第17話 錯綜

 教室は、ふたたび水を打ったように静まりかえった。

「……へ?」

 その中に、八尋の間の抜けた声だけが落ちる。

「なに、それ。塗料?」

 きょとんとした様子でまばたきをしながら、彼女は高橋の手にしたビニール袋を眺める。なぜ自分がそんなものを突きつけられているのかも、それがどうしてそんなに深刻な空気を作らせるものなのかも、まったくわかっていないようだった。

 そんな八尋の顔を見て、「なにって」と高橋は怪訝そうに眉を寄せると

「八尋さんのロッカーに入ってたんだよ。知ってるでしょう」

「え?」

 八尋は驚いたように目を見開き、高橋の顔を見た。

「うそ、知らないよ」きょとんとした表情のまま、首を横に振る。

「わたしのじゃないよ。誰か間違えて入れちゃったんじゃないのかな」

 心底不思議そうにそんな無邪気なことを言う八尋に、高橋がよりいっそう強く眉をひそめた。「それはないと思うけど」と即座にけわしい声で突っ返す。

「これ、ロッカーのすごく奥のほうに押し込んであったもの。なんだか隠すみたいにして」

「でも、本当にわたしのじゃないよ」

 八尋はわけがわからないという表情で首を捻りながら、もう一度重ねる。

「全然知らないもん、そんな塗料。なんでわたしのロッカーに入ってたのか、わたしにもわかんない」


 そのとき、後方の戸口のところから教室を覗いていた二人のクラスメイトが、短く何事か申し合わせてから、ふっと教室を離れ、廊下の向こうへ駆けていった。どちらも佐々木と仲の良い女子生徒だった。

 どうやら、佐々木は思いのほか遠くまで噂を広めてくれていたらしい。二組の生徒たちも、何人かはあの塗料が意味するものを知っているようだった。信じられないといった表情で目を見開き、ビニール袋と八尋の顔を何度も見比べている。

 八尋はそんなクラスメイトたちの視線に気づいたのか、ふと不安げな表情になると

「ねえ高橋さん、その塗料が何なの? どうかしたの?」

 と困ったように高橋に問いかけた。

 その言葉に、高橋の表情が今度こそあからさまにけわしいものになる。

「何なの、って」なんだかあきれたように八尋の言葉を繰り返した彼女は

「倉田さんが赤い塗料で机にイタズラされたの、知ってるんでしょ」

「イタズラ?」

 八尋がもう一度大きく目を見開く。

「歩美ちゃんが? うそ、どんな?」

 高橋は八尋の質問には答えなかった。手にしたビニール袋に目をやり、一度重たいため息をつく。それから、「ねえ八尋さん」といつになく低い声で口を開いた。

「集金袋のことも、ひょっとして倉田さんへの嫌がらせのつもりだったの?」

 八尋はなにを訊かれたのかさっぱりわからないようだった。「え?」と当惑したように眉を寄せ、高橋の顔を見つめる。高橋はかまわず続けた。

「だってみんなの校納金がなくなったら、集金係の倉田さんが責められるかもしれないってことは、想像ついてたんでしょう。それで羽村くんと一緒に、倉田さんのこと困らせようとでもしたの」

 高橋の言葉に、また教室内にはじわじわとざわめきが広まり始める。

 八尋は先ほどの羽村と同じような、心の底からきょとんとした顔をしていた。相変わらず高橋の言っていることがよく理解できないみたいだった。

 じっと彼女の顔を見つめたまま、何度かまばたきをする。そうして、「ちょ、っと待って」と押し出すような声をこぼした。

「高橋さん、わたし、なんのことか全然わからないんだけど……なんでわたしとこうちゃんが、歩美ちゃんを困らせたりするの」

「倉田さんが永原くんと付き合ってるからじゃないの?」

 困惑したように聞き返す八尋に、ふいに教室の後方から声が飛んできた。

 見ると、ロッカーに寄りかかるようにして立った佐々木が、無表情にじっと八尋を見つめていた。

「だって」ぽかんとする八尋にはかまわず、彼女はどこか面白がるような調子で重ねる。

「八尋さん、ずうっと無視してたじゃない、倉田さんのこと。それも倉田さんが永原くんと付き合いだした途端、急に。そのうち許してあげるのかなーと思ってたけど、何ヶ月経っても全然そんな気配はないみたいだったし。そのこと、未だに根に持ってたからじゃないの? 八尋さん」

