第15話 波紋

 倉田がそれに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 体育の授業が終わり教室に戻ってきた彼女は、体操服をロッカーへしまいに行こうとして、ふと自分の席の前で足を止める。

 閉めてきたはずの鞄の口が開いていることに気づいたらしい。それだけで充分に嫌な予感がよぎったようで、ふいに彼女の表情が強張るのが、遠目にもはっきり見えた。

 倉田はあわてて鞄を手に取ると、机の上に置いて中を覗き込む。

 しばらくは混乱した様子で鞄を探っていた彼女も、時間が経つにつれ状況が呑み込めてきたようだった。みるみるうちに彼女の顔が引きつり、青ざめる。

 それから、ますますあわてた様子で鞄の中の教科書やらノートやらを引っ張り出し始めた彼女を見て、おれは立ち上がった。


「――どうしたの」

 彼女のもとへ歩いていき、声を掛ける。

 倉田は弾かれたように顔を上げると、「永原、くん」と途方に暮れた様子で小さく呟いた。

「なんか探し物?」

「あ、あの」

 泣き出しそうな目でおれを見上げた彼女は、かすかに震える声で口を開き

「ない、の。どうしよう」

 おどおどとそれだけ告げてから、ふたたび手元に視線を落とした。

 どんなに探したところでそこに集金袋がないことはもう察しただろうに、それでもまだ未練がましく奥を覗き込む彼女に

「ないって、なにが?」

「あの、クラス用の、集金袋。鞄に入れておいたはずなんだけど、な、なくなってて」

 引きつった声で答えた倉田の言葉は、後ろの席に座っていたクラスメイトの耳にも届いたらしい。

「はあっ?」と大袈裟なほど素っ頓狂な声を上げて、その男子が勢いよくこちらを振り返る。今し方取り出したところだった弁当箱も放った彼は、その勢いのままこちらへ身を乗り出すと

「なに、集金袋って校納金入れてた集金袋? なくなったん?!」

 と無駄に大きな声を上げて聞き返してきた。

 その声は教室中に響いたようで、教室内の喧噪が一瞬にしてぱたっと止む。

 弁当箱を手に教室を出て行こうとしていた生徒も、驚いたように足を止め、こちらを振り向いた。

 一斉に集まったクラスメイトたちの注目に、倉田がますますびくりとして表情を引きつらせる。それからまるで大目玉でも食らったかのように顔を伏せ、「う、うん」とか細い声で頷いた。


 途端、教室のそこここからぎょっとしたような声が上がる。

「は?! ちょ、なになに、なくなったって。どういうこと?」

「うそ、誰かが盗ったの?」

「つーかその校納金って、俺らの校納金だよな。俺らの金がなくなったわけ?」

 弁当を食べようとしていた生徒も、すでに全員手を止めていた。倉田のほうへ視線を向けたまま、興奮した様子で口々に狼狽えた声を上げている。

 一気に教室中へ広がった騒ぎに、倉田の顔色が目に見えて青ざめた。うつむいたまま、どうすればいいのかわからないように視線を彷徨わせる。

 やがて、高橋がそんな様子を見かねたように倉田のもとへ歩いてくると、「倉田さん」と気遣わしげに彼女の顔を覗き込んだ。

「ねえ、集金袋、本当にないの? ちゃんとよく探した?」

「う、うん」

 倉田は何度も首を縦に振った。それから、「ここに」と机の上に置いた鞄を指さし

「入れておいた、はずなの。でも、今見たら、入ってなくて」

「間違いなく、ここに入れておいたの?」

「うん。体育の前までは、ちゃんと、あったから」

 続いた質問に倉田がそう答えると、また後ろから、「じゃあ体育のときじゃねえの」という無駄に大きな声が割り入ってきた。

「体育の時間なら教室だれもいなくなるし、盗ろうと思えば盗れるじゃん。だれでも」

 そこまで言ったところで、「あ、そういや」と彼はふと思い出したように声を上げ、教室の後方へ視線を飛ばした。

「遠藤」と、けわしい声で出し抜けに一人のクラスメイトの名前を呼ぶ。

「おまえ、体育のとき、ちょっと遅れて来たよな? あれ、なんだったわけ?」

「えっ?」

 急に水を向けられた彼は、驚いたように目を見開き

「た、体育館シューズを忘れたから、取りに戻っただけだよ。僕じゃないって。だいたい、遅れてきた人なら他にもいたじゃん。ほら、授業中抜けた人だっていたし、どっちかっていったらその人のほうが怪しいと思うけど」

 その言葉に、今度は、試合中に足を捻りおれが保健室まで連れて行ったクラスメイトのほうへ視線が飛んだ。左の足首を分厚くテーピングした彼も、突然矛先を向けられたことに驚いた様子で

