第11話 てのひら
保健室に入りベッドに腰掛けても、倉田は相変わらず青ざめた顔でうつむいたままだった。
「大丈夫?」
彼女の前に立ち、どう見ても大丈夫そうではない彼女の顔を眺めながら、それでもいちおう問いかける。
倉田は、無言でかすかに首を縦に動かした。膝の上に置かれた彼女の右手が、指先が白くなるほどの強さで、ぎゅっとスカートを握りしめているのが見えた。
「倉田、気分悪いなら、今日はもう早退したほうがいいんじゃないの」
続けてそう提案してみると、少し間があってから、彼女は首を横に振った。「大丈夫」と消え入りそうにか細い声で答える。
「今日、校納金の集金日だから。お金、集めないと、いけないし」
こんなときでもそんな殊勝なことを言い出す彼女に、おれは思わず苦笑して、「大丈夫だよ」と優しく返した。
「そんなの、おれが代わりにやっとくよ」
「でも」
「前から手伝うって言ってたじゃん。そういう心配なら大丈夫だから、倉田はゆっくり休んでていいよ」
言うと、倉田はようやく顔を上げてこちらを見た。どこかぼんやりした目で、じっとおれの顔を見上げる。
おれは優しく微笑みかけると、手を伸ばして彼女の髪に触れた。そうして何度かゆっくりと撫でているうちに、崩れ落ちるように倉田の表情が歪んだ。唇の端から、掠れた吐息が漏れる。
「……永原、くん」
やがてふたたび目を伏せた彼女は、一度唇を噛んだあとで、おもむろにおれの手を掴んだ。途方に暮れた小さな子どもが、親に縋りつくような握り方だった。
短く息を吸う。それから、「やっぱり、私」と、絞り出すようにして口を開いた。
「駄目、なのかな、どうしても」
それはおれに向けてというより、独り言に近い口調だった。
なにが、と聞き返せば、彼女はもう一度軽く唇を噛んで
「私ね、ずっと、気をつけてたんだ。誰かを傷つけたり、嫌な思いさせたり、しないようにしようって。前にあんなことがあって、怖くなって、だけどきっと、今からでも、そうやって頑張っていれば大丈夫だって、また嫌われたりはしないって。だけど、やっぱり私」
言葉に詰まったように、そこで倉田の声が途切れる。おれは黙ってもう片方の手を彼女の手に重ねた。
「大丈夫だよ」
静かに口を開けば、倉田はゆっくりと視線を上げ、おれの顔を見た。
おれはまっすぐに彼女の目を見つめ返した。優しく笑みを向ける。
「もし倉田になにかあっても、おれがちゃんと助けてあげる。だから何にも心配することないよ。おれは絶対、倉田を見捨てたりしないから」
倉田は息を押し殺すように黙ったまま、じっとおれを見ていた。
やがて薄く開いていた唇を結び、視線を落とす。それから小さく頷いた。
「ありが、とう」
かすかに震える声で告げる。うん、と静かに相槌を打てば、倉田は足下を見つめたまま同じ言葉を繰り返した。
「ありがとう、永原くん」
おれももう一度、うん、と頷く。同時に、おれの手を握る彼女の手に少し力がこもった。他に言葉が見つからないみたいに、倉田が三度目の「ありがとう」を繰り返そうとしたときだった。
ふいに扉が開く音がして、彼女は弾かれたようにおれの手を離した。
振り返ると、高橋が戸口のところに立っていた。こちらに目を留めた彼女は、なぜかちょっと罰が悪そうな表情になり「あ、ごめん」と謝ってから
「倉田さんの鞄、教室に置きっぱなしだったから一応持ってきたよ。倉田さん、顔色悪いみたいだったたから、早退するんじゃないかと思って」
そう言って右手に持っていた鞄を掲げてみせた。
本当によく気が利く子だなと感心しながら、おれは「ありがとう」と言って鞄を受け取る。
「机、もう代えてきてくれたの?」
「うん、代えてきた。とりあえず306教室に置いてるよ。あそこ、滅多に使わない教室だし、当分は大丈夫かなって」
答えてから、高橋はふっと倉田のほうへ目をやった。
「倉田さん、具合どう?」
優しい声色で尋ねられ、倉田はちょっと落ち着きを取り戻した様子で「大丈夫」と頷いた。それでもその顔は相変わらず青ざめていて、高橋は小さく苦笑すると
「やっぱり、早退したほうがいいみたいだね」
と今度はおれのほうを向いて言った。おれも苦笑しながら頷いた。
それからしばらくして保健室の先生がようやくやって来たので、倉田の代わりに事情を説明してから、高橋と一緒に保健室を出た。
「ねえ永原くん」
廊下を歩き出すなり、高橋が低い声で切り出した。
なに、と聞き返しながら彼女のほうを向けば、高橋は周りを気にするように素早く視線を走らせてから
