第18話 悪意

 ぽすっと足下で軽い音がした。目をやると、見慣れぬ黒い財布が床に落ちていた。

「あ、忘れてた」

 隣で着替えていたクラスメイトが、小さく呟きながらそれを拾う。すると反対隣から、「あれ?」とすぐに怪訝な声が飛んできた。

「おまえ、なんで財布持ってきてんの。体育の時間は預けることになってただろ」

「うん。急いでてうっかりしてた」

 彼は困ったように笑ってから、拾った財布に目を落とす。

「どうしよう。ここに置きっぱなしにしといても大丈夫かな」

「いやー、やめたほうがいいんじゃねえの」

 何気ない調子で彼が呟いた言葉に、後ろで着替えていたクラスメイトが即座に口を挟んできた。こちらを振り向き、にやっと笑う。それから、いやに大きな声で続けた。

「置いといたら誰かに盗られるかもしんねえぞ」

 言いながら、彼の視線が一瞬更衣室の奥へと走ったのに気づいた。そこに誰がいるのかなんて、確認しなくてもわかった。

 それを合図とするように、周りの生徒たちにも一斉に薄笑いが広がる。「そうだよなー」と、別の生徒がまた無駄に大きな声で同意を示した。

「河野、財布は絶対ちゃんと持っといたほうがいいって。たしか今日、遠藤が見学するとか言ってたから、あいつにでも預けとけば?」

「ああ、賛成賛成。そうしろよ河野。とりあえずここに置いとくのはやばいぞ、絶対」

「そうそう。それおまえの全財産だろ。盗られたら困るだろー」

 伝染するように、周りのクラスメイトたちも次々に声を投げてくる。河野はすぐ近くにいるというのに、どの声も更衣室中に響くほどの声量だった。

 それらの言葉が本当はそのクラスメイトに向けられたものではないことくらい、はっきりとわかっていた。

 実際、彼はすぐに納得して「じゃあそうする」と頷いたというのに、周りの声はその後も止むことなく、「つーかさあ」と今度はあからさまに非難めいた調子になって、一人のクラスメイトが言葉を続けた。

「面倒くせえよなあ。移動教室のたびにいちいち財布も携帯も担任に預けなさい、とか。一回何かあるとこういうことになるからうぜえんだよ」

「だよなあ。いつまで続くんだろ、こんなん」

「仕方ねえんじゃねえの。こっちに出来ることなんて用心することくらいだし」

「まあ盗られるよりはいいけどさあ。でもうぜえよな毎回毎回。なあ」

 そう言った彼の目が、ふいにおれのほうを向いた。どうやら同意を求められているらしかったので

「……そうだね」

 とおれは小さく笑って頷いておいた。それから何とはなしに更衣室の奥へ視線を飛ばした。

 一人皆から離れた場所で着替えている羽村はこちらに背を向けていて、その表情を読み取ることはできなかった。ただ更衣室内で交わされている会話については聞こえぬ振りを決め込んでいるようで、なんの反応も返すことなく、黙々と着替えを続けていた。



 体育館に出ると、倉田が数人のクラスメイトたちに囲まれている姿を見つけた。

 あの日以来、倉田の周りにはよくクラスメイトが集まるようになった。とくに高橋たちのグループとはだいぶ親しくなったようで、最近は休み時間や移動教室の途中にもよく彼女たちと一緒にいる。

 そんな倉田の姿を見ていても、さほど感情が動かないことは自分でも不思議だった。少し面白くないと思うことはあっても、不快というほどではなかったし、どうにかしようとも思わなかった。彼女が高橋たちに心からは打ち解けていないことに気づいていたからだとか、きっとそういうことでもない。むしろ、高橋たちと仲良くなることで倉田があの二人への未練を断ち切れるのなら、このままもっと親しくなってくれればいいとすら思う。

 どうやらおれがいちばん嫌だったのは、彼女に親しい人間ができることではなく、彼女があの二人と付き合っていることだったらしいと、最近になってふと気づいた。どうして自分がこんなにもあの二人が疎ましく思っているのかは、よくわからなかったけれど。

 視線をずらせば、壁にもたれかかるようにしてぼうっと立っている羽村の姿が見えた。先日までの倉田と同じように、一人クラスメイトたちの輪から外れて、退屈そうに授業が始まるのを待っている。誰も彼に話しかけようとはしない。それどころか、まるで羽村の存在など見えていないかのように、ちらりとも視線をよこすことなく、それぞれ談笑を続けていた。