「は? いや、なに、俺でもねえって。この足じゃ無理だろ、普通に。あ、それに」

 そこで彼はふいにおれのほうを見ると

「俺、保健室行くとき、永原に付き添ってもらったから。なあ永原、体育館出たあとは、俺、まっすぐに保健室行ったよな?」

 助けを求めるように訊いてくる彼に、おれは、うん、と短く頷いてみせる。

 すると今度は、鋭い視線がこちらへ流れてきた。「じゃあ」とけわしい表情のまま口を開いたそのクラスメイトは

「永原も教室に戻る時間はあったよな? つーかおまえ、森と一緒に体育館出てから、結構長いこと戻ってこなかった気がするけど」

 その言葉におれがなにか返すより先に、「はあ?」という心底あきれた調子の高い声が飛んできた。がたん、と椅子の揺れる音が響く。

 見ると、佐々木が立ち上がって、おれと向かい合うクラスメイトのほうに噛みつくような視線を向けていた。

「なに言ってんの吉川、ばっかじゃないの。永原くんがそんなことするわけないじゃん。ちょっと考えればわかるでしょ。永原くん、倉田さんと付き合ってるんだよ?」

「わかんねえだろ。付き合ってるからって別にあり得ないってこともねえじゃんか。つーかなんだよ、永原のときだけ」

 眉をひそめる吉川に佐々木がまた反論しかけたのを遮り、おれは口を開いた。

「いいよ、吉川」

 静かに告げれば、彼は「え?」ときょとんとした表情でこちらを見る。おれは彼の目をまっすぐに見据えた。

「怪しいって思うなら、鞄とか調べても」

 すると、それまで黙って皆のやり取りを聞いていた高橋が耐えかねたように、「ていうかさっ」と強い調子で口を挟んだ。

「ここで誰が怪しいとか言い合ってても仕方ないじゃん。もうさ、ここは公平に、みんなの鞄を点検していくってことにしない? 埒あかないよ、このままじゃ」

 彼女はぐるりと教室を見渡しながら、そこここであふれる落ち着きのない声を打ち消すよう、はきはきとした調子で告げた。

 しかし間髪入れず、「えーっ」という不満げな声が数カ所から飛んでくる。

「なに、まさか持ち物検査するってこと? 全員分の?」

「だって仕方ないでしょ。お金がなくなってるんだし、それも結構な大金なんだから。ほっとくわけにもいかないでしょう」

「や、でもさあ、見られたくないものとかもあるんだけど……」

「それが駄目なら、どうせ先生に言って先生にやってもらうけど。それよりあたしたちでやったほうがいいでしょ。あたしは漫画とか化粧品とか見つけてもほっといてあげるから」

 それでもまだ難色を示していた生徒は多かったが、結局、「みんなのお金なんだから見つからなかったら困るのはみんなでしょう」という高橋の言葉に、全員しぶしぶながら折れた。


 そうと決まれば、まずは高橋と副委員長の鞄や引き出しを他のクラスメイトが点検した。そのあとで彼ら二人が手分けし、クラスメイトたちの荷物を順に確認していった。

 皆、昼飯のことなどとっくに頭から抜け落ちているようだった。それぞれ、教室を見渡したり友人たちと会話を交わしたりしながら、自分の番が回ってくるのをじっと待っている。

 もちろんこの中にやましいことがある人間などいないのだから、落ち着きはないものの、教室内に流れる空気はいたって呑気なものだった。

 ただ倉田だけが、「あーあ、面倒くさい」などと誰かが不満の声をこぼすたび、いちいち表情を強張らせ、決まり悪そうにうつむいていた。



 クラス内にふたたび張り詰めた空気が漂い始めたのは、昼休みをほぼ丸々使い、ようやく全員分の荷物を点検し終えたときだった。

「ねえ倉田さん、ほんとのほんとになくなったの? 集金袋」

 結局どこからも見つからなかった校納金に、ふいにそんな疑いの声が倉田へ飛ぶ。

 倉田は驚いたように顔を上げると、何度も首を縦に振った。

「ほ、本当だよ。体育の前までは、たしかに、あったの」

「じゃあなんで見つからないんだろ。ていうか、このまま見つからなかったらどうなるのかな、あたしたちのお金」

 一人の女子生徒が何気なく口にした言葉に、またざわめきが広がる。先ほどまでより、いくぶん苛立ちを含んだざわめきだった。

 そんな中で佐々木がふいに

「だいたいさあ、困るよね。こういうの」

 と突き放すような調子で口を開き、倉田がまたびくりと肩を震わせた。

「佐々木さん」と咎めるように高橋が名前を呼んでも、佐々木は気にした様子もなく

「お金の管理はしっかりしてもらわないとさあ。しかも自分一人のお金じゃなくて、クラスみんなのお金なわけでしょ」

 刺々しい言葉に倉田は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、顔を伏せる。それから、「ごめん、なさい」と蚊の鳴くような声で呟いた。

「ちょっと、佐々木さんっ」見かねたように、高橋がもう一度口を挟む。

「やめなよ、倉田さん責めたってどうしようもないでしょ。だいたい悪いのは全部盗ったほうなんだから。それより今は、早く集金袋を見つけないと」

「見つけないとって言っても、どこにもなかったじゃない。クラス全員の鞄も引き出しもロッカーも点検したのに。これ以上どこ探すの」

 苛々した調子で突っ返された佐々木の言葉に、高橋がちょっと困ったように口ごもる。教室全体を包む空気も、どことなく硬く苛立ったものになっていくのを感じながら、「……じゃあ」とおれはゆっくり口を開いた。


 その声は騒々しい教室にも奇妙にくっきりと響いて、一瞬だけ飛び交う声が止む。

 倉田も視線を上げると、どこか縋るようにこちらを見た。

 おれはそんな彼女の顔を少しだけ眺めてから、高橋のほうへ視線を移す。そうしていかにも助け船を出すように

「――隣のクラス、とか」

 さり気ない調子で、切り出してみた。

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