第16話 混乱

 悩んでいる時間もなく、高橋がすぐに二組の教室へ行って、二組のほうの学級委員に事情を説明した。それから一組と同じように持ち物検査が始まった。

 すでに一組での騒ぎを聞きつけていた生徒も多かったようで、とくに渋る生徒もおらず、一組のときよりだいぶスムーズに事は運んだ。

 五限目の始業時間も迫っていたためか、二組の生徒はほとんど全員が教室に戻ってきていた。

 羽村と八尋の姿もあった。それぞれ自分の席に着いた彼らは、もちろん緊張した様子などみじんも見せず、近くの席のクラスメイトと呑気に雑談を続けている。とくに不満の言葉を並べたりもせずに、面倒な検査が終わるのをただ気長に待っているようだった。


 一組の生徒も、大半が高橋と一緒に二組の教室へ移動してきたため、教室内には五十人近くの生徒があふれ、耳に痛いほどの喧噪で満ちていた。

 そうしているうちに騒ぎはいつの間にか三組と四組のほうへも飛んでいったようで、何事かと二組の教室を覗きに来る野次馬は、時間が経つにつれますます増えていった。そして騒ぎが大きくなるにつれ、倉田の表情もますます強張り、引きつっていくのがわかった。

「大丈夫だよ」

 隣に立っている彼女にそっと声を掛ければ、倉田は相変わらず青ざめた顔でこちらを振り向く。

 おれは彼女の目を見つめ返すと、いつものように優しく笑みを向けた。

「倉田が悪いわけじゃないから。なにも気にすることないよ」

 うん、と倉田は泣きそうな顔で小さく頷いた。

「それに」教室のほうへ視線を戻しながら、静かに続ける。

「きっと、すぐ見つかるから」

 倉田は、うん、ともう一度力なく頷いて、同じように教室へ視線を移した。


 持ち物検査はてきぱきと進められていた。二組の学級委員長と副委員長、それに高橋も協力することになったようで、委員長は窓側の席から副委員長は廊下側の席から、それぞれ生徒たちの鞄と引き出しを順に調べていく。高橋は、一人黙々と背面に並ぶロッカーを点検していた。

 一組のときと同様、漫画やらウォークマンやら校則違反のものは次々と出てきたが、三人ともそれらは一切無視することに決めているらしい。かまわずに手早く検査を続けていく彼らを、おれと倉田も、他の生徒たちに混じって教室の戸口のところから眺めていた。



 時間はそのまま、しばらく淡々と過ぎていった。

 そのうち、最初こそ少し緊張した様子だった二組の生徒たちも、しだいに気持ちがゆるんできたようで、友人と会話を始めたり教科書を取り出して次の授業の予習を始めたりする者が増えてきた。興味深そうに事の成り行きを見守っていた野次馬たちも、飽きてしまったようにちらほら自分たちの教室へと戻り始めた。

 やがて、五限目の始業を告げるチャイムが鳴った。

 場違いなほどのんびりと鳴り響いたそのチャイムに、しかし反応した者は一人もいなかった。もしかすると、聞こえた者すらいなかったかもしれない。皆、チャイムと重なるように委員長が叫んだ「あ、あった!」という声のほうに気を取られ、意識を根こそぎ奪われていた。


 空気が硬い音を立て、一瞬にして張り詰める。

 喧噪は途端に立ち消えた。まるで時間が止まってしまったみたいに、皆がぴたりと動きを止める。

 窓側の二列目、後ろから三列目。声のしたほうへ、視線が一点に集まる。

 一様に緊張した面持ちを向ける生徒たちの中で、その視線に囲まれた羽村だけが、至極緊張感のない顔をしていた。「は?」と間の抜けた声を上げ、自分の前に立つ委員長のほうへ目をやる。それからきょとんとした表情で何度かまばたきをした。

「なに、あったって――」

 委員長は無言で、持っていた鞄から手を引き抜いた。そこには見慣れたえんじ色の巾着袋が握られていた。

 あっ、と数人のクラスメイトが声を上げる。

「それ、集金袋! うちのクラスの!」

 誰かが甲高い声で叫んだ。それが皮切りとなったかのように、ざわめきが一気に広がる。「え、マジで?」「うわ、なになに、羽村くんだったの?」などという押し殺したようなささやき声が、途端に教室を満たし始める。


