第13話 噂
結局その日は教室に戻ってくることなく早退した倉田の代わりに、二限目が終わったあとの休み時間、おれが校納金を集めた。
廊下側の席から順に回っていると、佐々木の席に来たところで
「あれ? 永原くんって集金係だったっけ」
と彼女が怪訝そうに首を傾げたので、おれは、いや、と首を横に振った。
「本当は倉田なんだけど、今日早退しちゃったから、おれが代わりに集めてるだけ」
言うと、ふうん、と佐々木はちょっと眉を寄せて相槌を打った。
それから机の横に掛けていた鞄を膝の上に載せながら
「なんでこういう日に限って早退するんだろうね、倉田さん」
軽い調子で、さらっとそんなことを呟いた。
ああ、高橋の言ってた刺のある言い方ってこういうことかとぼんやり納得しながら、おれは曖昧に笑っておく。それから差し出された集金袋を受け取り、礼を言って席を離れようとしたとき
「倉田さん、なんで今日早退しちゃったの?」
思い出したように佐々木が訊いてきたので、また足を止めた。
彼女のほうを向き直る。そうして、朝になって急に具合が悪くなったらしくて……と今日でもう三度目になる説明を繰り返そうとして、ふと思い直した。
「……ねえ佐々木」
改まって口を開けば、佐々木は「ん?」ときょとんとした表情でこちらを見る。おれはそんな彼女の目をまっすぐに見据えると、いやに真面目な口調で
「ちょっと、いい?」
と続けた。
佐々木を連れて306教室へ向かうと、高橋の言っていたとおり、赤い塗料で汚れた机はその教室の隅にぽつんと置かれていた。
どこにあろうとその赤色が目に焼きつくことは変わらず、佐々木はおれがなにか言うより先に、「うわっ、なにこの机!」と今朝の高橋と似たような声を上げると、すぐにその机のほうへ駆け寄っていった。
そうして意味もなく机の周りを一周してから、指先でおそるおそる固まった塗料に触れていた。
「これ、倉田の机なんだよ」
静かに告げると、佐々木は驚いたようにこちらを振り向いた。
「倉田さんの?」
「うん。朝来たらこうなってて」
佐々木は無言で何度かまばたきをしてから、また机のほうに視線を戻した。「え、それじゃあ」と頭の中を整理するように呟く。
「倉田さんへの嫌がらせってこと? これ」
「多分」
重々しく頷けば、彼女はしばし呆けたように机を眺めたあとで、さすがに気の毒そうに眉を寄せた。
ふたたびこちらを振り向き、「このこと」といつになく真面目な口調で質問を続ける。
「クラスのみんなは知ってるの?」
「いや、おれと倉田と高橋以外は知らない。みんなが登校してくる前に、高橋がこの机ここに運んでくれたから」
「なんでわざわざ運んだの?」
「この机じゃ授業受けられないし、それに教室に置きっぱなしにしてたら大騒ぎになるだろうって、高橋が」
「ああ、そっか、そうだよね」
佐々木は納得したように呟いてから
「じゃあこのこと知ってるのって、永原くんと倉田さんと高橋さんの他には、あたしだけ?」
「うん、今のところ」
頷くと、佐々木はちょっと不思議そうに首を傾げ、おれの顔を見た。
「なんであたしに教えてくれたの?」
おれは彼女の目を見つめ返すと、曖昧な笑みを浮かべた。少し間を置いてから、「やっぱり心配になったから」と遠慮がちに返す。
「おれもできるだけ気をつけるようにしようとは思うし、高橋もそうするって言ってくれたけど、それでもずっと気を配ってるわけにはいかないし。よかったら佐々木にも、ちょっと気をつけて見ていてほしいなと思って。倉田のこと」
そう言うと、佐々木はなんとなく複雑そうな表情を浮かべていたけれど
「女子でこういうこと頼める人って、あんまりいなくて」
と続けた途端、わかりやすく彼女の表情がゆるんだ。
え、と驚いたように、けれどはっきり嬉しさの滲む声で聞き返す彼女に
「でも佐々木のことならよく知ってるし、信用できるから」
