないんじゃないのかなって」

「別に変わらなくてもいいけど、おれは」

 軽い調子で突っ返せば、佐々木はちょっと面食らったように一瞬口を噤んだ。

 しかしすぐに、「でも」と意気込んだ調子で言葉を続け

「面倒くさくならない? 今の倉田さんってかなり永原くんに頼り切ってる感じだし、永原くんだってさ、いつもいつも倉田さんの面倒見てるわけにいかないじゃない」

「いいよ、別に」

 おれはできるだけあっさりした口調になるよう努めて返した。彼女と視線を合わせ、にこりと笑う。

「全然面倒くさくないから。今のままでも」

 佐々木はおれの顔を見つめたまま、何度かまばたきをした。

 やがて露骨に不愉快そうな様子で眉をひそめると、「だけど」と強い口調で言い募る。彼女の目に淀んだ嫉妬の色が浮かぶのが、はっきりと見えた。

「さすがにあんまり甘やかしてるばっかりじゃ良くないと思うけど。いつか困ることになっちゃうかもよ。だいたいさ、重たいでしょ、あんなよりかかられたら。イライラすることとかないの? あんなふうに何から何まで依存されたらさ、さすがに永原くんだって」

「おれは」

 捲し立てる彼女の声を遮り、静かに口を開く。廊下のほうを向いていた身体を佐々木のほうに向け、まっすぐに彼女の目を見た。

「そうやって、よく知りもしないくせに他人のことに首突っ込んでくるほうが、イライラするけど」

 途端、佐々木が驚いたように大きく目を見開いた。そしてそのまま、数秒間まばたきもせずにおれを見つめた。

 なにを言われたのか理解するのに、少し時間がかかったらしい。しばしの沈黙のあとで、ようやく、え、という乾いた声が彼女の唇からこぼれる。


「……なに、それ。あたしのこと?」

 おれはなにも答えなかった。表情を作ることもなく、黙って彼女の目を見つめ返した。それで充分なはずだった。

 佐々木はなにか信じがたいものを見るような目で、まじまじとおれの顔を見ていた。まだ呆気にとられて、次の言葉を選ぶのに手間取っているみたいだった。

 だけどこれ以上彼女の言葉なんて聞きたくなかったので、おれは佐々木が言葉をまとめ終えるのを待たずに、さっさと踵を返す。

 すると間髪入れず、「ちょ、ちょっと待ってよっ」というかすかに上擦った声が飛んできた。

「なに、なんで? なんであたしが、そんなこと言われなくちゃいけないの」

 ヒステリックに声を上げながら、彼女が早足にこちらへ歩いてくる。

 かまわず足を進めようとしたけれど、後ろから存外に強い力で腕を掴まれた。仕方なく足を止め、彼女のほうを振り返る。

 佐々木はどこか混乱したような表情で、じっとこちらを見上げた。

「ねえ永原くん、あたし」ひどく強張った声で、早口に言葉を継ぐ。

「別に別れろとか言ったわけじゃないじゃん。ただ今のままじゃ、永原くんがきつそうだったから」

 耳の奥で響くような甲高い声に、おれは思わず眉をしかめる。

 すると佐々木はその表情の変化に気づいたようで、よりいっそう大きく目を見開いた。「ねえ、なんで」おれがなにか返すより先に、呆然とした表情でさらに言い募る。

「なんで急に、そんな態度とられなきゃいけないの? あたし、永原くんに何か」

「頼むから」

 低く告げて、おれは噛みついてきた動物でも引きはがすように彼女の手を払った。その乱暴な仕草に、佐々木は目を見開いたまま愕然とおれの顔を見つめる。

 おれは無表情に彼女の目を見つめ返すと、平坦な声で続けた。

「声上げるのやめてよ。なんか頭痛くなる、おまえの声」

 一瞬で、彼女の表情がまるで奈落の底へとたたき落とされたようなものに変わった。

 それ以上、佐々木からなにか言葉が返ってくることはなかった。振り払った手がふたたびこちらへ伸ばされることもなかった。ただ言葉を失ったように、身動き一つせず、彼女はじっとその場に立ちつくしていた。


 おれはそんな佐々木の顔を少しの間眺めてから、今度こそ踵を返し、音楽室を出た。早足に廊下を進み、教室に戻る。

 教室では、まだ五、六人のクラスメイトが掃除を続けていた。

 相変わらず倉田の姿は見あたらなかった。再度携帯を確認してみたけれど、彼女からの着信やメールはなかった。

 おれは倉田の席に近づくと、朝からずっと机に掛けられたままだった彼女の鞄を手に取った。教科書やノートは引き出しに移されていなかったらしく、鞄はずっしりと重たかった。それから自分の鞄に自分の分の教科書を詰めると、倉田の鞄と一緒に手に持って教室を出た。


 二年二組の教室、保健室、北校舎に並ぶ特別教室。

 当てもなくぶらぶらと校内を歩き回る。ふと窓の外へ目をやると、鉛色の雲が空を覆っていた。今にも雨粒を落としそうな、低く重たい雲だった。

 やがて掃除時間の終了を告げるチャイムが鳴り、廊下を行き交う生徒の数が増える。そのときにはすでに校舎内は一通り巡り終えていて、おれは下駄箱で靴に履き替えると、外に出た。相変わらずなんの当てもなかった。校舎の周辺をとりとめもなく歩いていく。その途中だった。

 ふいに、一つの可能性が脳裏をよぎった。

 それは、奇妙にはっきりとした確信を伴った可能性だった。おれは体育館のほうへ向かいかけた足を止めると、踵を返し、まっすぐに校舎裏へ回った。


 ――彼女を見つけたのは、そこに設置された小さなゴミ捨て場だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る