「は? いや、なに、なんだよ、これ」

 羽村だけが、未だに状況をよく理解できていないみたいだった。

 呆然と呟きながら、あわてたように立ち上がる。それから、心の底からわけがわからないといった表情で、委員長が今し方自分の鞄から取り出した集金袋を見つめた。

「俺、知らないんだけど。こんなの入れた覚えないし」

 けれど周りの生徒たちは、きっと、誰一人として羽村の言葉など聞いていなかった。その声色がこれ以上なく当惑したものであったことにも、気づいたのはきっとおれだけだった。

 皆、委員長の手にしたえんじ色の巾着袋のほうばかり、食い入るように見つめていた。それ以外はなにも見る気などないかのように。愕然として立ちつくす羽村の表情より、ずっとたしかなものとして、それはそこに存在していた。


「いや、マジで、知らないんだって」

 その間にも、羽村は混乱の抜けない声で重ねる。誰に向けてというより、自分の頭の中を整理しようとするような調子だった。

「わけわかんねえんだけど。なんでこんなの入ってんの、俺の鞄に」

 しかしその声は相変わらずざわついた教室内にむなしく響くだけで、誰の耳にも届くことはなかった。

 彼の前に立つ委員長は目を上げることすらなく、なにか思案するようにその集金袋をじっと見つめている。

 そのうち副委員長も羽村の席のほうへ歩いてきた。周りを取り囲む生徒たちは、面と向かって羽村へ弾劾の声を飛ばすことはなく、なにか小声でひそひそとささやき合っている。急速な展開に、まだとるべき態度を決めかねているようだった。

 倉田は羽村と同じくらい愕然とした様子で、ぽかんと彼のほうを見つめていた。


 そうしているうちに、五限目の授業の先生がやって来た。教室にあふれる大勢の野次馬にぎょっとした様子で、「なにしてるの、もうチャイム鳴ったでしょ!」と鋭い声を上げる。

 その注意は至極正当なものであるはずなのに、今の場面ではなんだかひどく場違いに響いた。実際、二組の教室を囲む生徒たちは、誰一人として動こうとしなかった。

 やがて、先生もこの異様な空気に気づいたようだった。困惑したように教室を見渡し、それから近くにいた高橋に説明を求めていた。

 けれど高橋の耳に、先生の声が届いた様子はなかった。

 一つのロッカーの前にじっと座り込んだ彼女は、騒動の中心にあった集金袋が見つかったというのに、そちらへ注意を向けることもなく、ひたすらそのロッカーを眺め続けていた。


 代わりに、側にいた一人の男子生徒が事情を説明した。

 先生は驚いたように目を見開いてから、早足に羽村のほうへ歩いてきた。委員長が先生に集金袋を渡すと、彼女は無言で頷き、それを受け取った。それから羽村のほうを見て

「とりあえず、話を聞きますから指導室に行きましょう」

 と落ち着いた口調で告げた。

 羽村はなにか言いたげに口を開きかけたけれど、結局、ここでこれ以上なにを言っても無駄だということはすぐに察したようだった。短い間のあとで、黙って一度だけ頷く。先生は教室を見渡し、他の皆には自習をしているよう告げてから、彼を連れて教室を出て行った。


 そのとき、自分の席に座ったまま呆気にとられたように羽村を見つめていた八尋が

「――ちょ、ちょっと待ってよっ」

 ようやく我に返ったのか、上擦った声を上げながらあわてて立ち上がった。

「なんかの間違いだよ。絶対、こうちゃんがそんなことするわけ……」

「八尋さん」

 そのまま二人のあとを追って教室を飛び出しかけた彼女を、高橋がふと呼び止める。いやに低い、芯のある声だった。

「へ?」と八尋がきょとんとして高橋のほうを振り返る。

 羽村の鞄から見つかった集金袋にも一人興味を示すことなくロッカーの点検を続けていた彼女は、そこでようやく立ち上がると、まっすぐに八尋を見た。

「え……なあに、高橋さん」

 初めて見るような硬い表情を浮かべる高橋に、八尋がちょっと緊張した様子で問いかける。

 高橋はなにも言わずに、右手をゆっくりと持ち上げた。あっ、と後ろで数人のクラスメイトが息を呑む気配がした。

「ねえ八尋さん」じっと八尋の顔を見据えたまま、高橋は慎重に言葉を継ぐ。

「これ、どうしたの?」

 彼女の手に握られたビニール袋の中で、塗料の缶が小さく音を立てた。

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