「佐々木さんっているじゃない。うちのクラスに」
と唐突に一人の女子生徒の名前を出してきた。おれは、うん、と相槌を打ってから
「佐々木がどうかしたの」
「いや、あのね、これはただのあたしの憶測だから、誤解しないでほしいんだけど」
高橋は迷うようにそんな前置きをしてから
「あたしさ、たまに佐々木さんが、倉田さんにきついこと言ってるの聞いたことあるんだ。別にきついって言っても、そんなあからさまな暴言とかじゃなくて、ちょっと刺がある言い方してるとか、そんな感じなんだけど。ただあたし、前からそれがちょっと気になってて」
そこで一度言葉を切ると、高橋はふたたび辺りを見渡した。そして近くに佐々木や佐々木の友人がいないことを確認すると
「多分ね、佐々木さんって、永原くんのことが好きなんだと思うの」
よりいっそう声のトーンを落として、そんなことを言った。
おれは黙って彼女の顔を見た。どう反応すればいいのか迷って、とりあえず、ふうん、と相槌を打てば
「だからね、もしかしたら今日の嫌がらせ、あの子となにか関係があるんじゃないかって。もちろん憶測でこういうこと言うのは良くないってわかってるけどさ、でも、他に倉田さんにあんなことしそうな人って思い当たらないし」
高橋は難しい表情でそう言って首を捻った。
おれが黙っていると、「まあ、今そんな根拠のないこと考えても仕方ないんだけど」と彼女は話題を切り上げるように苦笑して
「とりあえず今は、倉田さんが落ち着くまで待ったほうがいいよね。あの様子じゃ、今日は早退しちゃうんだろうけど」
うん、と相槌を打ってから、おれは改めて彼女のほうを向いた。
「今日はいろいろありがとう、高橋」
言うと、高橋は朗らかな笑顔で首を横に振った。それから
「あたしもこれから、倉田さんのこと気をつけて見てるようにするから」
どこか大人びた表情で、そう言った。それにもう一度「ありがとう」と返せば、彼女はふと悪戯っぽい笑顔になって
「でも倉田さんには永原くんがいてくれるんだから、安心だよね」
と続けた。おれはまたなんと返せばいいのか迷って、「そうかな」と曖昧に相槌を打つ。
すると高橋は「そうだよ」と意気込んだ調子で頷いてみせ
「永原くんがずっと傍にいて守ってくれるなんて、倉田さんは幸せ者だよ。永原くんさ、知らないでしょ。うちのクラスの女子、みんな言ってるんだよ。もうね、倉田さんうらやましいうらやましいって」
楽しそうにそんなことを喋っていた彼女は、途中でふと言葉を切った。それからちょっとけわしい表情になり、「まあ」と呟く。
「中には、うらやましいじゃなくて本気で妬ましいって思ってる子もいるのかもって、今日心配になっちゃったけど」
おれはまた少し迷ったけれど、結局、その言葉には曖昧な相槌だけ打っておいた。
それから職員室に用事があるという高橋とはそこで別れて、教室に戻った。
数分前には閑散としていた教室にも、いつの間にかだいぶクラスメイトの姿が増え騒がしくなっていた。
何とはなしに倉田の席のほうへ目をやってみる。そこには、周りの机と何ら変わらない、きれいに木目の見える机が置かれていた。よく見れば他の机より少し脚が高いのがわかるけれど、気になるほどではないし、言われない限り誰も気づかないだろう。床に散っていたはずの赤い塗料も、とくに目に付かない程度にまで拭い取られていた。実際周りのクラスメイトたちはなにも気にした様子はなく、いつもどおり雑談を続けている。
ほとほと感心してしまう高橋の手際の良さに、思わずため息をつきながら自分の席へ向かおうとしたとき
「永原」
ふいに後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、羽村が教室の入り口のところに立って、まっすぐにこちらを見ていた。ふっと真顔に戻る。
「なに」
短く聞き返せば、彼からは同じくらい愛想のない口調で
「なあ、ちょっと話があるんだけど」
と返ってきた。
「倉田なら、今保健室だよ」
言うと、羽村は一瞬なにを言われたのかわからなかったようにまばたきをしてから
「いや、歩美じゃなくて、お前に」
はっきりとした調子で、そう言った。
おれは踵を返しかけた足を止め、彼の顔を見た。羽村もまっすぐにおれの目を見据え、それからさっきと同じ調子で
「お前に、話があるんだけど」
と繰り返した。
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