第12話 過去

 教室を出ると、羽村はまっすぐに廊下を進み、突き当たりにある鉄の扉を開けた。

 途端、吹きつけてきた冷たい風におれは思わず顔をしかめる。

 けれど羽村がそのまま扉の外へ足を進めたので、仕方なくおれも両手を制服のポケットに押し込んでから、彼に続いて渡り廊下に出た。


 扉が閉まれば、あちこちの教室から響いていた明るい喧噪が途端に遠くなり、辺りは静まりかえる。

 羽村はそこでようやく足を止めると、こちらを振り向いた。

「歩美がさあ」前置きもなしに、いきなり口火を切る。

「今度の県大会、応援に行くのやめるって言い出したんだよ、昨日」

 奇妙に平坦な声で言われた言葉に、おれは彼の顔を見た。

 とりあえず、ふうん、と相槌を打てば、羽村はちょっと眉をひそめて

「永原さ、歩美に何か言ったの」

 疑っているというよりほとんど確信しているような口調で、そう訊いてきた。

「何かって?」

「だから、応援には行くなとか、そういう感じの」

「倉田がそう言ったの?」

 重ねて尋ねると、羽村はけわしい表情でため息をついてから

「あいつからはなにも聞いてない。つーか、なにも言わないから気になったんだよ。この前まで行くって言ってたのに、昨日になって急にやっぱり行かないって言い出して、理由訊いてもはっきりしないし、ただ気が変わったとかそんなことばっか言って」

「倉田がそう言ってるんなら、そうなんじゃないの」

 おれは小さく笑って、素っ気なく返した。

「別に、この前まで行く気だったとしても、急に気が変わることくらいあるでしょ。誰だって」

「でも、あいつはそういうやつじゃない」

 間髪入れずはっきりとした調子で返された言葉に、一瞬だけ右頬が引きつる。

 黙って羽村の顔を見れば、彼はなにか試すような目でじっとこちらを見据え

「一回行くって約束したのに、そんな気まぐれで、やっぱり行かないとか言い出すようなやつじゃないよ」

「……そういうやつじゃないって」

 おれはちょっとうんざりした調子で彼の言葉を繰り返してから

「そんなこと言い切れるほど、羽村は倉田のこと知ってるの」

 言うと、羽村はなんだか怪訝そうに眉を寄せた。「そりゃ知ってるよ」と、なんの迷いもない口調で返す。

「十年一緒にいたんだし、あいつのことならだいたい」

 十年、とおれはまた口の中で繰り返した。

 ふいに喉の奥でじわりとした苦みが広がる。黙ったまま足下へ視線を落とすと、羽村は「つーかさ」とため息混じりに言葉をつなぎ

「別にどうしても歩美を応援に来させたいってわけじゃなくて、前からちょっと気になってたんだよ。昨日、永原が歩美の携帯持ってたこともだけど、あいつさ、俺と話しているとき、いっつも永原の顔色ばっか窺ってる感じで、なんかそれ、傍から見てると」

 羽村はそこで迷うように一瞬間を置いてから

「ちょっと、気味悪い」

 だけど嫌悪を隠しもしない声で、はっきりとそう結んだ。

「気味悪い」とおれが彼の言葉を反芻するように繰り返せば、彼は強く相槌を打って

「なんか普通じゃないよ、お前ら。歩美がいっつも永原に遠慮して、びくびくしてる感じで」

「……ねえ羽村」

 おれはなんだか、急に物わかりの悪い子どもを相手にしているような気分になって口を開くと

「倉田はさ、おれのことが好きなんだよ」

 静かに告げれば、羽村は露骨に眉をひそめておれの顔を見た。おれは気にせず口元でだけ小さく笑うと

「それだけだよ。別に何にもおかしくない。だいたいさ、羽村の目にどう映ろうが羽村が口出しするようなことじゃないでしょ。おれと倉田のことなんだから。羽村には関係ないよ」

「関係なくはないだろ」

 羽村は眉を寄せたまま言った。

「歩美は俺の幼なじみだし」

 なんのためらいもなくそんなことを口にする彼に、唇の端からはため息のような笑いが漏れる。今更、とあきれて口を開きかけたとき、「つーかお前」と羽村が刺々しい調子で言葉を続けた。

「本気でそう思ってんのか?」

 なにを訊かれたのかよくわからず、「なにが」と聞き返せば

「歩美は本当にお前のことが好きだって、本気で思ってんのか」

 ふっと浮かべていた笑みが剥がれ、真顔に戻る。

 黙って彼の顔を見れば、羽村は放り出すような口調で、「俺からはあんまりそんなふうに見えねえけど」と続けた。

「お前と歩美、どう見ても対等じゃないし。歩美はお前が好きだから一緒にいるっていうより、むしろ、お前が怖くて離れられないだけにも見えるんだけど」


 おれはしばし無言で彼の顔を見つめた。

 羽村も挑むような目でじっとこちらを見据えている。自分の正しさをみじんも疑わないその目を眺めているうちに、やがて、喉奥からは冷たい笑いがせり上がってきた。口元が歪む。

