第14話 いらない

 翌朝も、倉田は始業時間の三十分前には登校してきた。

 教室に入る前、入り口のところでいったん足を止めた彼女は、露骨に警戒した様子で教室を見渡す。そうしておれの姿を見つけると、ふっと表情をゆるめ、「永原くん」とほっとしたように呟いた。

 おれは「おはよう」と笑みを向けてから

「大丈夫だよ。今日は何にもないよ」

 倉田は、うん、と小さく頷いて、ようやく教室に入る。それから自分の席へ向かうと、昨日までより少し脚の高くなった机に鞄を下ろした。


 おれは鞄から昨日集めた校納金を取り出すと、それを手に倉田のもとへ向かった。そうして、「はいこれ」と茶封筒に入れたそのお金を差し出せば、彼女がきょとんとした表情で顔を上げたので

「校納金。昨日でだいたい三分の二くらいは集まったと思うけど」

 言うと、倉田はようやく思い出したように、あ、と声を上げた。

「ご、ごめんね」早口に謝りながら、あわてて茶封筒を受け取る。

「もうそんなに集めてくれたんだ。ありがとう」

「うん。あとは倉田が前日に集めてた分を合わせたら、ほとんど全員分集まったんじゃないかな」

「そうだね」

 相槌を打ってから、倉田はクラス用の集金袋と集金表を取り出す。そうして今し方校納金を渡された分のクラスメイトにチェックを入れていく彼女の手元を眺めながら

「そういえば今日、二組と一緒にやるんだって。体育の授業」

 何気なく切り出してみると、一瞬だけ彼女の手がぴたりと止まった。顔を上げる。

「二組と?」

「うん。なんか二組のほうの体育の先生が入院しちゃったらしくて。だから今日だけじゃなくて、しばらくは二クラス合同でやるらしいよ」

 言うと、少し間を置いてから、「そう、なんだ」とちょっと強張った調子の相槌が返ってきた。


 そのときふいに後方の戸が開いた。

 目をやると、三人の女子生徒が連れだって教室に入ってくるところだった。

 静まりかえっていた教室が途端ににぎやかになる。彼女たちはこちらに気づくと、「おはよう、永原くん、倉田さん」と愛想の良い笑顔であいさつをした。

 おれたちも順に同じ言葉を返す。そこでやり取りは終わるかと思ったら、そのうちの一人が

「倉田さん、もう体調は大丈夫?」

 と倉田へ向けて質問を続けた。

 だいぶ思いがけないことだったらしく、倉田は驚いたように「へっ?」と声を上げる。それから軽く緊張した様子で姿勢を正し

「あ、うん、もう大丈夫だよ」

 と早口に頷いた。「よかった」と彼女はにっこり笑う。それから優しい口調のまま

「ねえ倉田さん、なにか困ったこととかあったら遠慮なく言ってね?」

 いくらか唐突に、そんな言葉を続けた。

 これまではあまり話しかけてくることのない生徒だったからか、倉田はちょっと戸惑った様子で頷いていたけれど、彼女のほうに気にした様子はなかった。

 見ると他の二人もなんとなく気遣わしげな視線を倉田へ向けていて、どうやら佐々木がしっかり仕事をしてくれたらしいことを、おれはすぐに察した。



 その日の体育は四限目だった。いつもより少し窮屈だった更衣室で体操着に着替えて体育館へ向かえば、高橋が一人で授業の準備をしている姿を見つけた。バドミントンのラケットが詰められたカゴを、重たそうに両手で抱えて運んでいる。

 おれは彼女のもとへ歩いていくと、「手伝おっか」と声を掛けて一緒にカゴを持った。「わ、ありがとう」と高橋は柔らかく笑って片手を離す。そうして二人でカゴを体育館の隅まで運びながら