 佐々木の言葉に、ふいに八尋の顔が強張った。

「ち、違うよ」目を見開き、ゆるゆるとかぶりを振る。

「別に、無視してたわけじゃ」

「えー、あれが無視じゃないっていうの?」

 反論しかけた八尋に、佐々木はあきれたように鼻先で笑った。 

「かなりあからさまだったけどなあ。周りから見ててもはっきりわかったもん。本当にひとことも口利かなくなっちゃったし、目も合わせなくなっちゃったし。なんかかわいそうだったなあ、倉田さん」

 早口に捲し立てられ、八尋が言葉に詰まったように押し黙る。

 そんな八尋の姿を見た倉田が、「あ、あの」とあわててなにか口を開きかけたのがわかった。しかし彼女の小さな声は、重なるように響いた高い声にかき消され、誰の耳にも留まることはなかった。


「えっ、なにその机!」

 誰かが廊下でぎょっとしたように叫んだ。

 すぐに生徒たちの注目が廊下のほうへ移る。そこには、先ほど教室を離れた二人の女子生徒が戻ってきていた。

 どうやら佐々木はしっかり友人たちにあの机の存在も教えていたらしい。二人の両手には、赤く塗料で汚れた机が抱えられていた。

 途端、教室内は騒然とする。

 二人は机を手にまっすぐに八尋のもとへ歩み寄ると、彼女に突きつけるよう、目の前に机を置いた。「ねえ、これ」と一人がまるで鬼の首を取ったような表情で口を開く。

「あの塗料だよね、八尋さん」

 八尋は唖然とした表情で、その机を見下ろしていた。

 事情を知らずにぽかんとして事の成り行きを見ていた生徒たちも、それでようやく状況を理解したようだった。

 空気がよりいっそう張り詰め、ざわめきが大きくなる。「うわ、なにあれ」「イタズラってあれのことじゃないの?」などと落ち着きなくささやき合う声が、波紋のように広がる。


「え……これ」

 八尋は混乱した様子で額を押さえながら、上擦った声を押し出した。

「歩美ちゃんの、机、なの?」

 高橋はまたなにも答えずに、ぎゅっと眉を寄せて八尋の顔を見た。

 少しだけ考えるような間があってから、「ねえ八尋さん」とどこか諭すような口調で口を開く。

「もうさ、見つかっちゃったことだし、正直に話してよ。それでちゃんと倉田さんに謝ればいいじゃない。しらばくれるのは無理だと思うけど、今更」

 八尋は弾かれたように顔を上げると、「だって」と途方に暮れた声で返した。

「本当に知らないんだもん。歩美ちゃんがこんなことされてたってことも、今初めて知ったの。正直に話してるよ」

「じゃあこの塗料の缶が、なんで八尋さんのロッカーに入ってたの」

「だから、それも知らないんだってば。とにかく、それ、わたしのじゃないよ。なんでわたしのロッカーに入ってたのかなんて、わたしも知らない。わけわかんない」

 引きつった声で捲し立てる八尋に、高橋はいくらかうんざりした様子でため息をついた。

「ねえ八尋さん」さらに声のトーンを落とし、再度口を開く。

「これ、あんまり言いたくなかったんだけど」

 そんな前置きをしてから、高橋はおもむろに八尋の右肩を指さすと

「肩のところ。その赤い汚れ、この塗料じゃないの。違う?」

 八尋は促されるまま自分の肩に目をやり、それから大きく目を見開いた。

「え……なんで」

 呆然と、掠れた声をこぼす。どうやらこの瞬間までまったく気づいていなかったらしい。彼女は自分の制服に付いた赤い塗料をしばらくまじまじと眺めてから、愕然とした表情のまま、ふたたび高橋を見た。

「わ、わたし、知らないよ」訴えかけるよう、必死に言い募る。

「こんなの、いつ付いたのか、わかんない。本当だよ」

 しかし、彼女の声はぞっとするほどのむなしさで空気を震わせただけだった。もう誰も、聞こうとはしなかった。

 それが決定打だった。戸惑うような空気に満ちていた教室が、途端に色合いを変える。

「こっわー」と後ろで一人の女子生徒が低く呟いた。

「いくら好きな人とられたからって、ここまでやる?」

 やんないやんない、とすぐに揶揄するような調子の声が続く。くすくすと押し殺した笑いも混じり、ふいに、クラスの女子の間で奇妙な団結力が生まれたのを感じた。それは、暗い、淀んだ団結だった。