「なんか、それさ」押されるまま口を開くと、奇妙な余裕が胸に湧いた。

「羽村にだけは言われたくないよ」

 笑いながら言うと、羽村は片方の眉を跳ね上げ、「は?」と聞き返してきた。

 おれは顔を横に向け、小さく見える校門のほうへ視線を飛ばした。十人ほどの風紀委員が校門脇に並んで、忙しなく登校してくる生徒たちにあいさつを向けている様子が見える。

 八尋の姿もすぐに見つけた。わざわざ軽く頭まで下げて律儀にあいさつをしているらしい彼女の姿を眺めながら、「ねえ羽村」とおれはゆっくり言葉をつなぐ。

「おれがいなかったら、羽村は八尋と付き合うことなんてできなかったと思わない?」

 唐突に変わった話題に、「は?」と羽村がもう一度怪訝な声を立てる。

「だって」おれはにこりと笑い、かまわず続けた。

「羽村は十年間八尋と一緒にいて、その間、八尋が羽村をそういうふうに意識したことは一度もなかったわけでしょ。だったら多分この先も絶望的だったよ。でも今、羽村が八尋と付き合えてるのは、あのとき羽村が、八尋が傷心のところにつけ込んだからじゃないの」

 言うと、羽村は一度大きく目を見開いた。

 短く息を吸ってから、「お前」と強張った声で口を開く。

「知ってたのか?」

 おれは彼のほうへ視線を戻した。薄い笑みは崩さないまま、平淡に聞き返す。

「なに、八尋がおれのこと好きだったってこと?」

「知ってて、鈴にあんなこと言ったのか」

 おれの質問には答えず、羽村は押し殺した声で重ねた。

 うん、とおれは至極軽い調子で頷いてから

「だって言わないわけにいかないじゃん。おれは八尋のことなんてなんとも思ってなかったし、八尋がおれのこと好きだからって、別に絶対それに応えてやらないといけない義理もないんだし。何にも悪いことはしてないと思うけど」

「でもお前、歩美と鈴が仲良いことくらい知ってただろ」

 羽村はまばたきもせずにおれの顔を見つめたまま、さらに重ねた。

「お前が歩美と付き合えば、あの二人の関係がこじれるってことくらい、想像ついたんじゃねえの」

「なにそれ。おれに責任転嫁しないでよ」

 続いた言葉に、今度こそ唇の端から心底あきれた調子の笑いが漏れる。

「二人の関係がこじれたのは、あの二人の問題でしょ。たしかにおれのことが原因だったのかもしれないけど、八尋が倉田を許してあげればそれで済む話だったんだし。だいたい、二人の側には羽村だっていたのに」

 おれはそこで一度言葉を切ると、口元に薄い笑みを戻し、続けた。

「羽村まであっさり八尋のほうについて倉田のこと責めたから、ここまでこじれちゃったんじゃないの。羽村はさ、よくわかってたはずでしょ。十年間一緒にいたんだし、倉田が親しく付き合ってる人間なんて羽村と八尋くらいしかいなくて、だから羽村と八尋が倉田を見捨てたら倉田はひとりぼっちになっちゃうことも、全部ちゃんとわかってて、それでも羽村は倉田を突き放して八尋のところに行ったんじゃないの」

 身動き一つせず立ちつくしている羽村に、ひどいね、とおれはこれ以上なく素っ気ない調子で告げた。

「別に羽村まで倉田を責めることなかったじゃん。それより二人の間に立ってうまく取り持ってあげればよかったのに。なんでそうしてあげなかったの? ああ、それより今は八尋が傷ついてるからチャンスだって思ったの? 今のうちにしっかり慰めて手に入れとかなきゃって? 八尋が倉田を許していないうちに倉田にも優しくしてるのは面倒だったから?」

 畳みかけるように続けると、羽村はなにか苦いものを飲み込んだみたいに顔をしかめ、足下へ視線を落とした。「違う」と押し出すような声で呟く。

「ただ、歩美には永原がいると思ったから」

 うん、とおれはますます笑みを深めて相槌を打った。それから羽村がなにか言葉を続けるより先に

「そうだよ。羽村が倉田を見捨ててから、おれがずっと倉田の傍にいた。何ヶ月も、羽村が倉田のことなんて気にも掛けないで、八尋と好きなようにやってる間も、ずっと。その間に倉田が、羽村の知ってる倉田とは変わってたって、別に不思議じゃないでしょ。ねえ羽村」

 羽村はゆっくりと視線を上げ、おれの顔を見た。おれもまっすぐに彼の目を見つめ返し、にこりと笑みを向ける。

「一回見捨てたくせに、今更、出てこないでよ」


 羽村はじっと黙っておれの顔を見ていた。

 それから数秒だけ待ったけれど、彼から言葉が返ってくることはなかったので、おれはそのまま踵を返す。校舎へ戻る扉に手を掛けた。

 十年間。重たいドアノブを引きながら、また思う。

 十年間、ずっと一緒にいた。それが何だというのだろう。今更過去に戻って、その十年間をおれが埋めることなんてできないけれど。だからその分、必死に塗り重ねてきたのだ。この数ヶ月間、ずっと。その時間は決して意味のないものではない。だから絶対に。

 返すものか、今更。

 心の中で呟いて、ドアノブから手を離す。途端、扉の閉まる音がいやに大きく耳に響いた。一拍遅れて、あふれるような喧噪も戻ってくる。

 彼女の制服の塗料はそろそろ乾いた頃だろうか、とおれは頭の隅でぼんやり考えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る