穏やかに笑って、だめ押しとばかりに重ねてみた。
佐々木はしばし無言でおれの顔を見つめていたけれど、やがて気を取り直したように笑みを浮かべると、「わかった」と力強い調子で頷いてみせ
「それなら、あたしもできるだけ気をつけて見てるようにするよ。倉田さんのこと」
「ありがとう」
笑顔で返せば、彼女は少し照れたように目を伏せ指先で頬を掻いた。
しかし、すぐにまた思い出したように顔を上げると
「ねえ、このことって、クラスのみんなは知らないんだよね?」
改めて確認するようにそう訊いてきた。おれは、うん、と頷く。
「おれと倉田と高橋の三人以外は、誰も」
「じゃあ永原くんが教えてくれたのって、あたしだけなんだよね?」
「うん、佐々木だけ」
頷くと、そっか、と彼女は宙に目をやって呟いた。状況が状況だけに深刻な表情を作ろうとしているらしかったけれど、その口元は嬉しさを隠しきれない様子で少しほころんでいる。
だけどおれはなにも気にしない振りをして、「ねえ佐々木」と言葉を続けると
「このことは、あんまりみんなに言わないでね。大きな騒ぎになると、倉田、よけいに傷つくかもしれないから」
きっとほとんど意味はないであろう忠告を、いちおう付け加えておいた。
佐々木から返ってきたのも、「うん、おっけーおっけー」というまったく重みの伴わない生返事だったけれど、とくに気にすることはなく、おれはそれ以上なにも言わなかった。
その日の夜、倉田に電話をかけた。
大丈夫かと尋ねれば、彼女からは保健室で話したときよりだいぶ覇気の戻った声で、大丈夫だと返ってきた。
それから今日の授業の内容や出された宿題について簡単に教えたあとで
「明日は学校来られそう?」
尋ねると、少し間があってから、倉田は、うん、と頷いた。
『なんだか明日休んじゃったら、そのまま、ずるずる休み続けちゃいそうだから』
「そっか」
相槌を打ってから、「大丈夫だよ」とおれは優しい声で続ける。
「あんなのただのイタズラだよ。多分もうなにもないよ」
言うと、倉田はいくらか穏やかさを取り戻した声で、うん、と頷いた。それから
『ありがとう、永原くん』
保健室で何度も繰り返したその言葉を、再度口にした。おれもまた穏やかな相槌を返す。
そこでふと言葉が途切れた。しばらく沈黙が続いたあとで、やがて倉田は、『あの』と少し緊張した様子になって口を開き
『今度の、県大会なんだけど』
出し抜けに、これまでの会話の流れをまったく無視した単語を口にした。
きょとんとして「え?」と聞き返せば
『やっぱり私、応援に行くの、やめるね』
彼女ははっきりとした調子で、そんな言葉を続けた。
おれは黙って窓の外へ目をやった。
「そっか」と静かに相槌を打てば、『うん』と妙に意気込んだ調子の声が返ってくる。彼女の声にはどことなくおれの機嫌を取ろうとするような色があって、こういうところが羽村に言わせれば気味が悪いのだろうか、なんて頭の隅でちらっと考えながら
「ねえ倉田、明日さ」
『ん?』
「待ってるから、絶対来てね。学校」
また少し間ができた。やがて、うん、と落ち着いた声で頷いた彼女は
『大丈夫。永原くんがいてくれるなら、怖くないから』
聞き慣れた、小さな子どもみたいな声で、そう言った。
通話を切ってから、おれは机の一番下の引き出しを開ける。今朝無造作に突っ込んでおいた、空っぽの塗料の缶。ビニール袋にくるまれたそれを取り出し、今度は通学鞄を拾う。
きっと明日には、佐々木がそれなりに噂を広めてくれていることだろう。たとえ広まっていなかったとしても、そう問題はない気がした。どうせ明日になれば、否応なしに大きな騒ぎになるのだから。
思って、塗料の缶を鞄に入れる。それから、彼らはどんな顔をするのだろう、と、どうでもいいことを頭の隅で少しだけ考えた。
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