 軽く見渡してみたけれど、八尋の姿は見あたらなかった。今日だけでなく、先週の期末テスト以降、学校で八尋を見かけたことは一度もなかった。



 羽村と八尋がクラスでどれほどの風当たりを受けているのかは知らなかったけれど、せいぜい無視や陰口くらいかと思っていた。しかしいつからか、二組の生徒たちはずいぶんくだらないことも始めたようだった。

 最初に気づいたのは、美術の授業中だった。おれが座った美術室の机に落書きがされていた。

 八尋の名前と、携帯の電話番号、メールアドレス。さらにその下には『よかったら誘ってください』の文字。ご丁寧に油性のマジックで書かれていた。

 きっと、番号もアドレスも本当に八尋の携帯のものなのだろう。クラスの机ではなく全校生徒が使う特別教室に、しかも単なる悪口ではなくこういうことを書くあたり、たちの悪さになんだかちょっと感心してしまう。

 おれが見つけたのは八尋のものだけだったけれど、きっとどこかには羽村の名前が書かれた落書きもあったのだろう。そして実際に、書かれている番号やアドレスに面白がって電話をかけたりメールを送ったりした者もいたらしい。

 同じ頃に倉田が、羽村たちの携帯に一切連絡がつかなくなったと言い出した。電話もつながらないし、メールを送っても返ってきてしまうのだという。

 彼女が未だにあの二人と連絡をとろうとしていることは気に入らなかったけれど、連絡がつかないというのなら放っておいてもいいかと思えた。

 どうやら倉田はあの落書きの存在には気づいていないようだった。そのため自分が羽村たちに拒絶されたと勘違いし、ショックを受けているようだったので、あのばかばかしい落書きにも少しは利用価値があったらしい。


 だけどさすがに、あんな落書きを当人が放っておくわけもなかった。

 放課後、音楽室に忘れ物をしたという倉田に付き合い、二人で北校舎へ戻ったときだった。

 倉田がふと美術室の前で足を止めた。あ、と小さく呟く。

 おれもすぐに気づいた。日の翳った薄暗い教室に、一つの人影があった。窓際の席に座り、なにか薄い布のようなものを手に机を拭っている。先日、おれが例の落書きを見つけた机だった。

「……浩太くん」

 倉田は驚いたように呟き、美術室を覗き込む。

 彼が掃除をしているわけではないことは、すぐに察したらしい。ふっと彼女の表情が硬くなる。

 おれはかまわず足を進めたけれど、倉田は迷うようにその場に立ち止まったままだった。眉を寄せ、気になって仕方がない様子でじっと羽村を見つめている。

 おれは彼女のほうを振り返ると、名前を呼んだ。

「倉田」

 彼女がようやく我に返ったようにこちらを見る。

 一緒に羽村も顔を上げてこちらへ視線を向けたのがわかったけれど、おれは倉田の顔だけをまっすぐに見て、告げた。

「行こう?」

 だけど倉田は動かなかった。「でも……」と口の中でなにかもごもごと呟きながら、ふたたび美術室のほうに視線を戻す。

 すると今度は羽村と目が合ったようで、ふいに彼女の顔に緊張が浮かんだ。

「倉田」おれはもう一度彼女を呼んだ。

「行こう」

 さっきよりいくぶん強い口調で繰り返す。

 それでも彼女は困ったような表情のまま、その場に突っ立っていた。おろおろした様子でおれの顔と羽村のほうを交互に見比べる。それからまた「でも」と口を開きかけたのがわかり、おれは再度遮るように名前を呼んだ。浮かべていた笑みを剥がし、低く告げる。

「おいで、倉田」

 倉田は数秒間息を止めたようにおれを見つめた。

 やがて軽く目を伏せると、唇を噛み、床に貼り付いていた足をなんとか引きはがすようにしてこちらへ足を進める。

 その間、羽村が落書きを消す手を止めて、じっとこちらを見ていたのには気づいていた。けれど彼の顔は一瞥もしなかった。きっと、おれに気味が悪いと告げたあのときと同じような表情を浮かべていたのだろうということは、見なくてもわかった。

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