「てか普通こんな長く引き摺らないでしょ。正直倉田さんもどうかと思ってたけどさあ、ここまでくると八尋さんのが引くわ」

「だいたい自分だってすぐ羽村くんと付き合い始めたくせにね。まだ未練あんのって感じじゃない」

「本当だよね。羽村くんかわいそー」

「ていうか一番かわいそうなのは倉田さんじゃん。むしろ羽村くんって協力してたんじゃないの。集金袋のことだって、こう考えたら倉田さんへの嫌がらせっぽいし」

「あー、たしかに。偶然こんなことが二つも重なるわけないしねえ」

 非難の声はあっという間に教室を包み、空気を塗り替えていく。八尋は引きつった表情で教室を見渡しながら、「違う、違うよ」と力なく声を上げた。

「わたし、知らないの。本当に、なにもしてない」

 しかしその声も、相変わらず誰の耳にも届くことなく、あっけなくかき消された。

 やがて、困り果てたように教室を彷徨っていた八尋の視線が、ふとこちらに流れてくる。そこで初めて彼女は倉田の存在に気づいたらしい。軽く目を見開き、それから呟くように名前を呼んだ。


「……歩美ちゃん」

 途端、八尋の表情がぐしゃりと歪む。

「ね、歩美ちゃん」縋るように、彼女はもう一度声を投げた。

「わたし、違うよ、わたしじゃないの」

 集金袋が見つかってからずっと隣で放心したように立ちつくしていた倉田は、その声に引っ張られるようにして、初めて八尋のほうへ数歩進み出た。

「歩美ちゃん、わたし」

 八尋も泣きそうな顔で、ゆっくりと倉田に歩み寄る。

「歩美ちゃんに、そんなこと、しないよ。絶対しない。ねえ、歩美ちゃんは、信じてくれる……」

「――散々」

 ふと口を開けば、喉からは思いのほか低い声がこぼれ落ちた。

 八尋が驚いたように足を止め、おれのほうに視線をすべらせる。おれは彼女の顔をまっすぐに見た。

「散々無視しといて、こういうときだけ、倉田に頼るんだ」

 大きく見開かれる彼女の目を無表情に見つめ返しながら、平淡に言葉をつなぐ。

「都合いいね」

 倉田も面食らったようにこちらを振り向いたのがわかったけれど、おれは八尋の目から視線を逸らさなかった。

 八尋も、呆然とした表情でこちらを見ていた。黒目が1ミリも動かない、人形みたいな目だった。今し方言葉を発したのがおれだということが信じられないみたいに、まばたきもせず、彼女はじっと食い入るように、おれの顔を見つめていた。


 短い沈黙のあとだった。

 やがて、叩かれたように八尋の表情が崩れる。目元がゆっくりと赤みを帯び、なにかを言いかけたように薄く開いた唇が、小さく震えた。

 耐えかねたように、彼女の視線が足下へ落ちる。それから一度強く唇を噛みしめた彼女は、勢いよく踵を返し、そのまま後方の戸から教室を飛び出した。

 あっ、と倉田が声を上げる。

「鈴ちゃん!」

 あわてたように倉田も八尋のあとを追って駆け出しかけたのがわかり、おれは彼女の手を掴んだ。

「いいじゃん、倉田」

 え、と聞き返しながらこちらを振り向いた彼女の目をまっすぐに見据え、素っ気なく告げる。

「もうほっとけば」

 驚いたようにおれを見つめる倉田の横から、「そうだよー」と場違いに明るい声がすぐに割り込んできた。一人の女子生徒が、おれの反対側から笑顔で彼女の腕をとる。

「ほっときなって倉田さん。気にすることないよ。ほら、教室戻ろ」

「そうそう。お金も無事見つかったことだし」

「戻ろう戻ろう」

 すぐに他の生徒たちも倉田の周りを囲み、彼女はそのまま引き摺られるようにして一組の教室へ戻った。

 数分前までの張り詰めた空気は、すでに跡形もなく押し流されていた。先ほどまで集金袋の件で倉田に責めるような視線を向けていた生徒も、手のひらを返すように「大丈夫? 倉田さん」「もう気にしないほうがいいよ」などと彼女に優しい言葉を掛けている。

 とことん調子のいいクラスメイトたちにあきれながらも、とりあえずおれも一緒になって、彼女に気遣わしげな言葉を掛けておいた。

 けれど倉田の表情は、いっこうに解れることはなかった。

 クラスメイトたちの言葉など耳に入った様子もなく、強張った表情のまま何度も後ろを振り返る。そうして、八尋の消えた廊下の向こうを、いつまでもしきりに気にしていた。

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