「ねえ高橋、昨日のことだけど」

 ちょっと真剣な口調になって切り出せば、高橋はきょとんとしてこちらを向いた。

「昨日のこと?」

「ほら、倉田の机の」

 言うと、彼女はふっと真顔に戻った。うん、と低い声で相槌を打つ。

「もしかして、なにかわかったの?」

「多分、佐々木じゃないよ。あれやったの」

「え?」

 唐突な言葉に、高橋は素っ頓狂な声を上げて足を止めると

「どうしてわかったの?」

「おれ、昨日話してみたんだ、佐々木と。で、そのときの反応見てわかった。本気で驚いてるみたいだったし」

 言うと、高橋は少し眉を寄せて

「それだけで、絶対に佐々木さんじゃないって言い切れるの?」

 と怪訝そうに質問を重ねた。おれは、うん、とできるだけはっきりした調子で頷いてみせる。それでも高橋はまだ納得できない様子だった。「でも」と難しい表情で首を捻り

「あたし本当に、他には誰も思い当たらないんだけどなあ。うちのクラスで、倉田さんにあんなことしそうな人って」

 呟きながら、運んできたカゴを床に置いた。

「うちのクラス」とおれは口の中で彼女の言葉を繰り返す。それから、怪訝な表情を浮かべている彼女のほうを向き直り

「うちのクラスとは、限らないんじゃないの」

 と何気ない調子で返してみた。

「もしかしたら、他のクラスのやつかもしれないし」

 続けると、高橋はおれの顔を見つめて何度かまばたきした。

「……たしかに、そうだよね」

 やがてけわしい表情になった彼女は、ため息混じりに声をこぼすと

「他のクラスの人って可能性もあるのか。あたし、なんとなく犯人はうちのクラスの誰かなんだろうなって勝手に思いこんでたけど」

 おれは曖昧に相槌を打ってから、何とはなしに皆が集まっているほうへ視線を飛ばす。いつの間にか、ほとんどのクラスメイトが着替えを済ませて体育館に出てきていた。倉田の姿も見つけた。

 相変わらずクラスの女子にはうまく溶け込めないようで、皆から少し離れたところにぼんやりした様子で一人立っている。

 クラスメイトの輪に入れないことについてはもうとっくに慣れているみたいだったけれど、ぼうっと遠くへ投げられた彼女の視線は、久しぶりに見るような、いやに寂しげなものだった。

 何気なく彼女の視線の先を辿ってみる。

 反対の壁側に、二組の生徒たちが集まっていた。中には当然羽村と八尋もいて、二組のクラスメイトたちと楽しそうに談笑している姿が、小さく見えた。



 気分が悪いとでも言って授業を抜けようとしていた矢先、ちょうどバドミントンの試合をしていた同じチームの一人が、転んだ拍子に足を捻ってくれた。

 たいした怪我ではないようだったけれど、おれはいかにも心配でたまらないといった振りをして、保健室に行くという彼に付き添い体育館を出た。

 先生に彼を渡すと、さっさと保健室を出て廊下を反対方向へ進み、階段を上る。そうして一人、誰もいない二年一組の教室に戻った。


 暖かな日差しに満たされた教室では、白いカーテンだけが風にあおられてゆっくりと揺れていた。廊下の向こうから、古文を朗読する声がかすかに聞こえてくる。それ以外はなんの喧噪もない。

 いつになく長閑な空気の流れる教室内で、おれは自分の席へ向かい、鞄を開ける。そしてそこからビニール袋を取り出すと、今度はそれを手に廊下側の席へ向かった。

 机に掛けられていた倉田の鞄をそっと手に取る。集金袋は、すぐに見つけることができた。

 取りだそうとしたとき、羽村と八尋を見つめる彼女の寂しそうな目が、一瞬だけまぶたの裏に弾けた。

 途端、じわりとした苦みがまた喉の奥で広がる。おれは軽く唇を噛んでから、振り払うように教室を出た。


 彼女がどうしても吹っ切れないのなら、おれが代わりに断ち切ってあげればいい。いつまでも過去に囚われている必要なんてない。彼女はこれから、おれと生きていくのだから。あいつらはもういらないのだ。とっくに。

 隣の教室を覗くと、当然そこにも人の姿はなく、しんと静まりかえっていた。羽村の席も八尋の席も、昨日のうちにしっかり確認していた。迷うことなんてなかった。もういい加減、幼なじみには退場してもらおうと、そう思った。

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