第19話 既視感
翌朝、教室に入ると、いつもおれより早く登校している倉田の姿がなかった。めずらしく寝坊でもしたのだろうかと思ったけれど、すぐに彼女の机に見慣れた紺色の鞄が掛けられているのを見つけた。
高橋がいたので訊いてみたら、自分が登校したときにはすでに鞄だけが置かれていて、倉田はいなかったらしい。
それからしばらく待ってみたけれど、彼女はいっこうに戻ってこなかった。
やがて、今朝は全校集会があるとのことで、クラスメイトたちがぞろぞろと体育館へ移動を始めた。それでも戻ってこない倉田に高橋はしだいに心配になってきたようで、探しに行こうかと言ってきた。おれは首を横に振ると、心当たりがあるので自分が探して連れてくると告げ、教室を出た。
そのときにはもう奇妙な確信が湧いていた。まっすぐに北校舎へ向かい、美術室を覗く。
思ったとおり、倉田はそこにいた。
一人後方の席に座り、雑巾で懸命に机を拭いている。昨日羽村が座っていた席とは違う席だった。彼女がなにをしているのかなんて、考えなくてもわかった。どうやら落書きはあの一つだけではなかったらしい。
「倉田?」
戸口のところから声を掛けると、彼女は驚いたように顔を上げた。
「なにしてるの」
続けて尋ねれば、今度は困ったように視線を落とす。それから、「うん、あの、ちょっと」とまったく答えになっていない答えを返した。
おれは美術室に入ると、倉田の座っている席まで歩いていった。
「もう集会始まるよ。そろそろ体育館行かないと」
言うと、うん、と倉田はどこか上の空な相槌を打った。それから少し考え込むように黙ったあとで
「あの、永原くん、先に行ってていいよ」
思いのほかきっぱりとした口調で、そう言った。
「なに、倉田、さぼる気なの?」
「う、ううん、あとでちゃんと行くから」
彼女は困ったように首を横に振って、ふたたび雑巾を握った手を動かし始める。
おれは黙って机の上に目をやった。やはりそこにも、油性ペンで記された電話番号とメールアドレスがあった。もうほとんど消えかけていたけれど、羽村の名前もちらっと見えた。
昨日、彼は気づかなかったのだろうか。それとも、八尋の名前が入った落書きさえ消すことができれば、それでよかったのだろうか。
「……なんで、倉田がこんなことしてるの」
静かに尋ねれば、え、と倉田はなにを訊かれたのかわからなかったように顔を上げた。
「こんなの」とおれは机の上に並ぶ黒い文字を指さした。
「別にほっとけばいいじゃん。わざわざ倉田が集会さぼってまで消してあげることもないよ」
「でも」
間を置かず、彼女はいつになく強い口調で返した。ふたたび机の視線を落とし、心の底から痛ましげに顔を歪める。
「こんなの、ひどいから」
「ひどくないよ」
おれも間を置くことなく突っ返す。え、と倉田がまた驚いたように顔を上げた。
「自業自得なんじゃないの、これくらい。羽村も八尋も倉田にあんなひどいことしたんだし、そんなに気にすることもないと思うけど。それとも倉田、まさかあの二人のこと許せるの?」
倉田は呆けたようにおれの顔を見つめたまま、二度まばたきをした。それからなにか言わんと口を開きかけたのがわかったけれど、そのときふいに
「ほーらそこ、なにやってるの」
と廊下から鋭い声が飛んできた。振り返ると、後方の戸口のところから学年主任の先生がこちらを覗き込んでいた。
「全校集会始まるわよ。早く体育館に行きなさい」
どうやら集会をさぼろうとする生徒がいないか見回っていたらしい彼女に、おれは短く頷いてから、倉田のほうに向き直った。「ほら、倉田」と軽い調子で告げる。
「見つかっちゃったし、もう行こ?」
言うと、倉田はしばしおれと先生のほうを交互に見てから、やがてあきらめたように頷いた。
全校集会の内容は、いつもどおりの代わり映えしないものだった。
ただその日は、集会のあとで男子陸上部の壮行会が催された。二週間後に迫った県大会に向けてのものだった。
まずは校長先生が陸上部の快挙を賞賛し、そのあとで顧問の先生が大会の日程や開催場所を報告していた。よかったら応援に来てくれるように呼びかける彼の声を聞きながら、おれは何気なく倉田のほうへ目をやってみる。表情はわからなかったけれど、すっと背筋を伸ばし、まっすぐに壇上を見つめているらしい後ろ姿が小さく見えた。
生徒会長の激励の言葉が終わったところで、やがて数人の生徒が壇上に上がった。陸上部全員ではなく、大会に出場するハードル走と長距離リレーの選手のようだった。
マイクが回され、一人ずつ簡単に意気込みや目標を語っていく。そこに並ぶ生徒たちの顔を眺めながら、おれはふと眉を寄せた。
陸上部を紹介する記事を、うれしそうに写真に撮っていた八尋の姿を思い出す。羽村もリレーに出してもらえる予定なのだと話す弾んだ声も、まだはっきりと覚えていた。何事もなければ地区予選とまったく同じメンバーでいくらしいと、あのときの八尋は、そう言っていた。
だけど壇上に上がった生徒たちの中に、羽村の姿はなかった。
今日はたまたまこの場にいないだけだとか、そういうわけでもないらしい。羽村の代わりに、地区予選の記事には載っていなかったはずの別の生徒が加わっていた。
何事もなければ、地区予選と同じメンバーでいく。あの日聞いた八尋の言葉がふたたび頭の中で響く。
何事かあったから、メンバーを外されたということだろうか。もしかしたら単に調子が悪くてタイムが落ちただけなのかもしれないけれど、どちらにしても、その根っこにある原因は同じものなのだろう。
考えながら、おれはまたほとんど無意識のうちに倉田のほうへ視線を向けていた。相変わらず見えるのはすっと伸びた背中だけで、彼女の表情はわからなかった。
壮行会が終わったところで、おれは何とはなしに後ろを振り返ってみる。
隣に並ぶ二組の生徒たちを見渡した。やはり今日も八尋の姿は見あたらなかった。もしかして、このままずっと学校へは出てこないつもりなのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、視線をすべらせていたときだった。
ふいに、数メートル先にいた羽村と目が合った。
目が合っても、彼は視線を逸らさなかった。表情を変えることもなかった。無言のまま、ただじっとこちらを見つめ続けた。
それは、不自然なほどなんの感情も混じらない目だった。睨むわけでも、なにか言いたげなわけでもない。ただ完璧なまでに表情をそぎ落とした静かな目で、羽村はまっすぐに、おれを見ていた。
ふっと奇妙な既視感が湧く。おれは以前にも、あれと同じような視線を向けられたことがある気がした。羽村ではない誰かに。嫌になるほど、ずっと。
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